第202話
明確な異形を前にしたフィリップは、自分の頬をぺちぺちと叩く。
正気を保つため、ではない。確かに、精神の弱い人間なら一発で発狂するような、この世のどんな生き物でもあれと比べれば美しい黄金比に見えるような、およそこの世ならざる外見だが、フィリップの精神もまたそうだ。
フィリップの心中の、およそ二割を警戒が埋める。
そう──たった二割だ。
「……ショゴス? なんでここに?」
眼前の異形、ショゴスは、見ての通り人間を殺す能力を持っている。
フィリップとショゴスの間に転がった変死体は、あれに呑み込まれて押し潰され、その後に吐き出されたものだ。
シュブ=ニグラスから見てもフィリップを殺すには十分な脅威だから、智慧の中に与えられている。
だが、小さい。
本来のショゴスは、最小でも直径4メートル。それ以上に肥大することはできるが、それ以下に圧縮はできない。
だからこれは、分裂体か、或いはよく似た別種──
この闇の帳を始めとした防諜魔術は、このショゴスの仕業と見て間違いない。
狩りのため、餌に助けを呼ばれないための措置だろう。ショゴスが人間を食うのか否か、フィリップは知らないのだが、そう予測は立てられる。
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
フィリップを威嚇するように鳴き声を上げ、触手を三つ、高々と掲げる。まるで自分の身体を大きく見せるカマキリのように。
「──はっ」
自分でも驚くほど、冷たい声で笑う。嘲笑う。
威嚇? 敵対するつもりなのか?
では、脅威判定を少し下げる必要がある。
「ウボ=サスラの模造品の、その出来損ないの、更に下等種が──っと」
ぺち、と、また自分の頬を叩く。今度は少し強めに。
これだ。
この、智慧から来る軽視が、とても良くない。
外神の視座からすると、眼前のこれは思わず笑ってしまうような劣等存在だ。
おかげでフィリップの心中には、軽蔑や嘲笑といった軽視が渦巻き、八割を占める。
だが、明確に人間を殺せるのだ。
それはフィリップも例外ではない。シュブ=ニグラスの智慧にも、そう警告されている。
警戒すべきなのに、知識がその邪魔をする。
ただでさえ、ウルミ無し、街のど真ん中という不味い状況なのに。
「──《
ダメ元で撃ってみた魔術も、案の定効果を発揮しない。
なんとなくだが、効かないのではなく魔力の差でレジストされたような感覚があった。
ちらりと後ろ、逃走経路を確認する。
あの闇のヴェールの効果は、視覚と、恐らくは嗅覚と聴覚の遮断。物理的な壁の役割は無いはずだ。外から中に入れても、出ることはできないというケースも想定されるが──その時は腹を括るしかない。
いや──しかし、ショゴスは基本的に自発的な行動をしない。
造られた奉仕種族であるこれらは、他者の命令に従うことを至上としている。中には自律行動する変異種もいるらしいが、その見分け方をフィリップは知らない。
だからこの状況は、人間を憎んでいるような種族が「人を襲え」と命令した結果かもしれない。
たとえそうだとしても、この町には何の思い入れも無いし、見ず知らずの人間が一人死のうが一億人死のうが、どうでもいいことだ。
だが、今は違う。
昨日も含めて一週間、この町にはルキアとステラが滞在するのだ。
あの二人なら対面戦闘では余裕で勝てるだろうが、寝込みを襲われたら……いや、なんか設置型の魔術とかで勝手に殺されそうなビジョンがあるが、それでも、この醜悪な怪物を、万が一にでも二人の目に晒したくなかった。
二人には、この修学旅行を心から楽しんでほしいのだ。
そのために、昼間は恥ずかしい小芝居までしたのだから。身を焦がすような羞恥心を無駄にしないためにも、ここで殺しておきたい。
「とはいえ、殺す手段が無い……」
街中で邪神を召喚するのはやめようと、一年前に学習した。
しかしウルミが無く、持っていたとしてもスライム状のショゴスには効果が薄い。魔術もこの様だ。
「うーん……」
ぺちぺちと頬を叩き、「踏み潰せばいい」「腕の一振りすら勿体ない」と囁く外神の智慧を抑える。
