第196話

 マイノグーラは、外なる神の一柱だ。

 しかし、その在り方は極めて奇妙といえる。


 彼或いは彼女は、人間の魂を好んで食べるのだ。


 ──邪神らしい悍ましい嗜好といえば、その通りだ。

 だが、外神と人間では存在の格差が大きすぎる。人間が蜂の幼虫やイナゴなんかを食べているのとは違う。それは言うなれば人間がを食っているようなもの。存在の次元からして違うはずなのだ。


 植え付けられた智慧を参照して首を捻っていたフィリップを、ルキアとステラが不思議そうに見遣る。

 シルヴァは何かを直感的に悟ったのか、或いは何も考えていないのか、黄金の騎士をぼんやりと眺めていた。


 「金の鎧は非合理的だが、あれは飾りだよ。攻撃も防御も、腰に佩いた魔剣インドラハートが全て担う」

 「……殿下は、あれが戦うところを見たことが?」

 「昔、模擬戦をな。殺す気でなければ勝ち切れない相手だが……どうした?」


 嘘だろ、と笑い飛ばしたいところだが、そうもいかない。

 その当時は本当にただの人間で、どこかのタイミングで成り代わった可能性だって否定できない。


 しかしマイノグーラの擬態──人間のように見える化身を形作り、神威を隠すその精度は、ナイアーラトテップにも比肩する。

 あらゆる外神の情報を持ち、その神威を身を以て記憶しているフィリップが、十数メートル圏内で目視して、漸く判別できるレベルだ。神威を直接受けて記憶したわけでは無いからという理由もあるだろう。


 ずっと──フィリップが生まれる前からこの星に居ついていたとしても不思議はない。


 「……いえ、何でもないです。何でもないんですけど、あれに魔力視は使わないでくださいね」

 「……分かったわ」

 「もうちょっと理由を隠してくれ……」


 ルキアは警戒も露わに、ステラは呆れを滲ませて、威風堂々と進む金色の鎧騎士を見遣る。

 その視線が刺さったのか、或いはもっと以前から気付いていたのか。恐らく後者だろうが、陽光じみて輝かしいフルフェイスヘルムがこちらを向いた。


 ルキアとステラには、神威が感じられないのだろう。二人とも恐怖ではなく、困惑しているように見える。

 無理もない。膨大すぎて分からないのではなく、フィリップですら気付けないほど抑え込まれているのだから。


 だがフィリップには分かる。こちらを向いたヘルムの、ごく細いスリットの奥──吐き気を催す極彩色の双眸と目が合ったような錯覚すらあった。


 「僕の敵ではないはずなので、安心してください」


 マイノグーラとて外神だ。

 アザトースの命によって守護されているフィリップに敵対することはない──だ。


 断言できないこともまた、マイノグーラの特異性の一つだ。

 あれは外神の中で唯一、アザトースの命令に忠実ではない存在だった。必ず従わないわけではなく、気紛れに従うこともあるのが逆に厄介といえる。


 要は、


 「こんな──宇宙の片隅のド辺境惑星こんなところで何やってるんだろ」


 顕現目的が判然としない。それが最悪の問題だった。


 ただ、まぁ、あれでも外神だ。

 フィリップに敵対することの愚かしさと無意味さは、誰に警告されるまでも無く知っているだろう。


 フィリップの守護という命題を最短最速で解決しにくる──強制的な外神化という手段を取ってくる可能性は排除できないが、その時は恥も外聞もなくヨグ=ソトースに助けを求めるつもりだ。間に合わなかったら? その時は助けを求める必要も無くなるので問題はない。


