第205話
結局、ステラもフィリップとルキアと一緒に、ワイン祭りに参加することになった。
当然ながら、ステラが暗殺のリスクを許容した訳ではない。
彼女は朝食を摂ったその椅子に座ったまま、ほんの数分で解決策を開発したのだ。
店を出ると、既に祭りが始まっていて、そこかしこから「祝福あれ!」という声が聞こえてくる。祝詞というよりは、ワインを浴びせる時の決まり文句のようなものだろう。
道行く人々は服、或いは頭からワインを被って、身体の何処かを赤紫色に染めていた。
酔いが回っている者もちらほら見受けられて、そういう人は顔や手がそもそも薄赤く染まっていて、表情にもしまりがない。
道端にはワイングラスの並んだテーブルと、ワインがなみなみと入った樽が一定間隔に置かれている。
あれが所謂「聖酒」、神の祝福の代わりになるワインなのだろう。
「祝福あれ!」
ほんの十数分前に始まったはずだが、既にべろんべろんに酔って足元すら覚束ない様子のおじさんが、乱痴気騒ぎを呆然と見つめるフィリップたちに向かってワイングラスを振りかぶる。
その内容液、芳しいブドウの香りを漂わせるワインが、フィリップとルキア、そしてステラに振りまかれ──魔力障壁に弾かれて、ルキアとフィリップには一滴もかからない。
そしてステラに向かって飛んだワインは、その全てが彼女に触れる寸前で蒸発して消えた。
ステラが数分で開発した、設置型付与魔術『アクセラレート・メイル』。
彼女に触れる液体は、その寸前で分子運動を著しく加速拡散され、気化する。他の参加者への影響を最大限に排除した、このためだけに開発した魔術だ。
「祝福あれぃ! わはははは!」
聖痕者二人の冷たい視線にも気付かないほど酔っていたおじさんは、愉快そうに笑いながら別の人に祝福を分けに行った。
「……あの、ルキア? 僕らはかかってもいいというか、むしろ濡れに行くのがお祭りの本懐では?」
「…………」
「いや、無理にとは言いませんよ? ルキアが楽しめるのが一番ですから。行こう、シルヴァ!」
複雑そうな表情になってしまったルキアに苦笑しつつ、フィリップは召喚したシルヴァと一緒に街中へ駆け出した。
その数秒後に急ブレーキして踵を返したフィリップは、ポケットから懐中時計を取り出してルキアに渡す。
「すみません、水没が怖いので預かっててくれませんか?」
「……えぇ、いいわよ」
ルキアはかつて自分が贈った白銀の懐中時計を、愛おしそうに胸に抱く。
白金製の彫刻が施されたハンターケースも、そこに嵌ったグリーンスピネルも、よく手入れされて輝いている。それでいて目を凝らすと手入れに使った布の跡が僅かに見えて、普段から使っていることと、大切にされていることがよく分かった。
少し遠くで、道行く人とワインの浴びせ合いに興じ始めたフィリップを、ルキアとステラは同質の感情を滲ませて眺める。
そこかしこから「祝福あれ!」という掛け声が聞こえ、徐々に空気が酒気を帯びてくる頃には、石畳を赤紫色の液体が薄く覆い始めていた。陽光を反射してきらきらと光る様は、赤紫の鏡のようだ。
二人が立っているレストランの玄関口は数段高くなっているから靴は汚れないが、フィリップとシルヴァはワインを浴びた頭や胸は勿論、ズボンの脛あたりまでびしょ濡れだ。その不快感も気にせず騒いでいるのを見ると、参加してよかったと感慨が湧く。
フィリップはまだ11歳だ。
子供はああして、無邪気に笑っているのが一番いい。それが自然な、あるべき姿だ。
だから、世界の全てを蔑むような嘲笑も、遥かな視座から見下ろす冷笑も、自分自身すら無価値と断じる諦観も、この一時だけは忘れて欲しい。
何もかも忘れて、ただ楽しんでほしい。
そのためになら、ステラは──
ぱしゃぱしゃと足元のワインを蹴立てながら、頭からワインに濡れたフィリップがグラスを持って駆け寄ってくる。
その顔は微かに赤らんでおり、同時に悪戯心に満ちた笑顔を浮かべていた。
「るきあとでんかにも、しゅくふくです!」
呂律も怪しく口上を告げて、手にしたワインを振りかける。
ステラは呆れたような笑顔で、ただ立っている。
当然だ。避ける必要どころか、目を瞑る必要さえ無い。ステラに触れる液体は、その寸前で気化して消えるのだから。
フィリップが祭りを楽しむために、フィリップと祭りを楽しむために。
そのためになら、魔術の一つくらい作ってみせる。
そして──フィリップが楽しむためになら、その魔術を無効化する術式くらい、作ってみせるのがルキアだ。
「わぷっ!?」
無防備な顔面にワインを浴びせられ、それでも目を瞑るのが間に合うあたり、やはりステラの反射神経は一級品だ。
しかし、それでも反射が限界だ。愛すべき悪戯な友人に掌握された設置型魔術を、その一瞬で再展開することは出来なかった。
慌てたような声を上げるステラは珍しいが、ほろ酔いの域を少しばかり超えているフィリップは、上機嫌にワインを汲みに行く。
ステラは顔から垂れてきたワインを親指で拭って舐め、愉悦に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。ワインに濡れた髪をかきあげると、翻る金糸のような髪と紅い雫が陽光に煌めく。
「ルキフェリア……!」
「あら、設置型魔術の脆弱性なんて、貴女には説くまでも無いと思っていたけれど──きゃっ!?」
