第185話

 生涯四度目となる森での目覚めも最悪なものだった。

 きっかけとなったのは左腕の痛みで、左腕の血が丸々無くなった状態で縛っていたベルトが、魔術によって完全回復した血流を堰き止めてぎちぎちと軋んでいた。いや、軋んでいるのは血管や身体の組織の方かも知れないが。


 「い、痛い痛い!? なんで!?」


 ぼろぼろに破れて血で染まった服は傷が存在したことを物語っているが、その下に見える肌には傷一つない。

 ただ、脇の部分で血流が止まっている所為で、緑色の血管が浮いていた。肌もなんだか青紫色に変色しているような気がする。


 慌てて肩に巻いていたベルトを外すと、左腕がじんわりと熱くなる。もうしばらくしたら、とんでもない痺れに襲われることだろう。

 右手を動かした弾みで、右腕に頭を預けるようにして眠っていたシルヴァが体勢を崩し、膝枕の形に収まった。


 「何が……?」


 眠りに落ちる以前のことを想起する。

 確か、ディアボリカと戦っていて、ドライアドらしき謎の女性が現れて、それで──そう、ディアボリカの動きが変わったのだ。


 警戒の宛先がフィリップの切り札からその女性に変わり、フィリップを捕えて血を吸うための戦闘から、この場から逃げ出すためのような動きに変わった。100年ぶりの食事だったフィリップを囮に使ったくらいだ。


 「あの人は……?」


 フィリップの太腿に頭を預け、すぅすぅと寝息を立てるシルヴァの頭を撫でながら、きょろきょろと辺りを見回す。

 焼け焦げた跡や蹴立てられた土といった戦闘の痕跡はあるが、ドライアドらしき女性が使った木々を操作する魔術の形跡は無く、周りの木は在るべき姿に戻っていた。


 夢を見ていたわけではないだろう。

 左腕に纏わりついた血に濡れた服も、触覚が無いくせに痺れだけは律儀に伝えてくる左手も、その証拠だ。


 ディアボリカもいないし、あの女性もいない。

 逃げたディアボリカを追って行ったのだろうが──ちゃんと殺せただろうか。この腕の痛みの分、きっちりとお返ししたいのだが。


 「シルヴァ? ちゃんと寝てる?」

 「…………」


 返事の代わりに、落ち着いた寝息が返される。

 ならばよし、とほくそ笑み、ハスター召喚の呪文を唱えようと右手を伸ばして息を吸った、その直後。


 「──っ!」


 たったった、と、明らかに人間の足音が耳に届いた。

 たたん、たたん、と獣の足音も微かに混じっているが、追われているという感じはしない。むしろ並走しているような感じだ。


 ディアボリカと土星の猫が戻ってきたのなら、今すぐにハスターを召喚しなければならないが──よくよく聞くと、足音が多い。

 人間の足音が二つ、獣の足音は──狩人ではないのでは判然としないが、一つではないように思う。


 もしかして猟犬を連れた地元の狩人──森から出てこないフィリップを探すための捜索隊だろうか。

 ディアボリカは準備運動を始める前、ルキアとステラが眷属に対処したようなことを言っていたし、救助隊なんかが組織されていても可笑しくない。


 「はぁ……」


 ルキアとステラを巻き込む可能性の低いハスターなら、と思っていたが、知らない人がいるなら──それも、森の何処に人がいるのか分からない状況では、ハスターでも駄目だ。


 「おーい! 誰かいるんですかー! おーい!」


 それなら、と気持ちを切り替え、助けを求めることにする。

 シルヴァが起きれば森を出る案内に困ることは無いが、できれば鎮痛剤が欲しい。左腕の怪我は治っているが、切り落としてしまいたいほど痺れが酷かった。


 もう二度と間接止血はしないぞ、と決意を固めたフィリップの耳に、予想外の声が届く。


 「フィリップ!? 大丈夫!? 何処にいるの!?」

 「カーター! もう一度──いや、魔力視を使ってもいいか!? それだけ教えてくれ!」


 真っ先に安否を問うてくれるルキアに安心感を覚えつつ、最短最速を突き詰めたステラの言葉に「流石」と呟く。


 「大丈夫です! 僕も二人も安全なはずです!」


 微妙に確信を持てないのは、逃げた土星猫の行き先が不明だからだ。

 アレは獲物に気付かれないよう数日間も観察して、その後で嬲り殺すという悪辣な習性を持っている。まだ近辺に潜んでいるかもしれないが……存在格はさておき、嗅覚と生存本能はフィリップも認めるところだ。フィリップを獲物と認めるような愚物では無いだろう。


