第199話

 牛追い祭りは、人間が牛を追い立てるのではなく、牛が人間を追い立てる祭りだ。

 数百年前の聖人が巨大な暴れ牛を傷付けることなく宥め、牛の有り余った体力で畑を耕し、大きな恵みを齎したことに由来する。


 聖国で行われる闘牛──雄牛同士を戦わせる見世物──の今年度チャンピオンとなった精強な牛を聖別したあと、街中に解き放つらしい。


 祭りの参加者は腰に赤いパレオのような布を付け、牛を誘導して逃げ続ける。

 制限時間は一時間で、その間、聖なる牛に対する直接攻撃はその一切が禁止される。自衛目的の魔力障壁は使ってもいいらしいが、闘牛の突撃を防げるような強度は、それこそ聖痕者や宮廷魔術師クラスの強者にしかない。


 だから一応、直接攻撃ではない魔術──《フィアーオーラ》のような恐怖感を煽る魔術や、逆に《デコイ》のような挑発誘導系の魔術、あとは自己強化補助魔術アジリティによる回避、《ウォークライ》による恐怖心克服などは全面的に許されている。


 ……それでも、闘牛から一時間も逃げるのは不可能ではなかろうか。

 パレオを巻いた参加者は、当然ながら店や宿などの建物には入れない。しかも牛は一頭だけでなく、参加者の数に応じて増えるのだとか。闘牛チャンピオンから、第二位、第三位と順に。


 一時間後には聖国の魔術師団が沈静化の魔術を用いて牛を処理するらしいが、果たして何人が無傷でいられるのか。


 「ウィップは牛を誘導するための道具なのでー、持ち込む人も多いですよー。その他も大声による威嚇などは全面的に認められているのでー、頑張ってくださいねー」


 なるほどそれでかと納得したフィリップは、次の瞬間にはナイ神父じみて嘲りの色濃い笑顔を浮かべた。


 馬鹿め、邪神のくせに──いや邪神だからこそ、自分の臭いに気が付いていない。

 人間だって自分の臭いに気を払うのは他人を気にするときだが、奴らは基本的に自分の世界で完結している存在。フィリップにべったりと付着した残り香、動物のような鼻が利く相手には強烈な忌避感を与える邪神じぶんの気配に、まるで気が付いていない。


 牛を追う側だろうが追われる側だろうが、相手が動物ならフィリップの勝ちだ。

 目的が捕獲とかになると、また話は別なのだけれど……闘牛がなんだ。こちとら軍馬ですら怯えて嘶き、乗馬は絶望的と言われている身だ。狼の群れすら追い立てる悪臭を以て、牛追い祭りを文字通りのものに変えてくれるわ。


 「……いや、怒られるかな」


 強制的に恐怖心を掻き立てる『フィアーオーラ』が緊急回避用の魔術として認められているのだし、大丈夫だとは思うけれど。

 何よりフィリップの矮躯が空を高々と舞うようなことになれば、流石のヨグ=ソトースも脅威判定を下すだろう。牛一頭のために教皇領を吹き飛ばすのは、流石のフィリップも望むところでは無い。


 「シルヴァはどうする? 参加してみる?」


 フィリップが虚空に話しかけると、足元に魔法陣が展開され、5,6歳ほどの体格の女児がぬるりと現れる。言うまでも無くフィリップと契約したヴィカリウス・シルヴァの幼体、シルヴァだ。周囲にはドライアドの子供と説明していたが、既にクラスの約半数が、それがドライアドなどではないことに気が付いている。


 フィリップはびくりと震えたクラスメイトたちに「あ、驚かせてしまいましたか。すみません」とズレた謝罪をする。

 シルヴァはそんな周囲の様子には興味が無いようで、一瞥もせずに、ぽすりとフィリップの膝に収まった。


 「んー……ふぃりっぷがやるなら、やる」

 「僕は強制参加というか、クラス単位での参加だからね。じゃあ一緒に牛を追い回そうか」




 ──と、話していたのが三時間ほど前のこと。

 牛追い祭りに参加するAクラス生や一般参加者は、総勢500人程度になった。


 合わせるように雄牛の数も追加され、六頭の闘牛が用意された。鉄製のケージに入った彼らは台車のようなもので運ばれて、配置につく。

 どの牛も冗談のように隆起した筋肉と、心のうちに燃え上がる熱い闘志を窺わせる鋭い眼光を持っていた。鼻息は荒く、既に意気込みは十分といった風情だ。


 スタート地点は、参加者から200メートルほど離れている。

 だが人間が走り始めると同時にケージが解放されるため、油断すれば距離的猶予は一瞬で消えると思っていい。


 まぁ、フィリップには関係の無い話だが。


 『今年も始まります、牛追い祭り! 今回の参加者には聖痕者がお二人もいらっしゃるということで、逃走圏内の建物からは多くのギャラリーが歓声を上げています!』


 どこかから、錬金術か魔術かによって拡大された実況の声が響く。


 高を括ってポケットに手を突っ込み、壁際で観戦するような姿勢になっていたフィリップは、遠くで牛たちに魔術が掛けられるのを不思議そうに眺めていた。

 肩車されているシルヴァも──参加規程が10歳以上だったので赤い腰布は貰えなかった──、何をしているのだろうと首を傾げている。


 少し離れたところにいたルキアとステラが何事か叫んでいるが、沿道の歓声や参加者の叫ぶ挑発で上手く聞き取れない。


 実況の言葉が続く。


 『今年の牛は一味違うぞ! 前回の『フィアーオーラ』連発で闘争心が萎えてしまった事案を教訓に、凶暴化の魔術『バーサーク』が掛けられます! こいつは中々に厳しい戦いになりそうです!』


 ──え?

