第211話

 フィリップがレストランのホールに戻ると、ナイ教授は隅の方にある四人席の一つで、顔を蕩けさせながらステーキを頬張っていた。

 普通、こういう場面で教師と同じ席になった生徒は不運に感じると思うのだが、相席している生徒はみんな心の底から幸福だと言いたげな表情だ。そもそも友達同士だけでも下手な会話が憚られる場所だから、という理由だけではないだろう。


 周囲から多少の視線を感じつつナイ教授の元へ行くと、フィリップが声を掛ける前に彼女の方が反応した。


 「あれれ、フィリップくんじゃないですかー。どうかしましたかぁ?」

 「えぇ、まぁ、ちょっとナイ神父の件でお話が」

 「良いですよー。場所を変えますかー?」


 フィリップは頷き、先導するように歩き出す。

 ルキアとステラを残して店を出るのは何となく不安だったので、向かう先は男性用トイレだ。小便器がいくつも並ぶ広々とした空間は綺麗に磨き上げられ、実際に使われている便所ではなく便器の展示場にも思えるほどだった。


 先んじて入ったフィリップの後ろで、ナイ教授は扉の前でもじもじしている。


 「あのあの、フィリップくん。いくらなんでも、ここはちょっと先生は──」

 「ナイ神父、幾つか質問があります。一つ目は──」


 ナイ神父、という呼び方に反応して、ナイ教授の輪郭が崩れる。

 蠢きのたうつ漆黒の触手の集合体になり、顔の無い円錐状の頭を持つ三本足のヒトガタになり、最終的に長身痩躯の神父の姿へと変貌した。


 常人であれば発狂か、最低でも甚大な恐怖を催す光景を前に、フィリップは顔を顰める。ホントに気持ち悪いなぁ、と。

 しかしナイ神父の姿になったのは狙い通りだ。内心の嘲笑を抑え、ただ煽ることをメインにした化身はフィリップの神経を逆撫でする。真面目な話をするのなら、やはり慇懃無礼でもこちらの化身の方がまだマシだ。


 「一つ目は、あのワインのことです。サイメイギの隷属ワイン。あれを僕の食卓に並べるなんて、どういうつもりですか?」

 「……確かに、インテリアとしては不細工でしたね。申し訳ありません。挽回のチャンスを頂けるなら、今度こそは君のお眼鏡に適う代物をご用意させて頂きます」


 ナイ神父は便所にも拘わらず素早く跪き、深々と頭を下げる。

 その所作には本気の自責や謝意、敬意といった感情が読み取れて、フィリップはむしろ困惑した。この謝罪はおそらく、ポーズではない本気のものだ。


 「インテリア……まぁ、僕が飲まないことは分かってたでしょうけど」

 「はい。業腹な話ですが、副王の庇護は絶対です。私が本気で飲ませようとしていたら、私は存在していません」


 にっこりと笑顔で、しかしその下に隠されたものが空気を穢すようにじわじわと漏れだすほどの激情を抱えて、ナイ神父はそう語る。


 「業腹? なんでちょっと敵側視点なんですか」

 「敵だなんて滅相も無い。ただ、私は──」


 ナイ神父は鋭く否定すると、蛇のような動きで立ち上がり、フィリップの腰と後頭部に手を回す。抱き締めるように──或いは、身長差のせいで顎の上がったフィリップにキスするように。