ショゴスは見ての通り、粘性を増したスライムのような状態だ。
その性質は変幻自在。眼球や口腔、牙、触手などを自在に生成できる。
斬撃、射撃などはその粘液や原形質の身体に最低限のダメージしか与えられず、熱や電撃にも耐性を持つ。
耐性と言っても無敵ではなく、精々が半減程度だ。
ルキアやステラのような超火力の前には屈服するだろうが、フィリップではそれを用意できない。最近身に付けた初級魔術『サンダー・スピア』は、電流量も電圧も静電気の域を出ない出来損ないで、ステラには冬場のドアノブを投げたほうがマシだと言われたし。
動かないフィリップの観察を終え、ショゴスが動く。
三本の触手が交差するように繰り出され、フィリップの首を絡め捕るように動く。
鞭のように打たれるだけでもかなり痛いだろうが、捕まったら最後だ。その頼りなく細い触手の見た目からは想像もつかない筋力で引き摺り込まれ、呑み込まれる。その後は、地面に転がっている死体と同じ命運を辿るだろう。
だから、喰らうのは一案だ。
少なくとも眼前敵の完全消滅は約束される。
だが、ヨグ=ソトース顕現時の被害規模が判然としない以上、街中では駄目だ。
『拍奪』の歩法を使いながら後退するが、触手はフィリップの位置を正確に認識して追尾してくる。
多眼、或いは脳の構造が全く違うことが原因だろう、相対位置欺瞞が機能していない。
「ち──」
舌打ちを溢し、全力のバックステップで距離を稼ぐ。
眼前を素通りしていく触手が空気を切り裂き、悪臭を放つ粘液を飛び散らせる。それが付着した石畳や建物の壁に変化が無いあたり、強酸性だったりはしないようだ。
どうするか。
殴る蹴るが有効なダメージを見込めるほどの格闘能力は無いし、辺りに武器になりそうなものはない。
「武器が要る──!」
何か、何かないか。
路地裏の片隅に投げ捨てるように置いた、プレゼントの中に、何か使えるものは無かったか?
串焼き肉の串? 駄目だ、あれは安価な木製の串で、武器にするにはとんでもない技量が要求される。
唯一神の力が籠った魔除けの
よく分からない果実やお菓子? 美味しく頂かれて終わりだろう。
何か、何かないのか。
欲を言うなら鞭状の何かがいいけれど、贅沢は言っていられない。フィリップでも使える、オーソドックスな武器ならなんでもいい!
「テケリ・リ──!」
「──クソ」
立て続けに繰り出される触手の攻撃を、狭い路地裏の、更に狭い闇のカーテンに覆われた範囲で懸命に躱す。
攻撃それ自体は見切れる速さだが、手数が多い。
回避一回の難易度は昼間の雄牛よりも簡単だが、その数を自在に増減させる触手全てを躱し切るのはそれなりに困難だ。ディアボリカのパンチほどではないが、ステラの演じる初級戦闘魔術師の攻撃よりは厄介といえる。
執拗に頭部ばかりを狙う単調な攻撃に慣れ始めた頃だった。
軽いスウェイで躱せる、ヌルい攻撃が来る。粘液がかかることを嫌ってバックステップを踏み、少し過剰に距離を取り、
「──、ッ!」
伸びた触手が、フィリップの動きを追跡した。
悪臭を放つタールでできたような触手が変形し、縁の鋭いスプーンのような湾曲した板状に成形される。
棘のあるモーニングスターにも、鋭利な剣にも、鑢のようなウルミにもなれるはずのショゴスが選択するには、奇妙な形状だ。
だが、その攻撃が生む傷口は容易に想像がつく。
被弾箇所は、フィリップのウルミより綺麗に抉り飛ばされる。
狙いは目元。
眼球と、おそらく脳までをプリンのように掬い取る致死攻撃。
少し低い独特の風切り音を鳴らしながら、驚愕に見開かれ、油断したと苦々しく細められたフィリップの目を奪う。
その刹那、視界が真っ白に染まり──ドッッ! と、ただひたすらに耳を劈く轟音に包まれた。
肌を打ち肉を焼くような爆音は、通常であれば人間の意識を一瞬で刈り取る音響攻撃にすらなり得るもの。しかし、フィリップの耳に入るのはそれ以下に抑えられた音だけだ。
ホワイトアウトした視界がじわじわと戻り、そこで漸く、フィリップは自分の目が無事であることに気が付いた。
