第197話
修学旅行一日目、夜。
──二十五日間の旅程を含めると、当然ながら二十五日目ということになるのだけれど、イベントらしいイベントといえば全15回にも亘る第二学年全員による馬車対抗ポーカー大会くらいしか無かったので、そこはもう省いて。
フィリップは夕食と風呂を終え、宿部屋のベッドでシルヴァと戯れていた。
風呂は大浴場と個室の家族風呂があったが、シルヴァが一緒に入ると主張したので、今日は個室だ。
今は自分の髪を拭き終えて、シルヴァの髪を梳いているところだった。
膝に乗せても重みを感じない存在感の希薄さと反するように、彼女の髪は綺麗な若草色で、枝葉で織られた冠が良く似合う。装身具ではなく身体の一部で取り外しのできないこれは、頭を洗うのにも髪を拭くのにも髪を梳かすのにも邪魔だった。
ドライアドもヴィカリウス・システムも老廃物の代謝が起こらないので、風呂に入る必要性は薄いのだが、本人曰く、気持ちいいから入りたいのだそうで。
ステラがいれば髪に付着した水分だけをピンポイントで蒸発させられるのではと、何度も何度も何度も思うが、寮でも宿でも、風呂上がりの時間帯に「ちょっと髪を乾かして欲しいんですけど」と訪ねるほど不躾にはなれない。
顔の前でさわさわと揺れる、色艶の良い葉。
広葉樹の何かだとは思うのだが、木の種類までは分からない。それをちょんちょんと弄りながら、ふと頭に浮かんだ質問を口から垂れ流した。
「シルヴァの髪飾りの葉ってさ、生え変わったりしないの? 部屋に落ちてるところとか、見たことないけど」
「え、わかんない。……ちぎってみる?」
無頓着に言ったシルヴァに、さしものフィリップも苦笑を浮かべる。
枝葉の冠は、フィリップから見ても精緻なものだ。また生えてくる確証も無いのに損なおうとは思わない──のだが、ぷち、と小さな音がした。
「いや──え? 千切っちゃったの!? ……あ、一瞬で生えてきた。へぇ、こうなるんだ……」
フィリップは明らかに植物の生長速度とはかけ離れた超速再生を見せた葉を、指先でぴろぴろと弄ぶ。
シルヴァは千切った葉をどうするか悩み、最終的に口元に運んだ。
むしゃむしゃと咀嚼し、こくりと小さく喉を鳴らして嚥下したシルヴァに、フィリップは再び好奇心が刺激される。
「美味しい?」
「んー……むみ」
「無味かぁ。……そりゃそっかぁ」
シルヴァに味覚が存在しないことは、契約したその日の夜に判明している。
そもそも食事・消化・排泄という概念を持たない彼女は、食欲というものを持っていない。ヴィカリウス・システムには星の力が自動的に充填される。
フィリップが馬鹿なことを聞いたと自嘲の笑みを浮かべていると、扉が三度、ノックされた。
扉の外からは宿の従業員らしき男の声で、「カーター様、ご在室でしょうか」と聞こえる。
返事をして扉を開けると、宿の制服を着たベルマンが立っていた。
「お客様がお見えです。聖国騎士団長レイアール・バルドル様の使いで来られたと仰せでした」
「あぁ。ありがとうございます。自分で対応しますね」
「畏まりました。一階にて、お待ちいただいております。……では、失礼いたします」
高級宿では、宿の人間が来客に対応してくれる。
貴族が泊まるような部屋にありがちな、招かれざる客への警戒だ。今回は事前に言われていたことなので、そのサービスは断る。
「行くよシルヴァ。戻って」
「ん、わかった」
ごろごろとベッドに転がっていたシルヴァの姿が掻き消える。
魔術的な異空間への送還と、任意のタイミングでの召喚。フィリップとシルヴァが結んだ契約ではそれだけしかできないが、それだけで十分だ。
一階に降りると、鎧姿の騎士が直立不動の姿勢で待っていた。
「フィリップ・カーター氏ですね! 聖十字卿がお待ちです! ご案内いたします!」
