第201話

 夕食を終えたあと、フィリップは美味な食事の後とは思えない鬱々とした表情で夜道を歩いていた。

 

 クラスメイトやBクラスの生徒たちは、祭りでテンションが上がり、普段の様子とはかけ離れた奇行に走った年下の子供を、殊更に揶揄うような真似はしなかった。何人かは共感性羞恥を起こして悶えていたが。


 ただ、レストランの従業員は別だった。

 彼ら彼女らはフィリップの素性──枢機卿関係者ではという間違った推測──を知らないからか、無遠慮だった。


 勿論、悪意があるわけではない。

 クラスメイトに比べて体格の劣るフィリップが、自分の二倍から三倍のサイズを持ち、体重比では二十五倍もの相手に立ち向かったことを、素直に称賛している。


 それに、フィリップの台詞の引用元である古典英雄譚『エイリーエス』は、一家に一冊はある類の作品ではない。

 教会の書斎や図書館に行けば置いてあるだろうから、それをわざわざ読みに行く程度には読書家なのだろうと分かる。


 それだけの情報しか持ち合わせない彼らは、フィリップのことを、運動神経が良く勇敢で読書家な理想的学徒のように思っていた。


 不慣れな、そして不相応な称賛に晒されてぐったりと肩を落とし、石畳を見つめて宿への帰路をただ歩く。


 貴族の子息子女が多く在籍していることもあり、夕食後に異性を宿まで送るという行為は禁止されていた。

 中には「知ったことか」とばかり、学院が取った宿とは宿に並んで入っていくカップルもいたが、3分から10分でナイ教授につまみ出されていた。あれは多分、「さぁ始めるぞ」というタイミングで──いや、そんなことはどうでもよくて。


 一応、宿の前まで送り届けるくらいは許される。

 が、初日の夜に、それはもうはちゃめちゃに怒られた──フィリップ宿まで送ったルキアとステラを見咎められて、怒られた──経験から、それは自重していた。


 ナイ教授の説教なんて怖くもなんともないが、「公爵令嬢と第一王女の身辺にー、醜聞を垂れ流したいのなら構いませんよー」と言われてしまっては、フィリップが同道を断る口調にも熱が籠る。

 二人のことを思えばこその言葉だと、二人とも理解してくれたが、夜道には十分に気を付けるよう念押しされてしまった。


 夜道とはいえ大通りだ。

 道沿いの屋台も疎らにだが営業中だし、飲食店や宿なんかはここからが稼ぎ時だ。まだまだ活気に溢れていて、襲われるような気配は微塵も無い。ただ、まぁ、本当に襲われたら巻き添えが多そうだが。


