第198話
修学旅行二日目、朝。
いつの間にか部屋のベッドで眠っていたフィリップが、朝になって必死に思い出した記憶によると。
結局、マイノグーラは、何か特別な理由があってここにいるわけではないらしい。
彼女は千年前辺りから地球に滞在し、良質な人間の魂を見繕ってはつまみ食いをするという、人類視点では恐ろしく迷惑なことをしていたのだとか。聖国の騎士王レイアール・バルドルという化身を象ったのは、今のマイブームが戦士の魂だから。ここに来たのは、その化身が持っている立場上の理由──つまり、マイノグーラではなくレイアールとしての行動だと語っていた。
記憶の中のレイアールは、歓喜と恐縮と敬意が綯い交ぜになったような表情で跪き、過剰なほど丁寧に説明していたが……何故だろうか。触手のカラスも、今朝は恐る恐るといった風情で甘えるように寄り添ってきたし、何かあったのか?
「……まぁ、いいか」
フィリップとしては、マイノグーラが、人間には想像もつかないような悍ましい理由でここにいるのでなければ、何でもいい。
フィリップとルキアとステラが修学旅行を満喫できれば。その後も人類社会を覆すようなことをしなければ、それでいい。
「今日の朝ごはんはどこだったかな、と……」
修学旅行のしおりをぱらぱらとめくり、載っていた簡易地図を見ながら部屋を出る。
廊下や階段には同じような行動をしている学院生が散見され、その中にクラスメイトを見つけたフィリップは、これ幸いと後ろをついて行くことにした。
一階に降りるとナイ教授が立っていて、名簿片手にAクラス生の健康確認をしていた。他のクラスもそれぞれの担任が同じことをしている。
「おはようございまーす。お名前と健康状態を教えてくださいねー、フィリップくん」
「なんで名前まで……? フィリップ・カーター、えっと、普通に健康です」
そうですかぁ、と、ナイ教授は猫耳をぴこぴこ動かしながら名簿に何事か書き入れた。
そのまま生徒たちの流れに沿って進もうとしたフィリップだが、袖口をきゅっと掴まれる。あざとい仕草だが、もう単純に触らないでほしいという感想しか浮かばない。
「……なんですか?」
「昨日のことをお聞きしておこうかなーって。昨日の夜はどうでしたかぁ?」
「昨日? ……あ、そうだ! マイノグーラがいるなら先に教えておいてくださいよ! すごくびっくりしたんですから!」
フィリップの苦言に、ナイ教授は仮面のような嘲笑を顔に貼り付け、適当な謝罪を述べた。
憮然としたフィリップを適当にあしらい、朝食会場へ追い遣る。なんなんだと思わなくもないが、いつも通りのナイアーラトテップといえばその通りだったので、フィリップは素直に従った。
朝食の会場は宿からほど近いところにある野外テラスで、木製のチェアセットが朝日を浴びている。
既に幾つかのテーブルにはクラスメイトがまばらに座っていて、後から来た友達に手を振っていた。
「えーっと……?」
大体が4人掛けか3人掛けのテーブル同士は、それなりに離れている。これなら、二人も別室に行く必要は無いだろう。
二人の隔離は主にステラの持つ次期女王という肩書に起因する、暗殺への警戒が理由だ。
ワインのアルコールは警戒心を緩ませるし、一々錬金術製の指輪や魔力視で毒を確認するのが面倒だから、大人数で食事する時には他人から少し離れた所に陣取っているのだ。
このレイアウトなら、誰かが近付いてくるだけで不自然に目立つ。トイレとも厨房とも違う場所に陣取ればいいだろうが……三人席である必要もある。
大人しく、二人が来て座りたい場所を決めるのを待った方がいい。
変に座って席を埋めてしまうと、他の生徒に気を遣わせてしまうだろう。
後からルキアとステラが来て退くことになるのだとしたら、それはかなり心苦しい。
懐中時計を見ながら二人を待っていると、数分もせずに現れた。
今日予定されているイベントに備えて、二人とも動き易そうなパンツスタイルだ。相変わらず黒を基調としたルキアと、赤を基調としたステラの対比は目に付きやすい。勿論、一番目を惹くのは二人の容姿なのだが。