ルキアの勝ち誇ったような顔がワインで濡れて、可愛らしい悲鳴が上がる。
ワインを掛けたのはフィリップではなく、一緒に遊んでいたシルヴァだ。
「ふぃりっぷはへたくそ。るきあだけぬれてなかった。しるばのほうがうまい」
「うまさをきそうものじゃないよ! ……かおがじゅってん、からだがごてんね」
「まとあて! しるば、なげるほうははじめて!」
「さきにひゃくてんとったほうがかちね。よーいどん!」
……一応、フィリップはワインを口に入れてはいない。
あまり美味しくないことは軍学校交流戦の時に知っているし、好き好んで飲もうとは思わないからだ。
しかし、街中で大樽数個分ものワインをぶちまけて、それを掛け合って遊んでいるのだ。
空気中には気化した大量のアルコールが充満し、噎せ返るようなブドウとアルコールの臭いで満ちている。ただ呼吸をしているだけで酒精が体内へ取り込まれてしまうような状態だった。一応屋外ではあるし、十数分に一度は風属性魔術で換気されるという話なのだが。
『グラスはひとりひとつまで』と、赤字でデカデカと書かれた看板が見えていないのか、両手にワイングラスを持ったフィリップとシルヴァが構える。
的役は言うまでも無く、ルキアとステラだ。
二人はにっこりと笑って、
「いい度胸じゃないか、カーター。髪の一本に至るまでブドウの臭いに染めてやる」
「じゃあシルヴァ、貴女は私と遊びましょうか。その髪飾りからブドウが生えるまで、ね」
過剰報復の開始を宣言した。
しかし、その二人も味方同士という訳ではない。
ルキアはステラの魔術を妨害するし、ステラもルキアの魔術を妨害する。旅程上、今年の建国祭の御前試合に出られるかどうか不明な二人の本気の小競り合いは、こんなところで行われていた。
楽しい悲鳴を上げながら逃げ出したシルヴァとフィリップを追って、二人も靴を赤く濡らす。
年相応の楽しそうな笑顔を浮かべた二人の姿は、フィリップ以外の者にはとても新鮮に映り、後に『美しき魔の誘い』という、二人を題材にした絵画が描かれるのだが、それはどうでもいい話だ。おまけ程度にフィリップも描かれているとしても。
結果として。
日頃から毎日二食──朝食は紅茶派だから──ワインを常飲している大ザル二人がほろ酔いレベルとはいえ酔っ払い、フィリップは寝落ち、シルヴァだけが踝まである深さのワインの川にぷかぷかと浮かんで遊んでいるという状況になった。
ルキアとステラが参加していることに気付いた一般参加者たちは、枢機卿の言葉通り挙って二人を狙った。……ステラは全て防御していたが。
その大量のワインから蒸発した大量のアルコールが、三人をここまで追い込んだ原因だった。
ルキアは少し高いところに据えられたベンチに腰掛け、寝息を立てるフィリップを膝の上に抱いていた。
その顔は酒精ゆえか、普段の透けるような白さの中に赤みが差しており、吐息の熱さも相俟って尋常ならざる色香がある。幼気な少年を背中から抱き締めているという状況にも、倒錯的な艶やかさがあった。天頂に至った陽の光を浴びて煌めく銀色の髪が、まるで現実の光景ではないかのように神秘的だ。
その隣では、酔って気持ちよくなったステラが、きちんと購入した商品レベルのワインをグラスに注いで優雅に傾けている。背もたれではなくルキアの肩に背中を預けており、ルキアもそれを拒んではいない。
非常に絵になる光景だ──二人とも頭の先から爪先まで、ワインの赤い色とブドウとアルコールの臭いに塗れていなければ。
「ん……」
フィリップが呻き、すぐに目を覚ます。
「おはよう、フィリップ」というルキアの呼びかけを、しかし、フィリップは珍しく完全に無視した。
それどころではないからだ。
「あ……」
やや乱暴に腕を振り解いて立ち上がったフィリップの背中に、名残惜しそうな声と手が伸びる。
それに罪悪感を覚えている余裕すら、今のフィリップには無かった。
「おぼぼぼぼぼ……」
近場の植栽に顔を突っ込んで胃の内容物をどろどろとぶちまけるフィリップを見て、ルキアは慌てて駆け寄り、ステラはけらけらと笑いながら水を用意する。今の今までワインが入っていたボトルだが。
一頻り嘔吐して満足したのか、フィリップはすっきりした表情で口元を拭い、爽やかな笑顔を浮かべた。
「吐いたらお腹空きましたね。いま何時ですか?」
……どうやら、まだ酔っているらしい。
「フィリップ、こっちに来て?」
「ん? いいですよー。あれ、でもルキアが三人いますけど、どのルキアですか……?」
陶然としたような蕩けた声で呼ばれ、ふらふらと従うフィリップ。
ルキアは足元が覚束ないフィリップの手を引いて、先程と同じ体勢でベンチに座った。
また寝入ったフィリップの首筋に顔を埋めて、ルキアは腕の中にある温もりを逃がすまいと強く抱きしめる。甘えるようにも、甘やかすようにも、守るようにも思える仕草だ。
新しいボトルを買いに行っていたステラは帰ってくると、それを見てけらけらと笑いながら、またルキアに背中を預けて手酌を始める。
フィリップが目を覚ました後も、ルキアは酔いが醒めるまで甘え続け、ステラはフィリップに止められるまで無限に飲み続けていたのだが……それを詳らかに語る必要は無いだろう。
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