 ふらふらと屋台を覗いたり、見世物を眺めたりしていると、道行く人に声を掛けられた。


 「……お、昼間の少年じゃないか! 楽しませて貰った礼だ、これやるよ!」

 「え? あ、牛追い祭りの! これも持って行って! いいものを見せてくれたお礼よ!」

 「昼間の子か! うちの串焼き肉も持ってきな!」

 「お兄ちゃん、かっこよかった!」

 「そうねぇ。じゃあこれ、お兄ちゃんにあげて?」

 「うん!」

 「お、いいね! じゃ、おじさんはこの本をあげよう。読書家なんだろ?」


 よく分からない屋台のお菓子、店売りの装飾品、タレの滴る熱々の串焼き肉、称賛の言葉、エトセトラ。

 腕一杯に贈り物を乗せられて、フィリップは嬉しさ三割、照れと羞恥が七割を占める微妙な笑顔でお礼の言葉を返す。


 宿までの道程を半分ほど進んだところで、「これ以上積まれると前が見えなくなります」と断る羽目になったのは完全に予想外だった。


 「重いし嵩張るなぁ……あっ」


 山の中から、球状の何か──フィリップが見たことの無い北方特産の果物──がころころと落ちる。

 受け止めるべく咄嗟に突き出した足は、地面との激突と破砕を見事に防ぎ。


 「うわ……」


 そのまま小さな路地へ蹴り込む結果となった。


 「…………」


 プレゼントの山を抱えたまま、呆然と立ち尽くすフィリップ。

 正直に言うと、腕一杯のこれらを全部ぶちまけて、そのまま宿に帰って寝たいところだ。枕に顔を埋めて、羞恥心の赴くまま叫んで発散したい。


 だが──貰い物を、他人の厚意を粗末にするのは憚られる。

 正確には、それは非人間的ではないだろうかという思考が、感情に任せた行動を制限していた。


 「はぁ……」


 心の底から面倒くさいと言いたげな嘆息を溢し、とぼとぼと路地裏に入る。

 何とか無事だった黄色い果実を取ろうと手を──伸ばせない。身体を傾けてもギリギリ届かない。足で……はちょっと自信が無い。


 「ごめん、シルヴァ。その果物、拾ってくれない?」

 「──ん、わかった」


 フィリップの声に応じて、足元からシルヴァがぬるりと現れる。

 彼女は果物に付いていた砂埃をちょっと払ってから贈り物の山に戻し、それから不思議そうに路地の奥を見つめた。


 ちょいちょいと肘の辺りを引かれ、フィリップは慌てる。


 「ちょっとシルヴァ、また落としちゃうって」

 「……ふぃりっぷ、あれ、なに?」

 「あれ? ……どれ?」


 路地の奥は暗く、数メートル先は真っ暗闇だ。


 ──いや、しかし、それはおかしい。


 そう土地勘のある場所ではないが、フィリップの空間把握力と記憶力が正しければ、この路地は二つの大通りを繋ぐもの。未だ煌々と明かりの灯る二つの大通りを、だ。


 振り返るまでも無く、フィリップの背後からは光が差し込んでいる。

 なのに、ほんの十歩奥が見えない。そのさらに奥にあるはずの、大通りからの光が見えない。


 そこに、何かがある。

 光を遮る何か。光を反射しない何か。


 壁? いや、それなら壁が見えるはずだ。


 不審に思ったフィリップは、しかし、全くの無警戒に路地の奥へ進む。

 一歩、二歩、三歩と近付いても、その正体には見当が付かない。やがての目前に立って、フィリップは漸く理解した。


 「これ、物じゃない。──視界を遮るような魔術だ」


 中に何があるのか、或いは何かが居るのか、それも分からない。

 外部から内部に到達する光を完全に遮断しているらしく、ほんの薄っすらとも中が透けないようになっていた。おそらく別の魔術によって、音も消されている。


 その明確な異常を前に、フィリップはニヨニヨと下世話な笑みを浮かべた。


 祭り。

 夜。

 路地裏。

 目隠し。


 あーはいはい、しょうがないなぁ、黙って立ち去ってあげよう。そう思わせる要素しかない。

 こちとら宿屋の息子で、王都の宿で丁稚奉公までしていた身だ。祭りの日に若い男女が部屋を取るなんて普通だったし、客の苦情を受けて注意しに行ったこともある。


 「入っちゃ駄目だよ、シルヴァ。帰ろう──あっ」


 フィリップの服を掴んだままのシルヴァを促すように腕を動かすと、弾みでまたプレゼントの一つが落っこちた。

 何が落ちたのかは分からなかったが、少しバウンドして──闇の中に吸い込まれていった。


 「……嘘だろ」


 喉から絞り出したような声は、フィリップにしては珍しく絶望の色を含んで嗄れていた。

 

 邪魔をするつもりは無かったのだが……貰い物だしなぁ、と覚悟を決めて、そっと足を踏み入れる。「ひろう?」と聞いてくれたシルヴァには悪いが、この中の光景を見せるには少し早い。……いや、彼女に年齢や性の概念なんて有って無いようなものだけれど。