口々に挨拶するクラスメイトたちに軽く手を挙げて応じながらやってきた二人は、フィリップを神妙な面持ちで観察する。
「……? あの、おはようございます、二人とも。何か変ですか?」
フィリップは動きやすい素材の長ズボンと半袖のシャツで、もう完全に一般観光客といった風情だ。
大通りで石を投げれば、4割くらいの確率で似たような服装の人間に当たるだろう。少し庶民的と言うか、安物の服ではあるが、今日のイベントはそれぐらいでちょうどいいはずだ。
首を傾げたフィリップに、二人はどこか安堵したように息を吐いて、まずは挨拶を返す。
そして、
「例の、騎士王バルドルとの対談は恙なく終わったようだな」
フィリップは二人が安堵してくれたことにこそ、安堵した。
「はい。彼女は敵ではありませんでしたし、何か……惨たらしい計画があってここにいるわけではないです。ただ聖国の代表として訪問しただけらしいので、安心してください」
ルキアとステラはフィリップの身を案じていたようだが、それは杞憂だ。
基本的に、知識量とフィリップに敵対する確率は反比例する。外神マイノグーラともなれば、フィリップの前に敵として立つことの愚かしさは十分に理解しているはずだ。
安心させるように笑ったフィリップは、さて、と手を叩いて空気を切り替える。
「で、どこに座りますか?」
「三人席があれば、それが一番なんだが……」
「……あのテーブルが三人掛けね。行きましょう」
しばらく待ってクラス全員が揃うと、近くのレストランから朝食が運ばれてくる。
ステラが指輪と魔力視で毒を確認してから食器を取り、そこからはいつも通り雑談しながらの朝食風景だった。
食後の紅茶を嗜む──セットメニューの一つとしてあるので、習慣が無い生徒も含めた全員が飲んでいる──一行の下に、ぽてぽてとナイ教授がやってくる。
彼女も生徒たちと同じものを、同じ場所で食べていたはずだが、いつの間にか居なくなって、いつの間にか戻って来ていた。
「はーい、みなさん、注目してくださいねー」
ぺちぺちと手を叩いてAクラス生の注意を引くナイ教授。
その容姿と仕草は道行く一般人の目も強烈に惹いていたが、彼らは面倒を嫌ったナイアーラトテップの権能によって、強制的に興味を失わされて立ち去っていく。
「本日のメインイベントはー、正午からの牛追い祭りですよー。まだ4時間くらいあると思いますけどー、きちんと準備して集合してくださいねー」
はーい、と良い返事が一斉に上がる。
なんだこいつらと言いたげなのはフィリップだけだ。
「それまでは自由時間なのでー、存分に準備してくださいねー。あ、フィリップくんは二つ向こうの通りの武器屋で、革製の鞭を購入されることをお勧めしますよー」
「ウィップ? なんでまた?」
ナイ教授がフィリップだけを名指しするのはいつものことだが、今回のアドバイスは釈然としない。
金属製の鞭を四つ束ねたような特殊武器、ウルミを使うフィリップは、鞭術に適した身体の鍛え方をしている。筋力より柔軟性、強靭さより可動域、パワーより精度を重視している。それなりに技量もついてきたし、普段から四本の鞭を制御しているのだ。ウィップだって十分に扱える。
ただ、当然のことながら攻撃性能は落ちるだろう。
表面を荒く削った金属鞭は、鞭の打ち裂くような攻撃に加えて、ノコギリやヤスリのような荒い傷を残す。
単純な殺傷能力で考えるならダウングレードだ。
尤も、外神の視座からすれば誤差みたいなものだが……狙いが分からない。
ぺらぺらとしおりをめくり、予定されているイベントを確認するが、正午から『牛追い祭り』。終了予定時刻は午後三時ごろ。あとは午後六時ごろの夕食まで自由時間だ。
非殺傷攻撃を要求される場面には想像がつかない。
「はーい、フィリップくんのような勘違いさんがいるかもしれないので、ここで説明しておきますねー」
ちょっと煽られたフィリップは不機嫌そうに紅茶を啜り、ナイ教授の言葉の続きを待つ。
「牛追い祭りは『牛を追うお祭』ではなく、『牛が追うお祭り』ですよー」
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