第204話

 十数分後。

 食事を終えたフィリップたちの前に、三人の枢機卿が並んでいた。


 店員に「枢機卿を通して構わない」と言った直後の対面でなくても、彼らを一目見て「枢機卿だ」と判別できただろう。

 それは彼らの服装が、赤い法衣だったからだ。複数位階に分かれた聖職者の中で、最高位に位置する枢機卿のみが身に付けることを許される、独特な緋色。カーディナル・レッドと呼ばれる色だ。


 三人に見覚えは無いが、どの人物も、もう忘れることは無いだろうと思わせる強烈な出で立ちだった。


 具体的に言うと──一人は挨拶だというのに仮面を被り、一人は血の滲む包帯で片眼を保護して、一人は頭から流血していた。


 「ご無沙汰しております、両聖下。直接お会いするのは四年ぶりですが、益々お美しく、そして強くなられたようで、喜ばしい限りです」


 顔の右半分を白い仮面で覆った男が穏やかに一礼する。

 彼が一番、何というか、見ていられる異常さだった。真っ白で飾り気のない仮面はお洒落のアイテムではなく、純粋に顔を隠すことが目的なのだろうが、却って浮世離れしたような雰囲気がある。


 露出している顔の左半分は温和な老人といった風情なのが、無機質な仮面と対照的だった。


 「コルテス卿。貴方もお元気そうだ」


 ごく自然に挨拶を返したステラに、フィリップの尊敬したような眼差しが向けられる。

 だが、場合によっては他国の貴族──当然ながら、これといって特徴の無い──を、一夜で数十人覚えるようなこともある。こんな覚えやすいビジュアルの人間を覚えているからと感心されても、却って侮られているようなものだ。


 苦笑交じりの一瞥を呉れたステラと同じことを思ったらしく、ルキアも同質の苦笑をフィリップに向ける。


 二人の視線の先、この高級レストランという場にも、魔術学院生の一団の中でも、何よりルキアとステラと同じテーブルには不似合いな少年に、三人の視線が集中する。三人とは言うまでもなく、フィリップと面識のない枢機卿だ。


 「こちらの少年は? 聖下……いえ、殿下と同席されているということは、もしや──?」


 彼は“使徒”の一件もフィリップのことも知らないのだろう、驚いたような表情で、しかし鋭く観察するような目を向ける。

 他の二人も僅かに身構えたように空気が強張るが、ステラの呆れ笑いで弛緩した。


 「ただの友人だ。高位貴族でもなければ、他国の王族でもない」

 「そ、そうですか。コホン。私はヴィルフォード・コルテス、枢機卿です」


 柔らかな仕草で右手を差し出され、フィリップは素直に立ち上がってその手を握る。


 「フィリップ・カーターです。お会いできて光栄です、枢機卿猊下」

 「……はい。貴方と出会えたことに感謝を」


 ヴィルフォードは内心の困惑を微笑で隠し、頭を下げる。

 普通は手指の甲に額を当てるかキスをするものだが、握手でも無作法では無いからだ。聖職者と会うことに慣れていないのだろうと、一人で納得した。


 さりげなく椅子を引いたフィリップだが、彼は小さく手を振って断る。


 フィリップが「じゃあ」と座り直したのを見て、ステラが言葉を続けた。


 「どういう用件だ? そちらの二人は初対面だが、本当に挨拶だけではないだろう?」

 「はい。実は、本日のイベントの件で、予めお伝えしておきたいことがあるそうで。私は紹介役に過ぎません。……改めて、二人を紹介させて頂きますね」


 指し示す手の動きを指揮棒のように、二人の異容の枢機卿が一糸乱れぬ動きで一歩、進み出る。

 

 「こちらがオスカー・ペルー枢機卿──」


 左目に血の滲む包帯を当てた偉丈夫が一礼する。

 聖職者と言うよりは騎士、騎士と言うよりは山賊と言うべきような、無闇矢鱈に鍛えた筋肉が法衣を盛り上げている。単純な筋肉の量で言えばディアボリカを上回る肉達磨ぶりだが、あまり強そうだという印象は受けない。


