第203話
教皇領滞在三日目の朝。
昨日とは違うレストランで朝食を摂っていたフィリップは、大きな欠伸を溢した。その腰には防具付きのベルトが巻かれ、右側の金具には蜷局のように巻かれたウルミが固定されている。
顔を伏せてはいたものの、行儀の悪い美しくない所作に、ルキアが僅かに眉根を寄せる。
ステラはワイングラスを揺らしながら意外そうな目を向けた。
「枕が変わると寝られないタイプだったか?」
「……あぁ、いえ、昨日ちょっと夜更かししちゃって」
昨夜はショゴスを処理したあと、その足で、マイノグーラを伴ってナイ神父の部屋に行ったのだ。
◇
マイノグーラ──聖国王レイアール・バルドルの案内で教皇庁内に入り、宿舎の一室に通される。宗教施設ということで身構えていたのだが、何の変哲もない中流階級向けの宿屋と言った風情の建物だ。
一応はフィリップと関係の無い組織の敷地内ということもあって大人しくして、すれ違う修道服姿の人々にはにこやかな会釈などしていたフィリップだが、部屋のソファで寛いでいたナイ神父を見た瞬間に愛想笑いが消える。
「ナイ神父、質問があります」
「おや、フィリップ君。こんばんは、良い夜ですね」
ずかずかと部屋の中に入り込むと、ナイ神父は気分を害した様子も無く立ち上がって一礼した。
ナイ神父はフィリップが自分のすぐ前にまで近付くと、その長身故に生まれた見下すような身長差に嘲笑を浮かべ、すぐに跪いた。
「良い夜? へぇ、千の貌があっても目は付いてないんですか。それとも無数の節穴が空いてるだけなのかな」
両掌を上に向けて無理解のジェスチャーをするフィリップ。
マイノグーラは無言のままドアの傍に立ち、成り行きを見守っている。
「質問は二つです。まず一つ目、なんでマイノグーラのことを僕に教えなかったんですか?」
「聞かれなかったので。今朝だって、ナイ教授にそれを訊ねようとは思わなかったのでしょう? それに、君に必要な知識はマザーに与えられているでしょう? どの外神がどの世界のどの時間に干渉していて何をしているかなどという雑事を知ることが、君に必要でしょうか?」
言い返そうと吸った息は、少しの間肺に滞留して、やがて溜息として吐き出された。
反論に変換したくてもできない程度には、ナイ神父の言葉は的を射ている。
確かに、フィリップとしては誰が何処で何をしていようが、基本的にはどうでもいい。
たとえ強大無比な邪神であっても、本質的にはフィリップと何ら変わりない、無価値な泡沫だ。
フィリップに敵対するのなら話は別、ということもない。それならそれでいいし、泡の一つがその他多くから逸れたところで、何ら感情を乱すことはない。
「……なるほど、それは確かに。それにマイノグーラは外神の中でもはぐれ者ですからね。千なる無貌、僕の保護者を自称する貴方でも、その行動を把握できないのは仕方ありません。貴方の無能を責めはしませんよ」
跪いたおかげで叩きやすい位置にあるナイ神父の肩を、慰めるようにぽんぽんと叩く。
星空の仮面を被ったナイ神父が、恐縮です、と呻いた。それを見たマイノグーラは肩を震わせて失笑を堪えており、黄金の鎧がかたかたと音を鳴らしていた。
しばらくマイノグーラとナイアーラトテップが水面下で情報戦を繰り広げることが確定した訳だが、まぁ、それはさておき。
「で、次、二つ目。これが本題でここに来ました。……さっき、ショゴスに遭遇しました。下級個体みたいでしたけど」
「古のものの従僕ですか。下級個体というと、フィリップ君でも殺せる程度……では、無かったようですが」
どういうことだと視線だけで問い詰めるフィリップの目を、元の甘いマスクに戻ったナイ神父の、嘲笑に満ちた双眸が見返す。
レイアールに助けられたことを揶揄され、フィリップは僅かに眉根を寄せた。
「うるさいですよ。……で、なんですか、アレ。ショゴスは適切な魔術を使えば誰にでも──邪神にも人間にも使役できるらしいですけど」
暗に「お前の手勢か」と訊ねているわけではない。額面通りの問いだ。
フィリップはナイ神父のことを、ナイアーラトテップのことをよく知っている。ナイアーラトテップがアザトースの命に背き、フィリップに敵対することは有り得ない。
だが、それはそれとして。
誰かがフィリップに嗾けたショゴスを、「面白そうだから」と見逃すくらいのことはするだろう。その方がフィリップの成長に繋がるからとか、そんな詭弁でシュブ=ニグラスとヨグ=ソトースを丸め込んで。
「えぇ、そうですね。ですが、ショゴスには特定の主を持たない個体もいます。隷属魔術の枷を壊すだけの智慧と力を得たショゴス・ロードと呼ばれるものが有名ですが、主が死亡して野生化した野良ショゴスなんてモノもいますよ」
「……野良、ショゴス?」
その歪な単語を聞いた瞬間、フィリップの脳裏に冒涜的な光景が閃く。
道路の片隅、路地の奥、馬車の下、人間の意識が希薄になるありとあらゆる場所で生活を営む、無数のショゴス。
無数の眼球を持つ玉虫色の粘体が、顔を洗う猫のような仕草で触手を蠢かせる。子供が戯れに餌をやり、時には共に遊び、時には八百屋から盗んだ野菜を無数の口に咥えて逃げ、棒を持った店主に追いかけられる。日常風景の一部として、正気を損なう見た目の怪物が混じる、フィリップが最も望まない光景だった。
「……フィリップ君?」
「──はっ! あ、いえ、なんでもないです。……そうか、野良ショゴスか……王都には居なかったけど、教皇領には棲み付いてるのか……」