そして、足元に落ちている切り飛ばされた触手がタール状に戻っていくことより、触手を切り飛ばされ全身を焼かれたショゴスが苦悶していることよりも先に、目の前に突き刺さった金色の剣に目を奪われる。
黄金に輝く抜身の直剣。
刀身の柄側半分が二又に分かれ、柄には独特ながら絢爛な装飾が刻まれている。その豪奢ながらどこか禍々しい印象も受ける柄の飾りを、妙に覚えていた。──フィリップの知らない金剛杵という祭具を持った手の骨のような飾りは、あの黄金の騎士が佩いていたものだ。
銘は確か、魔剣インドラハート。
石畳に深々と突き刺さったそれは、ばちばちと紫電を散らし、オゾンの臭いと煙を立ち昇らせていた。
雷撃のように降ってきた、雷を纏う直剣。
しかし見上げても闇の帳があるばかりで、星の一つも見えはしない。
「──テケリ・リ」
「っ!」
苦痛に満ちた鳴き声に、意識が観察から戦闘に切り替わる。
雷鳴と共に飛来し、雷光を迸らせる煌びやかな魔剣。
その装飾華美な柄に躊躇うことなく手を伸ばし──石畳を豆腐のように切り裂きながら抜き放つ。
瞬間、
「──、あ」
神の憎悪が、神経を通じて脳を焼いた。
腕が痛い。
神の骨を礎とした雷撃の具現、邪龍を征伐した輝かしき功績の証にして力の象徴を握る、神の右腕。外宇宙より飛来した邪神に嘲笑と共に引き千切られ、持っていた武器諸共に奪われた、失った腕が痛む。
この痛みは、フィリップ自身のものではない。
追体験、或いは単純な記憶の再生とイメージの押し付けだ。
死した神が、死していながら憎悪と未練を遺した果て。
低俗なモノを守るために、同等に低俗で扱いやすい武器を求めた邪神への復讐だけを希い、今に至る。
守るべきモノを守るため投擲されたそれは、自らを手にした“邪神の宝物”を、その憎悪を以て狂死させる。
神の怒り。
神の未練。
神の──呪い。
右腕を引き千切られた痛みを、その憎悪を、神威と共に流し込む。人間の精神など一瞬で消滅するほどの呪詛だ。
それを、
「──ッ!」
それを、丸ごと全部、綺麗さっぱり、何事も無かったように無視して、眼前のショゴスを切り伏せる。
黒いタールの身体に見事な断面を生み出した剣は、次の瞬間には真っ白な雷撃を放ち、二つに分かれた塊を跡形も残さず蒸発させた。耳を劈く雷鳴が轟き全身の肌が震えるが、害のあるレベルの音は心地よい音に変換され、意識消失などは起こらない。
むしろ、気にするべきは耳ではなく鼻だった。
鼻を突くような、どこか生臭いオゾンの臭いが立ち込めて、フィリップは思わず顔の周りを扇ぎながら後退する。
「うぉぉ、くさい……」
ずしりと重たい金色のロングソードを地面に突き刺し、電流のせいかちょっとぴりぴりする右腕をぷらぷらと振った。
「いたたた……いや痛いというか、むしろ熱い……」
たった今命を救われたことをさて置いて、金色の剣に恨みがましい視線を向ける。
じんわりと手が痺れるような感覚を払うように、掌を握ったり開いたりしながら、ただ待つ。
よくよく見ると何かを掴む腕の骨のような意匠のあるこの剣の銘を、フィリップは知っていた。その持ち主──この状況を見ていて、手助けをする理由は十分にある者のことも、また。
「ありがとうございます、助かりました。でもそれはそれとして凄く臭いので、早く回収してくれませんか──マイノグーラ?」
呼びかけに応じるように、闇のヴェールを通り抜けて姿を現す黄金の騎士。
相変わらずヘルムまで被った完全武装で肌が少しも見えていないが、その身に纏う神威は間違えようがない。
無惨に転がったままの死体のことなど忘れ果て、薄暗い路地裏には不似合いな、マイノグーラ──聖騎士の王レイアール・バルドルの絢爛な出で立ちを笑う。
「派手ですね、ホントに。月明りも無いのに眩しいですよ」
けらけらと笑うフィリップに、マイノグーラはにっこりと──兜のせいで表情は全く見えないのだが──笑い返して、言った。
「その臭い、空気が毒に変わってる臭いですから、速く離れた方がよろしいかと」
慌てて距離を取ろうとしたフィリップは、ぐちゃぐちゃに潰れた女性の死体に躓いて転んだ。
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