 ここ最近の訓練と実戦で、フィリップにも戦力評価の眼が、観察眼が身に付いた──わけではなく、単純に価値観が狂っているだけだ。

 筋肉の断面積で言えばフィリップの倍以上、身長も1.5倍近くあるはずだ。対面白兵戦闘でフィリップが勝てる確率は著しく低い。


 「こちらがジョン・トリス枢機卿です」


 頭から流血している、やせぎすの男が一礼する。

 その頭には鉄茨の冠が食い込んでおり、流血の原因は火を見るよりも明らかだった。


 彼は、なんだこれ、と目を瞠るフィリップの視線には気付いたようだったが、説明する気は無いようで、ルキアとステラの中間あたりに視線を固定していた。


 「ステラ聖下は、本日のイベント──ワイン祭りの知識がおありでしたね。サークリス聖下は、詳細についてご存知ですか?」

 「いえ、大まかにしか知らないわ。確か、商品レベルに満たないワインを処分するのでしょう?」


 もはや見慣れた余所行きの──と言うよりは、むしろ彼女の本質に近い冷たい声のルキアに、フィリップが一瞥を呉れる。


 はい、と頷いたのはオスカーだ。ヴィルフォードは本当に紹介役のようで、一歩下がっていた。


 「はい。そのワインを聖別して皆に配り、そこから更に皆で分かち合うという祭りですな。聖国のご老公と王国の魔──失礼、マルケル聖下の到着は明日ですから、お二人とノア聖下を、皆こぞって狙うでしょうな!」


 がはは、と見た目通りの豪快な笑い声をあげるオスカー。

 狙う、という言葉の不穏さに反応したのはルキアとフィリップと、なぜか祭りの内容を知っているはずのジョンだった。


 「ペルー卿。まだ聖下は参加されると決まったわけではない。この祭りの文化的意味は、承知しているが──」

 「固い! 頭が固いぞ、トリス卿! 我々の面子などより、聖下に祭りを楽しんでいただくことこそ、最優先すべきことだろう!」


 オスカーの声は体格に見合って大きい。

 フィリップは一瞬だけ眉根を寄せたが、ルキアは一瞬では済まなかった。


 しかしルキアが何か言う前に、ヴィルフォードが咳払いをして二人に注意を促す。

 流石は枢機卿と言うべきか、ヒートアップしかけていた二人も一瞬で鎮静化して、真面目腐った顔を取り繕った。


 「失礼。ワイン祭りは、端的に申し上げるのなら、さしずめ「ワインをぶっかけ合う祭り」、ですかな。ワインを通じて神の祝福を分け合い、聖なる酒を文字通り浴びるほど飲むというもので、ワシのような下戸には楽しくとも翌日が辛い!」


 また豪快に笑うオスカーに、フィリップは愕然とした目を向けた。


 下戸? 下戸と言うと、「酒が飲めない」という意味の、あの下戸か? この身形で? この容姿、この振る舞いで?

 率直に言って、酒樽を抱えて洞窟にでもいれば、盗賊の頭だと言っても誰も疑わないような、この威容で? これだけ身体が大きいなら、肝臓もそれなりに大きいはずなのに?


 フィリップがオスカーを頭の先から爪先まで疑うように見ている傍らで、ルキアとステラへの説明が続く。


 「今日一日──正確には午後三時ごろまで、街中をワインが飛び交います。一度に浴びせて良い量はグラス一杯までと決まっていますが──聖痕者ともなると、みな挙ってワインをかけようとするでしょう」


 ヴィルフォードの補足説明で漸くイメージが付いたのか、ルキアはステラと顔を見合わせて、微かに眉根を顰めて首を振る。


 「聖痕者がある種の偶像になっているのは分かるが……そうなると有難迷惑だな」


 学院側が推奨した「汚れてもいい服装」は、精々がワインの染みがついてもいい服、程度のものだと思っていた。

 だが、四方八方からワインを浴びせられるとなると、話は別だ。


 「確か、最終的には町中がワインの川になるのだろ? 踝くらいまでが浸ると聞いたことがある」

 「おお、流石は王女殿下! かなりマイナーな祭りだというのに。博識でいらっしゃる!」 


 二人は同時に嘆息して気持ちを落ち着けると、対策について論じ始めた。


 「……貴女、ワインに引火する前に蒸発させられるでしょう? 私の分も任せていいかしら?」

 「お前だって、重力操作でどうとでもなるだろう?」

 「それ、貴女とフィリップも地面の染みになるわよ。私に抱き着くくらい密着していれば別だけど……」

 「歩けない、か。なら濡れていろ」

 「濡れるくらい構わないわよ。でも、濡れるだけで済むの? 大量のアルコールを浴びる訳でしょう? 酔って吐くなんて絶対に嫌よ」


 急性アルコール中毒で吐くなんてステラでも嫌だが、美意識の高いルキアはもっと嫌だろう。

 それが理解できるだけに、ステラも「そりゃあそうだ」と頷くしかない。


 とはいえ、折角の旅行だ。別行動というのも勿体ないし、誰も望まない。


 ワインは魔力障壁で防げるが、常時展開はルキアたち聖痕者でも五分が限界だ。

 五分もあれば大体の敵は殺せる二人だが、まさか何の罪も無い人々を鏖殺するわけにはいかないし、他の手段が必要だ。或いは、諦めてワイン漬けになるか。


 「──聖下、その件でお話が」


 仕方ないかとステラが嘆息しかけたとき、ジョンが頭を下げて言う。

 茨の冠は日常的に付けているのだろう、彼の頭部は創傷と治癒を繰り返して、一部の線上が歪に変形していた。

 