フルフェイスヘルム越しにもよく通る声は小気味よかったが、大浴場から部屋に戻る途中の生徒が散見されるところでそんなことを叫んだら、またぞろ「やっぱり猊下は猊下なんだよ」と誤解が加速して──
「おいあれ、カーターさんだ」
「聖十字卿って、聖国の騎士王バルドル? ……あぁ、そういう」
「まぁ、カーターさんだし、そういうこともあるよな」
──もはや加速する余地も無いほどのトップスピードだった。
残念ながら、フィリップが常人の範疇にないということは確定しているのだ。彼らの中では。
止めとなったのは、実はシルヴァだったりする。
魔力視の精度に自信のある生徒はシルヴァという「存在していない存在」を従えていることに、魔術解析に自信のある生徒は「召喚術とは違う召喚の魔術」を見て、疑いを確信に変えていた。
「あれ? なんだか普通の反応だぞ?」と、ちょっと嬉しくなっているフィリップは全く気付いていないが。
世間話などしつつ、通りを幾つか移った宿に入る。
案内された部屋の扉をノックすると、夕方に聞いた涼やかな声が返ってきた。
「どうぞ」
挨拶も無く扉を開けたフィリップに、案内役の騎士がぎょっとする。彼に対しては丁寧に対応していたからだろう。
やっぱり子供なんだなぁと独りで納得した彼は、室内でも鎧姿で、兜さえ取らずに直立不動の騎士王には驚きもせず、一礼して立ち去った。
フィリップの部屋と似たようなレイアウトのスイートルーム。
閉め切られた窓からは月光の入りようもなく、燭台に灯る炎が穏やかに部屋を照らしていた。
「我らが寵児よ。あぁ──貴方と化身を通じてお会いできること、心よりお待ち申し上げておりました」
部屋に二人きりになると、レイアールが兜を脱ぐ。
その下には、ナイ神父と同じ浅黒い肌と漆黒の髪が隠れていた。容姿も特筆すべきもので、ナイ神父を女性にして細部を整えるとこんな感じになるだろうと思わせる、彼の姉か妹のような出で立ちだ。
部屋を照らす蝋燭が放つオレンジ色の明かりを受けて、尚も昏い漆黒の髪。兜に押し込められていた背中まである長さのそれがふわりと揺れ、フィリップの知らない花の香りが漂った。
薄い笑みを浮かべた唇に嘲笑の色は無く、むしろマザーと同じ愛玩の気配が濃い。
やけにゆっくりと近付いてくるのは、彼女が一歩進んだ分だけ自分が後ろに下がっているからだと、背中に当たる壁の感触で理解した。
血のように赤い舌が、艶めかしく唇を舐める。
獲物を前にした舌なめずりだ。誰が獲物なのかは言うまでもない。
「あぁ──なんて可愛らしい。私たちと同じ視座を、知識を持ちながら、こんなにも脆弱な肉の器に、こんなにも矮小な魂を容れて満足しているなんて。それを自ら願う心の在り方──人間性、だったかしら。貴方が持っているはずがないもの、その模倣と自己暗示。あぁ、あぁ──その小さな魂、どんな味なのかしら!」
レイアールの手が伸びる。
顔や首元は上気して赤く染まり、吐き気を催す極彩色の双眸には蕩けたように潤んでいた。
襲われる──否、喰われる。
そう確信して身体が強張った時には、レイアールの両手が消えていた。
フィリップとレイアールは同時に異常を察知し、レイアールだけが飛び退く。フィリップもそうしたい気分だったが、背後には高級宿の分厚い壁がある。
一瞬遅れて、べちゃりと重く湿ったものが毛足の長いカーペットに落ちる。
見るまでも無く、黄金の鎧に包まれたレイアールの両腕──純金と肉体とがぐちゃぐちゃに攪拌された、その残骸だった。
「──、ぁ」
さわさわと髪を揺らす、夜の匂いの風。
窓は閉じられていたはずなのに、と視線を向けると、壁に空いた大穴に気が付く。
高級宿に相応しい分厚い石造りの外壁が、音も立てないほど無抵抗に抉り抜かれていた。
