第206話

 一足先に着替えを終えたフィリップは、未だ酒精が残りぼんやりと霞んだ頭で、大通りをふらふらと彷徨っていた。

 明確な目的があるわけではなく、ただの時間潰しだ。


 ルキアとステラはシャワーまでしてくると言っていたし、特にルキアの恥じらいようは、平静を取り繕っていても、抜けるように白い肌が耳まで赤く染まるほどだった。再起動にはもう少し時間がかかるだろう。


 実はフィリップも、完璧に平常とは言えない状態だ。


 飲んでもいないのに胃がむかむかするし、意識にもやがかかったように判然としない。さっきなんて、シルヴァと一緒にルキアとステラについて行って、女子用宿舎の大浴場に行くところだった。五歩と進まないうちにステラが気付いてくれたが。

 それに、足取りは辛うじて元通りだが、まだ気を抜くとふらふらする。


 「吐き気が無いのが救いだ……うぇっ。……なんか上がってきた……」


 口元を押さえ、お腹を擦りながら道を歩く。

 聖国の魔術師部隊によって清掃された大通りに、ワインの川が流れた痕跡は残っていない。僅かに香るブドウの臭いにもアルコールの気は薄く、息をしているだけで酔うことは無いだろう。


 ちらほら見受けられる酔っ払いの姿が、あの乱痴気騒ぎが白昼夢ではないことの証明だった。


 「ぼ、坊ちゃん、大丈夫かい? 水持ってこようか?」

 「あ、ありがとうございます。いただきます……」


 大通りに面したレストランの店員が、見かねたように声を掛ける。

 コップ一杯の水を呷り、お礼を言って、彷徨を再開する。店員は危なっかしい足取りを心配そうに見ていたが、何も言わずに店に戻った。この町に暮らしていると、四年に一度は見る光景だった。


 あっちへふらふら、こっちへふらふら、フィリップは大通りを練り歩く。

 屋台で買った串焼き肉を道行く他人とシェアしたり、他人同士の会話に唐突に入り込んだりと、やっていることは完全に酔っ払いだ。


 「……う」


 歩いたせいで胃が揺れたのか、また吐き気が込み上げてくる。

 慌てて路地裏に駆け込んで吐き戻すと、かなり気分が楽になった。……たぶん、これも一時的なものだろうが。


 「あー……頭いたい……」


 吐瀉物と涎と鼻水と涙と冷や汗と、顔から出るモノの大半が出た顔を、魔法の水差しこと『ウォーター・ランス』で濯ぐ。

 昼前だというのに薄暗い路地裏でこんなことをしていると、妙な虚しさが湧き起こった。


 ふらふら、ふらふらと路地裏を歩いていると、当然のようにすれ違う人とぶつかった。

 かなり体格差があり、どん、という思い衝撃が内臓と頭を揺らす。吐いた直後でなければ危なかった。


 「あ、すみません……」


 へへへ、と誤魔化すように笑って立ち去ろうとするフィリップだが、その肩をぐい、と掴まれる。


 「おい、待てよ。なんだその謝り方は、えぇ?」


 運の悪いことに、相手は四人連れで──全員がフィリップと同じように、かなり強めに酔っていた。

 フィリップより何倍も濃いアルコールの臭いを纏い、呼気が噎せ返るほど酒臭い。


 「誠意見せろよ、誠意をよぉ」

 「そうだぞー。こういう時は、金で解決すんのが一番だぞー?」


 けらけらと笑う男達に、フィリップはへらへらした笑顔を返す。


 「えー? お金とか持ってないですよー。手持ちはこれくらいでー」


 何を考えているのか、いや何も考えられていないのだが、フィリップは素直に財布を取り出して中身を数える。

 悲しいかな、中には昼食代しか入っていない。酔っ払いの男の財布の方が、三倍は重かった。


 しかし、ジャケットの前を開けて財布を取り出した時に、見えてはいけないものが見えてしまったようだ。


 「あぁ? まだなんか持ってんじゃねぇかよ」


 手が伸びる──懐中時計を留めた、銀色の鎖に。


 フィリップの目が見開かれる。


 「──


 制止の声に勢いはない。

 そこに含まれているのは、純粋な意思だけだ。威圧も恫喝も懇願も無い、ただ単純な意思の提示。


 ぱし、と乾いた音を立てて、男の手を振り払う。

 鞭を振るときの身体操作を使った動きは、フィリップより体格に優れた男の手を、いとも簡単に払いのけた。


 「痛ってぇな、クソガキが……!」


 再度、男の手が伸びる。

 物欲ではなく怒りに駆られたその宛先は、フィリップの懐ではなく首元だった。

 