 頭を下げたことでそれに気付いたフィリップが眉根を寄せ、ルキアがより大きく顔を顰めた。

 彼女は殺人行為に対する忌避感は無いと言っていいが、その高すぎる殺人能力故に、グロテスクなものに対する耐性が低い。


 「あの──いえ、なんでもないです」


 鉄茨の冠を指して「何ですか、それ」と訊こうとしたフィリップだが、机の下でステラに足を踏まれて止める。

 ここで変に指摘するよりも、さっさと話させて退席して貰った方がいい、という判断だろう。


 ジョンはフィリップに一瞬だけ、深い憎悪を滲ませる視線を向ける。

 本当に刹那の間だけ。頭の傷を視界に入れないよう一瞥も呉れないルキアはともかく、ステラの観察眼を潜り抜けるほどの一瞬だ。すぐに言葉を紡いだことで、その感情は誰にも悟られなかった。


 「──本日のワイン祭り、聖下には参加を見送って頂きたいのです」

 「まぁ、そうだな。皮膚から摂取される毒もいくつかあるし、私は参加しないつもりだ。するとしても、防御策は万全に講じる」


 あ、そっか、とフィリップは小さく呟く。


 ステラが食事の席をクラスメイトからすら離すのは、暗殺──毒物に対する、最も簡単な対抗策だからだ。

 勿論、魔術毒には魔力視、通常の毒には錬金術製の毒検知の指輪という発見手段はあるが、そもそも混入されないためには、誰も近付けない方が早い。


 そのステラが、誰とも知らぬ相手が浴びせるワインを、無防備に受けるはずがない。飲む必要すら無いような強力な毒だったら、口を閉じていても死に至る。


 「なんと! それでは祭りの楽しさも半減ですぞ!? 今日くらいは何も身構えず、民草とお戯れになっては如何か。我らが領民に、御身を傷付けようなどと言う不信心な輩は居りませぬ」

 「なりません、聖下。そもそも御尊体を穢すことなど、いくら聖酒とはいえど許されることではない」

 

 二人の会話を聞いて、フィリップにも漸く合点がいく。

 要は二人は、ルキアとステラを祭りの中でどう扱うかを決めかねているのだ。


 不敬だから参加して頂くべきではないという考えのジョンと、むしろ魔術を制限して盛大にワインに濡れてこそ楽しんでいただけるという考えのオスカー。


 どちらも善意の意見なのだろうが、ステラの答えは決まっていた。

 

 「分かった。参加は見送ろう」


 それでいいな? と声に出さずとも伝わる視線を向けられて、ルキアは当然のように頷く──かに思えた。

 しかしルキアは、不思議そうに首を傾げる。それは少なくとも肯定や同意とは取れないボディランゲージだ。


 二人の意思疎通は常に完璧であり、二人の意見が交差するのはルキアの美意識とステラの合理性が対立した時くらいだ。フィリップはずっとそう思っていたし、そういう場面を何度か見たのだが、今日は珍しく関係の無いところで意見が噛み合わない。祭りの参加不参加なんて、どうでもいいことだろうに。

 

 「そうしたら? 私はフィリップと参加してくるわ」


 ルキアのその言葉を聞いたとき、フィリップとステラはほぼ同時にお互いの顔を見て、ほぼ同時に同質の笑みを浮かべた。

 苦笑ではなく、納得と、それを忘れていた自分に対する呆れの笑みだ。


 あぁ、そういえばルキアはそういう性格だった、と。

 基本的に群れることを嫌い孤高を愛するゴシック。根本的に、別行動や単独行動に対する寂寥感や不安が無いのだろう。


 そして、


 「あ、じゃあ、そうしましょうか。殿下とは終わってから合流すればいいですしね」


 他者への共感能力が絶望的に欠如しているという点では、フィリップも同じだった。

 理解者であるステラと別行動するのはフィリップにとっても寂しいことだが、彼女が正気で生きているのならそれでいいと、常人からすると絶対的最低限の望みしか持っていないフィリップは素直に頷く。


 ステラが暗殺されるところは正直想像がつかないが、彼女が死んだあとのことも、別の意味で想像がつかない。

 理解者を喪ったフィリップは、果たして怒ることができるのだろうか。それすら定かでは無いし、確かめたいとは……今は思わない。


 「はぁ……少し待て」


 ステラは彼女個人の感情と、その半量程度の配慮から、虚空を見つめて思索に耽る。


 じわじわと全身を締め付けるような圧迫感が彼女から漏れ、枢機卿は誰一人として動けない。

 魔力由来であるそれはルキアをして僅かに眉根を寄せるほどのものであり、フィリップがウェイターに水のおかわりを要求する程度のものだった。









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