その外、街路樹に停まった一羽のカラスが、どこか不愉快そうにレイアールを見つめていた。
ぼたぼたと血を──人間のものと見分けがつかない、目に痛い赤だった──流す両腕を、鎧ごと一瞬で再生させて、レイアールは淫蕩な笑顔を浮かべた。
「ahhh……Shub-Niggurath……■■■■、■■■■■■■■■……」
陶然と、人間の喉からは決して出ることの無い音で、愛しげに語りかける。
そんなレイアールに、黒い触手で編まれた醜悪なカラスが小首を傾げた。
「分からないの? この可愛らしい我らが寵児の、とろとろに蕩けた魂の香りが。人間では有り得ない悪性と善性の同居、罪も赦しも生も死も愛も憎悪も宿さない無垢。雑味のない純粋さは赤子の魂でしか有り得ないけれど、この子はそれに最も近い」
レイアールはまた一歩、こちらに歩み寄る動きを見せる。
一瞬の後、フィリップがその一歩目を知覚した時には、彼女は蛇のように滑り込んで、フィリップを背中から抱き締めていた。
フィリップの知らない花のような香りに、若い女の体温に、背中に押し当てられた豊かな胸と絡まり合った足の感触に、フィリップの全身に鳥肌が立った。
なるほど、と納得に落ちる。
心の奥底から沸き上がって、脳を蕩けさせ、背筋を焼き、心臓を燃やし尽くすようなこの衝動こそが、性欲というものか。
未だ身体が未発達で、生殖行為に及ぶことのできない状態のフィリップをさえ、性的に興奮させている。
マイノグーラにはそういう権能があると、フィリップは知識として知っている。だから逆説的に「これが性欲というものなのか」と、自覚と共に納得していた。
だが──そこ止まりだ。
火傷しそうなほどに熱く、男を興奮させるように芳しい吐息が首筋を撫でる。
血のように赤い唇が耳元に寄せられ、しなやかな四肢が蛇のように絡み付く。
男を誘い、獣性を励起する言葉を囁く口元に、
「……やめてください」
フィリップの拳が突き刺さった。
鼻と上唇の辺りを穿つ裏拳は、レイアールに一片のダメージも与えていないだろう。
だが自分の歯がフィリップの拳を傷付けないよう仰け反った時点で、
壁に空いた大穴の外で、触手のカラスが輪郭を崩す。
フィリップが簡単に抱えられる程度の大きさだったそれは、質量保存の法則に唾を吐いて、フィリップが両手を広げたよりさらに大きな壁の穴を埋め尽くす、触手の大波と化した。
一瞬より短い時間でレイアールを打ち据え、フィリップから引き剥がし、金属の鎧と柔らかな女の肉と人間と変わりない中身を攪拌する。
ちょっと気持ちよさそうに喘いでいたのは聞かなかったことにして、フィリップは深々と溜息を吐いた。
「はぁ……」
机に置かれていた水差しとコップを取り、勝手に注いで勝手に呷る。
強烈で独特な匂いのある液体が喉を通り過ぎ、胃に落ちていく感覚は、執拗に、そして愉しそうに攻撃を重ねる触手と、同じく愉しそうに喘ぐ金属と肉の混合物という常人であれば卒倒必至の光景から気を逸らしてくれた。
「うぇ、お酒じゃんこれ……」
胃の中からじんわりと、全身が温かくなっていく感覚は不思議だ。しかし口から鼻に抜ける独特の匂いは、あまり好きなものではなかった。
お腹から上がってきた熱が耳元を通り過ぎ、頭の中で反響する。
なるほどこれが“酔う”という感覚なのかと、ぼんやりと思った。
何か口直しが欲しいところだが、部屋の主はその行いをシュブ=ニグラスに見咎められ、折檻されている最中だ。
全く、いつまで遊んでいるのか。邪神の化身と、化身のそのまた使い魔の戯れを見るために、就寝時間ぎりぎりに宿を出てきたわけじゃないのだが。
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