 フィリップと目を合わせたマイノグーラは、片手を挙げて合図した。

 麾下の騎士団──全員が純粋な人間に見える──は一糸乱れぬ動きで馬を止め、鎧の重みを感じさせない軽々とした動きで馬から降りる。


 最後に黄金の騎士、マイノグーラ本人も馬を降りると、ずん、と重々しい音が響いた。

 純金の鎧なんて馬鹿なモノを着ているからだぞと口角を上げたのはフィリップだけで、周囲からは感心の声と歓声、そして僅かに疑問の声が上がる。


 「なんで馬を降りたんだ? 聖国の代表団が泊まるって宿はもっと奥だろ?」


 その疑問は周囲に伝播していき、ややあって終息した。

 黄金の騎士が見据えて歩く先には、一国の王ですら無視できない存在──聖痕者が居たからだ。


 馬上に乗ったままその前を通ることすら不敬と感じて馬を降り、手綱を引いて進むことにしたのだろう。ギャラリーはそう納得した。


 そんな彼らの予想通りに、金色の鎧騎士、聖騎士の王はルキアとステラの前で立ち止まり、跪いた。

 否、マイノグーラが跪いたのは確かにルキアとステラの前だったが、それは偶々でしかない。偶々、二人が近くに居ただけのこと。膝を突き、頭を下げる敬意の表示、その宛先は言うまでも無く、


 「──まずは、貴方の御前で兜を取らない無礼をお許しください。我らが寵愛の御子よ」


 フィリップだった。


 フルフェイスヘルムでくぐもった声は聞き取りづらいが、どうやら化身は女性体らしい。それも年若い──マザーと同じくらいの、妙齢の女性ではないかと窺わせる、艶やかな色気のある声だった。


 言葉の内容はかなり際どいものだったが、聖痕者は唯一神に認められた者だ。

 “寵愛の御子”という表現は些か詩的に過ぎるが、間違いではない。現に、周囲からはルキアとステラに向けたものとして認識されている。


 ただ、ルキアもステラも、そしてフィリップも、そんな勘違いはしていなかった。


 フィリップが頷いて合図を送ると、その意図を正確に汲んだ二人が対応する。

 しかしその立ち位置は変わらず、跪いた騎士と二人の聖人の間には、顔を強張らせた少年が庇うように立っていた。


 「『聖十字卿』、レイアール・バルドル……。相変わらず目に痛い格好だな」

 「ご無沙汰しております、ステラ聖下。耐魔力に秀でたこの鎧は、私の生命線にして正装です。お見苦しいとは存じますが、お目こぼしのほどを」


 フィリップがちらりと視線を向けると、ステラは僅かに頷く。

 以前に会った時と性格や対応が変わった様子はない、ということだろう。


 「サークリス聖下、以前にお会いした時よりも一層、お美しくなられましたね。特にその銀の髪に、漆黒の衣装はとてもよくお似合いです。同性の身ながら見惚れてしまいました」