 「すみません……すぐ出て行きます」


 闇のヴェールを潜った瞬間、世界が切り替わる。

 そこは何の変哲もない路地裏だ。建物の裏口と、扉の横の燭台。近くには生ごみを入れるための大きな壺──コンポスターがある。

 

 石畳をオレンジ色に照らす蝋燭の光がゆらゆらと揺れて、小道の真ん中に横たわるモノの影を歪に伸ばした。


 「──っ、は?」


 ぐったりと横たわる細長いもの。

 片側は二又に分かれていて、もう片側からは布のような何かが垂れている。金糸──燭台の明かりを受けて煌めく、金色の髪。


 その周りに、じわりじわりと染み出すように広がる、赤。


 最優先された視覚情報が認識された次の瞬間には、嗅覚が異常を訴える。


 鼻を突く異臭。

 眼前の──人間のように見えるものの、人間にしてはいやに細長いものが垂れ流す、鉄と臓物と吐瀉物と糞尿とその他の組織液が混ざりあった、強烈な死臭とは違う。


 フィリップの嗅いだことの無い、嗅いだことが無いのに知っている臭いだ。

 地上に在るべきではないモノ、地上に在る全てのものを喩えに挙げられない、異常な臭い。


 刺激臭や淀みの臭いといった複数のベクトルの悪臭が混ざり合った、言うなれば、


 ほとんど無意識に、抱えていた贈り物を道端に流すように置く。中には食べ物やコップ入りの飲み物もあったが、そんなことを気にしている場合では無かった。


 「シルヴァ、戻って」

 「……ん、わかった」


 魔術的な異空間にシルヴァを送還したフィリップは、警戒も露わな足取りで倒れ伏した女性に近付く。


 「……だよね」


 死んでいた。

 手足と胴体を圧搾したように引き延ばされて、口と股間と複数の割裂部位から中身を垂れ流して、完膚なきまでに死んでいた。


 路地裏で人が死んでいる。

 それは、まぁ、いい。フィリップの知らない人だ。知らないところで死んでいたからといって、特に感情は動かない。精々が、無惨な死体に対する忌避感──汚れた肉の塊に対する、衛生観念的な、「気持ち悪いなぁ」という感想が浮かぶ程度だ。


 だが、これは。


 この、何かに呑み込まれたような死に様と、鼻を突く悪臭は知っている。

 覚えがあるわけでは無い。ただ──与えられた智慧の中に、フィリップを殺し得る明確な脅威として載っている。


 ずり、と、何かを引き摺るような音がした。


 弾かれたように距離を取り、音のした方を注視する。フィリップがすっぽりと入りそうな、大きなコンポスターの陰だ。


 ずり、ずり、と這いずる何かが、その陰から姿を見せる。


 直径一メートルほどの、少し潰れた球体だ。

 一見すると、スライムのようだ。粘つく原形質の塊、潰れた球状の粘液。


 だが、そんな勘違いはできないだろう。

 たとえそれを見たのが、既にその正体を知っているフィリップでなくとも。


 オレンジ色の炎に照らされて、なおも暗いその表面は、僅かに光を反射して泡のような玉虫色に蠢く。さながらコールタールでできたアメーバだ。

 一本、二本、と生えた触手の数は時折減少し、その形を一瞬たりとも固定しない。


 表面に無数の線が走り、ぱっくりと開く。

 その奥で、ぎょろり、と線の数だけ緑色の眼球が生え出で、無感動な光を湛えてフィリップを見つめた。


 さらに複数の亀裂が入り、嘲笑の形に歪められた、黄色い乱杭歯の並んだ口になる。


 無機質な無数の目と、嘲笑する無数の口、不特定数の触手を持った怪物の、悪臭を放つ口から。


 「──テケリ・リ」


 邪悪言語、ではない。

 それは意図や意味を持たない、単純な音の羅列。いわば鳴き声に過ぎないが、神経を逆撫でするような苛立たしいものだった。


 







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