 「私は、貴方の一番で在りたい。貴方を最も守り、貴方に最も貢献し、貴方の最上の従僕で在りたい。ただ、それだけなのです」


 陶然と蕩けるような、耳触りの良い、耳障りな声が耳朶を打つ。

 脳を融かし、脊髄を融かし、血と肉を沸き立たせ、とろとろに溶け出しそうになる──ところなのだろう。常人であれば。


 フィリップは慌ててその手を払う。


 「今の今までトイレの床に突いてた手で触らないでくださいよ汚いなぁ!」

 「汚れていませんのに……むしろ、私に触れた細菌の方が死滅しますのに……」


 どこか傷付いたようにも見えるナイ神父が、水道でざばざばと手を洗う。

 彼の言う通り、実際に汚れは付いていないのだろうが、なんとなく汚い気がする。そういえばと思い出して、フィリップもナイ神父の隣で手を洗った。


 「……?」

 「さっき、カルトかもしれない人をベタベタ触っちゃったので……」

 「あぁ、あのウェイトレスですか。あれは潔白ですよ。そこに居たので利用しただけです」


 さらりと言われ、フィリップは無言でナイ神父の漆黒の瞳を見つめる。

 だが、まぁ、それならそれでいい。カルトが居ないのなら一安心だ。


 「そうですか。……で、二つ目の質問ですけど、何が目的であんなことを? ルキアと殿下が狙いってわけじゃないでしょうけど」

 「いえ、今回の私はフィクサーではなくエグゼキューター、計画者ではなく手駒の一つですので。私の意志は──ほんの少ししか介在しません」

 「……どうせ愉悦とか娯楽とかでしょう」

 

 うんざりした顔で断定したフィリップに、ナイ神父は「ご賢察の通りです」と拍手する。敬意と歓喜と、その百倍は濃い嘲笑の込められた所作だった。


 「止めろと言ったら止めてくれますか?」

 「いいえ?」

 「ですよね。じゃあ止めるので、フィクサーを教えてください」

 「駄目です」

 「えぇ……じゃあ、その目的──」


 ほぼ即答で拒絶するナイ神父に負けず食い下がるフィリップだが、その口元に人差し指を押し当てられ、黙らされる。

 ナイ神父は妙な色気のある所作で、その人差し指にキスをするように、「静かに」というジェスチャーを作った。


 「ahh……フィリップくん……」


 熱っぽい溜息。

 尋常ならざる感情を含んだそれに、フィリップはつい怪訝そうに眉根を寄せて、言葉の続きを待ってしまった。


 「君は私のことを、おねだりすればなんでも叶えてくれる優しいお母さんとでもお思いですか? 聞けばなんでも教えてくれて、君の機嫌を最優先にするとでも? そういう外神が居ることは否定しませんが、誰もがそうであるとは思わないことです」


 ナイ神父の言葉には、普段とは少し違った感情が込められていた。

 本来は相反するはずの嘲笑と敬意。これはいつもの通りだが、そこには深い失望が混ざっていた。


 ナイアーラトテップがフィリップに失望するなんて──ナイアーラトテップが人間に失望するなんて、有り得ない。

 失望は、期待が無ければ発生し得ない情動だ。人間に対して一片の期待も寄せない、寄せるはずがないナイアーラトテップが、どうして人間に失望できようか。


 フィリップは思わず目を瞠り、直感を疑う。

 しかし瞬き一つの後には視線の先には誰もおらず、少し視線を下げたところに、ナイ教授の内心の読めない仮面のような笑顔があった。


 話は終わり、ということだろう。


 唐突と言えば唐突で、まだ何も訊いていないに等しい段階で切り上げられたフィリップは不満そうだが、呼び止めても聞かないことは分かったので、大人しく部屋に戻ることにした。



 

 ◇




 個室に戻ると、ルキアとステラが何事か言い争っていた。

 二人とも声を荒らげたりはしていないが、その双眸は互いの目に固定され、不機嫌そうな光を湛えている。


 フィリップが帰ってきたことに気付くと、二人はやや無感動にも聞こえる内心の起伏を抑えつけた声で話しかけた。


 「おかえり、フィリップ。どうだった?」

 「こっちは収穫無しだ。この女はカルトではないし、支配魔術の痕跡も無ければ、暗殺の訓練を受けたこともない、ただの給仕だった」


 ステラの言葉にこくこくと頷き、フィリップもナイ神父との会話をかいつまんで説明する。


 まず、ナイ神父が動いているが、フィクサーが存在すること。おそらく邪神ではなく、本当にただの人間だ。初日に言っていた「教皇庁の仕事云々」というのは、これを指しているのだろう。

 次に、ナイ神父は味方としては使えないこと。直接的な敵対はしないようだが、フィリップの手駒になる気は無さそうだった。

 そして、未だ被制圧姿勢で固定されたままのウェイトレスは、ただ利用されただけであること。


 ウェイトレスの無罪を聞いたあと、ステラは真面目な顔で何事か考え込み、フィリップの方が首を傾げた。


 「あの、解放していいですよ? カルトじゃないなら殺す必要も無いですし」 

 「ん、あぁ、そうじゃないんだ。素性や上位者の介入を判断から外すと、こいつは本当に“ただ毒見を失敗しただけ”という理由で、私の前に毒を出したことになるだろ? こういう場合、普通は死刑なんだが……今回はカーターが気付いて事無きを得たとはいえ、だぞ? ……だが、こういう時の処刑方法は決まっていてな」