 いや、それはちょっと不味いのではないだろうか。


 理性を失った獣が恐怖心を呼び起こす臭いに相対した時、逃走を選ぶとは考えにくい。選ぶとしたら、むしろ闘争だろう。


 『闘牛に用いられる牛は、ブラックバッファローという種類で、体長は小さいものでも2.5メートル、体高は最大2メートルにもなります。体重は約1000キロですが、侮るなかれ! 馬と同等の健脚を持っていますよ! ──さぁ、準備が整ったようです!』


 何か手間取っていたのだろうが、それを感じさせない実況の語り口調。

 そんなところに感心している暇は無かった。


 『唸り声を上げる猛獣たちの檻が、今! ──解放されました!』


 どっ! と、遠くで地響きのような音が上がり、土煙が立ち昇る。

 沿道の建物からは歓声が上がり、参加者たちも挑発するように腰布を振り、叫びながら走り始める。中にはわざと遅れて胆力を誇示する者もいた。


 フィリップはというと、


 「逃げろ、カーター!」

 「フィリップ、走って!」


 二人の声に導かれるまでもなく、全力疾走を開始していた。


 やばい。

 これはやばい。

 なんというか、慢心が過ぎた。


 いやしかし、まさか闘牛をさらに凶暴化させるなんてことが、誰に想像できようか。


 「シルヴァ、ちゃんと掴まって!」

 「ん! わかった!」

 

 肩と頭に微かな圧力が加わる。

 こんな程度で振り落とされないのかと心配になるが、シルヴァには殆ど体重が無い。この程度の固定でも落っこちたりはしないだろう。


 問題は、刻一刻と背後から迫りくる牛たちだ。

 脇道に入っていったグループを追っていった個体を差し引いても、フィリップたちの方に三頭来ている。来ているというか、突撃している。


 「──、っ!」


 凶暴化しているとはいえ所詮は獣。

 『萎縮』なり『深淵の息』なりで十分に対処可能だが、攻撃してはいけないルールがある。


 あぁ──だから、か。

 だから、牛追い鞭ブルウィップを持っておけと言われたのか。あの特徴的な音で驚かせて誘導するとか、鼻面を叩いて叱り付けるとか、絵本で見たことがある。


 そうだ。凶暴化した牛を宥めるのは聖人の専売特許じゃない。物語に描かれた吟遊詩人は歌と楽器で、英雄は素手で、そして冒険家は鞭を使って事を収めていたじゃないか。


 「慢心したな、カーター」

 「あれは流石に油断し過ぎよ。イベントだから走るくらいで済んでいるけれど、実戦だったら死んでいるわ」


 合流したルキアとステラが並走しながら、両サイドから責めてくる。

 フィリップの身を案じ浅慮を諫めるルキアとは違って、ステラは完全に揶揄っていたが。


 「まさか凶暴化とはな! あの状態の獣は厄介だぞ? どうする、カーター?」

 「そうね。フィリップの言う“臭い”に気付いている様子もないし、一時間走り続けるのも非現実的だものね」

 「楽しそうですね二人とも! 僕はもう結構全力で走ってるんですが!」


 全力疾走のフィリップに何の苦も無く並走し、あまつさえ揶揄うように笑っている二人を見て、フィリップが吼える。

 しかし、その表情は楽しそうな、そして嬉しそうな笑顔だった。


 これでいい。

 マイノグーラに限らず、邪神の気配なんて無い場所に二人が居てくれる。


 それでいい──それがいい。


 「ふぃりっぷ、これ、おにごっこ?」


 頭にしがみついていたシルヴァが、背後の牛を指しながら訊ねる。

 フィリップの、いや周囲全体の興奮と熱気に中てられたのだろう、彼女も楽しそうな笑顔だった。


 「え? あぁ、うん! そんな感じ! 捕まる前に吹っ飛ばされると思うけどね!」


 少なくとも全力疾走する雄牛の『タッチ』は、フィリップを打ちあげるのに十分な威力のはずだ。最近少し身長が伸びて、体重も40キロそこそこまで増えたとはいえ。


 「じゃあしるばもはしる!」

 「──え? ちょっ!?」


 止める間もなく飛び降りたシルヴァは、その小さな歩幅のせいですぐに三人から遅れる。

 三人より後ろには疎らにしか人がいないから即座に見失いはしないが、時間の問題だろう。


 何も問題はない。

 

 「危なくなったら戻りなよ!」

 「わかったー!」


 シルヴァは召喚契約で生成された魔術的な異空間に、彼女自身の意志で自由に出入りできる。

 それに、あれでもヴィカリウス・シルヴァの幼体だ。雄牛の突進が対森林級攻撃にはどうやっても届かない以上、彼女が傷付くことはない。


 ……ただ、突進のエネルギーはその矮躯を軽々と吹き飛ばすだろうが。


 あぁ、耳を澄ますまでも無く、背後から──やけに高い場所から、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。

 周囲のどよめきも一瞬で、楽しそうな笑顔を見て「防御系の魔術を使ったのだろう」と勘違いして納得し、すぐに元通りの歓声になる。


 さて──硬い蹄が石畳を打つ音が、どんどん近付いて来ている。

 シルヴァが一頭を連れて遊びに行き、もう一頭は別な参加者を追っていった。


 残る一頭は、フィリップをしっかりとマークしていた。


 フィリップには概念的強度も防御魔術も魔力障壁も無いが──


 「かかって来いよ獣畜生……! お前も両目と脳でモノを見てるんだろう……!?」


 ──対抗策は、ある。


 ヤケクソ気味に啖呵を切り、独特の疾走態勢を取って向かい合うフィリップ。


 牛追い祭りでは稀にいる、聖人ではなく英雄のロールプレイに、観客がより一層の歓声を上げた。








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