 「……貴女は相変わらずね」

 「お陰様で、我がセレファイス聖国一同、変わらず壮健にございます」


 つい、と黄金の兜が動き、フィリップの方を向く。

 細いスリット越しでは目元が見えないのでなんとなくだが、視線はどこか陶然としているような気がした。


 「……わぁー、きしさまだぁー」


 テンションの上がった子供の演技──シルヴァ以上に抑揚の死に切った棒読みだったが──などしつつ、跪いた鎧騎士と視線を合わせるように膝を突く。

 腰に佩いた、純金の鎧と同色で絢爛でありながら、妙に禍々しい意匠の直剣が妙に目に付いた。


 そして、


 「漸くお会い出来ましたね、我らが愛し子よ。シュブ=ニグラスとは仲良くやっているようですね」

 「……あれ、なんですか?」


 歓喜を囁くマイノグーラ──レイアールを無視して、脳裏に浮かんだ無数の疑問も捨て置いて、その後ろで佇む見事な軍馬を指した。


 重厚な馬鎧を纏い、更に純金の鎧を着た騎士を乗せてもびくともしない、強靭な筋肉の隆起が見て取れる。なるほど名馬なのだろうが──

 少し遠くで待機している馬たちは、騎士に手綱を持たれて漸く落ち着いている有様なのに、こいつは全く動かない。


 月と星々の香り、動物が逃げ出す臭いを振りまいているらしいフィリップを前にして、だ。

 そして、フィリップの人間レベルの嗅覚でもギリギリ判別できる程度に、奇妙な臭いを漂わせている。


 埃と腐敗、恐怖と忌避、病と死の混ざった──死体安置所の臭いだ。


 馬のように見える。

 人間の目と脳、知覚能力と認識能力では、それは馬のようにしか見えない。


 だが、絶対に違う。

 フィリップに与えられた、シュブ=ニグラスの与えた智慧は、それがフィリップを殺し得るモノだと警鐘を鳴らしている。


 「特に名前はありませんが、私の孫にあたるモノです。お気に召したのであれば、どうぞ──」

 「要りません」


 食い気味の即答。

 この星どころか、に存在するだけでも異常なモノに乗るとか、冗談ではない。


 「はぁ……まぁいいや。最優先で聞きたいことは一つだけです」


 ひそひそと言葉を交わす謎の子供が怪しまれ始める前に立ちたければ、質問はあと一つが限界だろう。

 聞きたいことも、聞くべきことも、既に決まっている。


 「貴女は僕の敵なのか。いま重要なのは、その一点です」


 味方なら、それでいい。

 敵だというのなら、それまでだ。


 ぎちり、何かの軋む音がする。

 周りの人々はどこかの家が鳴ったのか、もしや地震かと身構えていたが、違う。


 この場に於いて、その音を知っているのはフィリップとルキアの二人だけ。

 それが何なのかを完全に理解しているのはフィリップ一人。


 世界の軋む音──三次元世界には収まらない何かが、外側から押し入ろうとしている音だった。


 外なる神の一柱たるマイノグーラであろうと決して無視できない、破滅の足音は。


 「まさか。私とて外なる神の一柱。貴方を愛するモノの一つです」


 その答えに満足したように、消えた。


 安堵の息はフィリップのものか、ルキアのものか。或いはレイアールのものかもしれない。

 無知であればただの音でも、智慧があるのなら恐怖と絶望は避けられず、狂気と自死を強烈に想起させるものだ。


 「……これ以上の長話は要らぬ誤解を生みそうですね。今夜にでも、迎えを寄越します」


 何事も無かったようにそう言って、鎧の重みを感じさせない動きで立ち上がる。

 一礼して立ち去った黄金の騎士に、鎧騎士の一団が続く。


 その背中を見送るフィリップに、ステラだけが怪訝そうな目を向けた。

 あの輝かしい騎士がフィリップの警戒する相手──邪神だとは思えないのだろう。知人だというから尚更だ。むしろ一片の疑いすら向けてこないルキアの方が異質と言える。


 「……あれが居なくなったら、人間社会が崩壊したりしますか?」


 フィリップは小さく指を差して、ぼそりと呟くように尋ねる。

 その仕草に嫌なものを──本気度のようなものを感じて、ステラは思わず瞠目した。


 「それは、まぁな。あれでも二十年以上もの間、セレファイス聖国を統治している為政者だ。武力面でも、魔王復活に対する先陣として期待されているほどだぞ」


 そりゃあそうだろう。

 外神にとって魔王復活なんて些事も些事、くしゃみの拍子に飛んでいくような相手だ。魔王勢力から人間を守ってくれるというのは有難い話だが、何か裏があるとしか思えなかった。


 「そうですよね。……まぁ、アレは僕が何とかします。二人は何も心配しないで、一週間遊び尽くしましょう!」


 気付いた時には、シルヴァは50メートルも向こうの出店を覗き込んでいた。

 人混みの中に埋もれて目視出来ないが、魔術的な繋がりのあるフィリップには分かる。


 契約上の主であるフィリップの悩みもなんのその、自由気ままにお祭りを楽しもうとしているシルヴァこそが、この場に於ける正しい姿の体現者だ。


 「……分かった。まずはシルヴァを回収しようか」

 「フィリップが悩みを忘れられるように、目一杯、楽しみましょうね」


 幸いにして、二人はそこまで大きな恐怖心を持っていない。

 マイノグーラの化身、聖十字卿レイアール・バルドルからは、神威が感じられないからだろう。彼女たちに恐怖を与えているのはフィリップの言葉だけで、その恐怖は理性的なものだ。他の感情や忘却、単なる慣れなどで簡単に克服できる。


 二人の手を引いてシルヴァを呼びながら、フィリップは思う。


 外神連合軍を以てマイノグーラを排除したら、二人はこの修学旅行を心から楽しめるだろうか。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る