駆除するか? いやしかし、相手が犬猫でも街一つから野良犬や野良猫を駆逐するのは難しい。一朝一夕ではどうにもならないだろう。やるなら町ごとだ。
「君のお気に入りの糞袋ちゃんたちを守りたいのであれば、明日からは武装されては如何です?」
「ですね……」
正直、この町に対する思い入れは全く無い。一昨日来たばかりなので当たり前だが。
そこに住んでいる人にも、これっぽちも愛着が湧かない。それこそ、路地裏の道端に打ち捨てたままにしてきたプレゼントの山のように。
「それにしても、ショゴスって意外な習性があるんですね」
「……ほう?」
フィリップは路地裏の変死体と十数分前の戦闘で得た情報と、智慧にあるショゴスの情報を比較して、微かな笑みを浮かべた。
「人間の目を執拗に狙うのって、食べるためですかね? マザーも流石に嗜好までは把握してないみたいで、智慧には無かったんですけど」
圧搾されて死んでいた女性は、検分したところ目元を抉り取られていた。
野良ショゴスごときの偏食傾向を知る必要はないと判断したのだろう、ナイ神父は分かりやすい嘲笑の仮面を被るだけで、何も答えなかった。
◇
「それで、寝惚けてウルミを持ってきたのか?」
「あー……実はそうなんです」
えへへ、と誤魔化すように笑ったフィリップの嘘を、ステラは当然のように看破しているわけだが、そろそろ一年の付き合いだ。こういう、目的の分からない嘘を追及しても良いことはないと理解していた。
「……そうか」
ルキアのような盲目的信頼ではなく、むしろどこか諦めたような納得に、フィリップの方が首を傾げる。
しかしフィリップの方こそ、突っ込まれていいことは何もない。昨日の努力が無駄になるだけだ。
三人の雑談はやや急いたようなテンポで話題を変え、服装のことにシフトする。
「……二人とも、今日は制服なんですね」
「えぇ。動きやすさは問わず汚れてもいい服、という指定だもの」
「一応は戦闘にも耐え得る設計だからな。異端審問官のエプロンなんかには負けるが、それなりに汚れが落ちやすい繊維で編まれている」
異端審問官のエプロンの素材なんてよく知っているな、と思ったが、素直に口にするとステラを侮ったと思われるような気がして、「へぇ」と軽く流す。
特別な嗜好がない故に服のレパートリーがそれなりに豊富なステラはともかく、服の趣味が偏っているルキアは、本当に制服が唯一の『汚れてもいい服』なのだろう。
しかしステラまでもが制服を選んでいるということは、それが最適解だということか。
「でも、制服のシャツって白じゃないですか。万が一汚れが落ちなかったりしたら最悪ですよ?」
「あー……まぁ、汚れの理由と度合い次第では学院側が支給してくれるから、心配することはないと思うぞ?」
フィリップも一応は在学生のはずなのだが、知らない制度だった。
そんなアナウンスメントがあっただろうかと首を傾げて記憶を走査するが、悲しいことに、思い当たる節が全くない。
「そうなんですか……。……?」
王国に帰ったら入学時の書類を読み返そうかな、と柄にもなく真面目なことを考えていると、レストランの外が俄かに騒がしくなる。
死体の処理はレイアールに──正確には彼女が発見したという体で、その配下の騎士に──任せたし、それ絡みではないだろう。
まさか野良ショゴスの襲撃かと一瞬だけ思ったが、そもそも教皇領で狂人が続出していない辺り、個体数は極端に少ないと思われる。あの一匹だけが迷い込んでいた、なんてことも有り得るか。
反射的にウルミに伸びかけた手を、苦労して制御する。
二人に警戒心を悟られてはいけない。これはあくまで寝惚けた結果であり、他意はないのだと示さなければ。
外から漏れ聞こえる喧騒に耳を澄ますと、どうやら、
「枢機卿だ……! しかも、こんなにたくさん……?」
「あぁ、三人も……」
「聖下にご挨拶に来たんじゃない? それか……」
「しーっ! それは秘密だろ!?」
……どうやらフィリップに配慮してくれているらしいが、まぁ、そこは置いておくとして。
三人の枢機卿が、ルキアとステラを訪ねて来たらしい。朝食の席だということは分かっているはずだが、そんなに急ぎの用事なのだろうか。
警戒ではなく不思議そうな表情になったフィリップを一瞥し、ステラが指を弾いてウェイターを呼ぶ。
「外を見て来てくれ。枢機卿の用件が私達なら呼び止められるだろうが、食事が終わるまで待つよう伝えろ」
「か、畏まりました、聖下」
ステラが命じたのは初老頃のベテランの給仕だったが、恐縮して応じる様子は見習いと何ら変わりない。
流石は王族と言うべきか、或いは聖痕者という立場のせいだろうか。
ややあって戻ってきた店員は、
「枢機卿の方々は両聖下にご挨拶したいと仰せでしたが、お言葉通り、お待ちいただくようお伝えして参りました」
と報告して、どこか慌てたように奥へ引っ込んだ。
ステラが給仕を一人に固定するよう命じ、食事の前に指輪と目で毒を確認していた──彼女にとってはいつものことだが、店にとっては暗殺を警戒されるなど初めてだ──からか、妙な緊張が店員の間に広がっていた。
「……挨拶か。明後日の儀式のことで、何か話でもあるのか?」
「さぁ? ……フィリップ、そんなに焦って食べなくていいわよ。朝食中に来た相手が無作法なだけだから」
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