 「……見つけた! すぐに向かう!」

 「急がなくてもいいですよー!」


 フィリップの空気の読めない言葉は完全に無視された。

 微かだった足音がはっきりと聞こえ始めたのは、こちらへ近付き始めたからだろう。


 今や打ち捨てられた祠──ディアボリカを封印していた場所に近付けないための木々の結界は、ドライアドの全滅と戦闘によるレイアウト変化、そして聖痕者二人の魔力視によって無力化された。


 しばらくして、まずステラが、すぐに続いてルキアが、木々の合間から姿を見せた。


 「カーター、無事で、いや、怪我を──、は?」

 「フィリップ! 良かった、無事──、っ! その腕──、え?」


 二人の言葉を止めたのは、地面にぶちまけられた血と、同じもので染まった左腕の服が原因だろう。

 見るからに大怪我だし、赤の面積は出血が継続しているのなら致命的だと素人目にも分かるほどだ。


 加えて、木の幹に背を預けて座ったフィリップと、その傍に捨てられたウルミがいい感じに悲壮感を演出している。死に体に見えても可笑しくない。


 「大丈夫です。もう治ってますから」


 痺れに覆われた手を酷使して、言葉通りの状態だと示すように軽く振って見せる。


 しかし、その動作は二人に多少の安堵を齎すだけで、緊張を解くまでには至らなかった。

 そもそも二人が硬直し、じりじりと戦闘態勢に移行しつつある原因は、フィリップの血塗れの左手と地面が原因ではないからだ。


 「カーター、は何だ……?」

 「…………」


 ステラが無造作にも見える足取りで一歩、こちらへ踏み出す。

 その隣でルキアが二歩、左へズレる。フィリップはその動きで漸く、一見無警戒なステラの動きが、こちらに警戒させないような足運びによるもの──戦闘態勢なのだと理解した。


 「ど、どれのことですか? 腕のことなら、治ってますよ?」

 「違う。お前の膝で寝ている、それだ。お前の言葉を疑うわけではないが、本当に無害なんだな?」


 フィリップは何を言われているのか分からないという内心の透ける愛想笑いを浮かべて、自分の足に目を落とす。

 当然ながら何の異常も無い。シルヴァがむにゃむにゃと寝言未満の音を発しながら、気持ちよさそうに眠っているだけだ。


 「この子ですか? この子はシルヴァ……えっと、ドライアドです」

 「……カーター、動けるのならそれを置いて、こっちに来るんだ。今すぐに」


 フィリップの言葉に嘘の気配を認められず──ルキアとステラを守るための嘘ではなく、心の底から「彼女はドライアドだ」と思っていることを確認して、ステラが有無を言わせぬ口調で命じる。

 