 ステラはぴっと、ワインの瓶を示す。

 エチケットに記された内容はステラも良く知る北方特産の高級ワインのそれだが、中身は全く違うもの。フィリップが顔色を変えるほどの毒だという。


 自国民では無くとも──いや、自国の民ではないからこそ、処刑は速やかに行う必要がある。

 聖国に、教皇領に、何より王国に対して「ヘマをした毒見役を処刑した。この話はこれでおしまい」と示さなければ、王国中枢部から「聖国に謀略の兆しあり」と判断されると、それはもう面倒なことになる。ただでさえ、近衛騎士団を解体して再編している途中だというのに。


 これは個人のミス。一人殺して終わりの、簡単な話で済ませなければならない。

 特にフィリップにしか判別できない、人類圏外産の毒物。この情報が流出することだけは、何としても避けなくてはならない。少なくとも持ち帰り、分析し、製法か中和剤を特定するまでは。


 「それ、飲んでも死にませんよ?」

 「……なに? 致死毒ではないのか?」


 ステラに問われ、そういえば説明していなかったとフィリップは思案する。

 どう説明すればいいのか、そう考えているところに、このウェイトレスがやってきたのだ。


 「そうですね、簡単に言うと、飲む支配魔術みたいなものです。ただ、縛るのは肉体ではなく精神と魂で、あー……とある邪神に、死後も含めた永遠の忠誠を誓わせる。そんな毒です」


 具体的には精神支配、アンデッド化、異形化による身体強化、と聞くだに悍ましい薬効を並べると、ウェイトレスに向けられる二人の視線が鋭さを増す。

 ウェイトレスはずっと顔面蒼白で、二人の纏う剣呑な空気に気付いた様子はない。二人の交わす議論を──殺すか否か、ではなく、どうやって殺すかという殺害を前提にした議論を間近で聞いて、すっかり怯え切っているようだ。


 「ふむ。……よし、今のは聞かなかったことにしよう。いいな?」

 「……まぁ、そうね。……フィリップ、王国法の中で一番重い罪って、何か分かる?」


 なんでだろう、と首を傾げたフィリップに、ルキアが問う。フィリップは怪訝そうな顔をきょとんとした表情に変え、また首を傾げた。

 

 「え? 安直に王族暗殺とかじゃないんですか? あ、あと、親書偽造と貨幣偽造もめちゃくちゃ重罪になるって聞いたことがあります」

 「そうね。でも最上じゃないわ。確かに王族暗殺は未遂でも死刑になる重罪だけれど、その上──王位の簒奪は族滅、主要家族の処刑と、親族の処刑もしくは国外追放が原則ね」


 ちなみに専制君主制を取っている王国では法は王族に対しては効果を持たないので、ステラを始めとした王族がクーデターを起こしても、王族が全滅したりはしない。

 

 フィリップはふむふむと頷き、言葉の先を待つ。


 「特に、魔術や依存性薬物、麻薬を使った傀儡化は国家への影響が甚大だから、減刑の余地が殆ど無くなるの。原則という言葉が冷酷な意味を帯びるほど淡々と、確実に粛清されるわ」

 「へぇー。……あ、なるほど、それでですか。そりゃあ、人死には少ない方が良いですからね」


 フィリップは笑う。

 けらけらと──何もしなくても死んでしまいそうなほど怯え、既に死んでいるのではと思わせるほど血の気の失せたウェイトレスが……ナイアーラトテップに利用されただけの一般人が殺されそうになっている前で、愉快そうに。


 人の死を前に無感動であるのはまだしも、それを笑うのは如何なものかと諫めようとしたルキアが口を開き──、


 「……あ」


 ぽつりと、ウェイトレスの口から声が漏れる。

 それを意識の端で知覚したルキアは思わず目を瞠り、ステラが驚愕と動揺で肩を強張らせた。


 「え? すみません、なんて──」

 「馬鹿か、カーター、近付くな! !」


 ふらふらと近付いて行ったフィリップに、ステラの鋭い警告が飛ぶ。

 必要な情報と指示を的確に投げるのは流石の合理性だが、しかし、動揺からだろう、一歩遅かった。



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