 「暴力はいけませんって教わらなかったのかぁ? あぁ?」


 男はフィリップの胸倉を掴み上げ、首を傾げる。

 その胸元に、フィリップの手が力なく押し当てられていたからだ。押しのけようとする力がまるで籠っていない。単なるポーズにさえ見える。


 ──そして、


 「──流石に駄目か。非人間的だよね」


 死を宣告する死神の腕が、ゆっくりと降りた。


 「あぁ? 何言って──うっ!?」


 しかし、それは男の無事を意味しない。

 フィリップが酔いの回った頭で懸命に出した結論は「殺すのは駄目」という簡潔なもの。


 躊躇なく振り抜かれた拳──人差し指の第二関節と親指の爪を揃えて突き出した変則的な拳が、男の左目を打ち抜いた。


 「あ、っぁぁぁぁぁ! 目、目がぁ!?」


 汚れた右手をズボンで拭い、ウルミを抜き放つ。

 狭い路地裏では振りにくいが、それでも鋭い風切り音に、先端部が音速を超えたことを示す炸裂音が混じる。


 「ぶっ殺──うあっ!?」


 ぞぱんっ! と、鳥肌の立つような聞くに堪えない音を立てて、男の胸元に一条の傷が刻まれる。

 傷は浅い。だが、ノコギリや鑢で抉り取ったような汚い傷口だ。痛みと出血量は刀傷の比ではない。


 しかしアルコールが痛覚を麻痺させているらしく、強烈な怒りを湛えた左目がフィリップを睨みつける。


 「殺せ!」


 号令に戸惑いつつ、連れの男達が武器を抜く。

 と言っても、街中で携帯できる程度の短剣が精々だ。魔術師が居るようには見えないし、適当に下がりながら『萎縮』を撃っていればそれで終わる。殺すなら、の話だが。


 「うーん……どうしよう。ウルミは結構、威圧感……「攻撃されたくない感」のある武器だと思うんだけど」


 ひゅん、ぱん、ひゅん、ぱん、と手癖で弄ぶウルミが鳴り、石壁や石畳に擦れて金属音と火花を散らす。

 それは男たちに最初の一歩を踏みこませない威嚇としては十分だったが、一発や二発喰らってでもフィリップを殺すという覚悟を決めた突撃の前には無力だ。


 相手が冷静になる前に──たとえば、一人を肉壁にして突っ込んでくるとか、そういう打開策を思い付く前に状況を収めたいところだが。


 「うーん……《深淵の息ブレスオブザディープ》」


 一言の警告も無く手を伸ばしたフィリップの指向する先で、男の一人が喉を押さえて苦悶する。

 肺の中を海水で満たされ、その重さと溺水の苦痛に膝を折った。


 「なっ!? ま、魔術師か!?」

 「くそ! この野郎──ごぼっ!?」

 「な、なんだ!? どうしたんだ!?」


 四人のうち二人が地上で溺れ始め、残された二人に明確な怯えが生じる。

 構えた短剣はフィリップと自分との距離を少しでも空けようと突き出され、下半身は逃げたくて仕方がないというように腰が引けている。

 

 フィリップはそんな彼らに、安心させるように笑いかけた。


 「大丈夫、まだ死んでませんから。肺の中にある海水を抜いて、蘇生法をすれば助かります。ホントですよ? 実証済みです」


 こうやって、といつぞやの見様見真似で、悶える力さえ無くなった男の身体を転がす。

 ぐったりと脱力した身体は、70キロの水袋だ。フィリップの力では片手間には行かず、渾身の力を籠める必要があった。


 結果、


 「おぶ、うぇぇ……」


 また吐いた。しかも、倒れた男の上に。


 「あぁぁぁ……クソ。絶対お酒飲まない……」


 口元を拭い、どろどろに汚れた男から汚らしそうに距離を取る。

 どういう状況だ? いまのうちにやっちまうか? と視線だけで会話していた二人の男に、フィリップはどろりと濁った目を向けた。


 「友達じゃないの? 助けてあげなよ。僕はもう行くから……」

 「あ、あぁ……」

 「こ、殺さないのか……?」


 溺水はこの世の地獄だという者もいるほど、耐え難い苦しみを齎すという。

 それを一方的に押し付けておきながら、しかし、フィリップには一片の殺意も無かった。止めを刺すという思考すら無い。


 今のは、跳んできた羽虫を払っただけだ。

 払いのけて地に落ちた羽虫を、殊更に踏み躙って殺す必要はない。殺すことが目的ではなく、不愉快な羽音を立てなくなればそれでいいのだから。


 フィリップは間抜けな質問をした男に侮蔑の籠った一瞥を呉れ、踵を返す。


 その、直後だった。


 「テケリ・リ──!」


 聞き捨てならない、鳴き声がした。 





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