 二人は魔力視を使ってフィリップを見つけ、その周囲に魔物や吸血鬼がいないことを確認していた。

 フィリップは間違いなく、魔力のチャンネルに於いては一人だった。ドライアドどころか、獣一匹傍にはいないはずだったのだ。


 そのフィリップの膝に頭を預け、すうすうと寝息を立てる「何か」。

 精霊ドライアドではない。精霊種はその肉体が全て魔力で構成されており、魔力視に引っかからないはずはない。


 フィリップが使役する邪神や、先程の醜悪な猫に類するモノ。

 ステラはそうアタリを付け、警戒も露わな表情でフィリップを手招く。ルキアも同じく、フィリップの太腿に頬ずりなどして気持ちよさそうに眠るシルヴァを観察していた。


 「それ、って。いや、殿下? この子は別に──」


 困惑交じりに、安心させるように笑おうと試みた果ての下手糞な作り笑いで声を掛ける。


 じわりじわりと空気を黒く染めていくような、敵意とも恐怖ともつかない「圧」のようなものが、ルキアとステラの二人から滲み出ていた。

 その威圧感に気付いた訳ではないだろうが、眠っていたシルヴァがむくりと体を起こした。


 前触れの無い覚醒に多少面食らうフィリップだが、二人の反応はもっと苛烈だった。


 「カーター! そいつは精霊じゃない! 早く離れろ!」

 「信じて、フィリップ。貴方の傍にいるそれは、魔力的には存在していない、有り得ない存在なの」


 二人の視界に映る明確な異常は、全盛期のディアボリカですら警戒するほどのもの。

 戦闘センスはさておき、戦闘経験ではディアボリカに劣る二人だ。恐慌状態になっていないだけ、異常事態への耐性が付いていると評価できるだろう。


 むにむにと意味のない声を漏らしながら目をこすり、欠伸など漏らす幼女。

 どう見ても無害だし、そんなシルヴァに魔術を照準している二人はどうかしている、と思うのが普通なのだろうか。それとも、人並み外れた魔術の才を持つ二人が言うのなら、と従うべきか。


 フィリップはそのどちらでもなく、


 「そ、そうなんですか? いえ、でも大丈夫ですよ。この子は敵じゃありませんから」


 二人の言葉を信じた上で、自分の意見を通す。


 身体を起こしたシルヴァを庇うように立ち、右手で「落ち着け」と示す。


 ルキアもステラも、庇う位置のフィリップを迂回する軌道で攻撃するくらい造作もないだろう。だからこれは、フィリップの身を挺した盾ではなく、ただの意思表示だ。


 「二人がどこまで知っているのか分かりませんけど、敵は吸血鬼です。この子はこの森に棲んでいたドライアド……っぽい何か、なんでしたっけ? とにかく、この子は敵じゃありませ──」


 根拠の提示さえない、主観の繰り返し。

 幼少期から交渉のいろはを叩き込まれてきた貴種二人には、不快感すら催させる拙い言葉だ。


 それを言い切る前に、寝惚け眼のシルヴァが左手を握った。

 つい先ほどまで血流が著しく滞っていて、今なお凄まじい痺れに包まれている左手を。


 「うわぁぁぁぁあ!? シルヴァ、待って! 左手に触らないで! いま物凄く痺れてるから!」

 「え、ご、ごめん、ふぃりっぷ」


 フィリップはひんひんと情けない声を上げ、左脇の下辺りを押さえる。自分で触るのも嫌なのだが、ついつい手が伸びてしまう故の妥協案だ。


 突然の大声にシルヴァだけでなくルキアとステラもぎょっとしていたが、似たような反応に覚えのある──授業中に腕を枕にして居眠りした後とか──二人は、状況が読めずに困惑していると言った方が正しい。


 「いや、大丈夫。すぐ……いや、しばらくしたら治るから……」

 「……ねぇ、フィリップ。いまどういう状況なの?」

 「……そうだな。まずは現状を説明してくれ。何があった?」


 二人の問いに、フィリップは何から話そうかと考えて──ふと、自分の身に起こったことを詳らかに話せることに、その幸福に気が付いた。


 は、と、自嘲混じりの笑いを溢す。

 小さな失笑は湧き上がる幸福感と悲哀と愉悦を食らい、馬鹿笑いにまで大きくなった。


 十数秒は続いた笑いの発作を、三人は困惑と共に観察する。

 

 「ふぃりっぷ、たのしい?」

 「あぁ──あははは……うん。すごく楽しいよ」


 目の端に浮かんだ涙を拭い、満面の笑みを向けるフィリップ。


 「聞かせましょう、僕の武勇伝を! 存分に! 特に何もしてませんけどね!」


 冗談交じりに言うフィリップの表情は、これまでに見たことが無いような、心の底から楽しそうな笑顔だった。




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 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』

 シナリオ8 『Talking Woods』 トゥルーエンド


 技能成長:【拍奪の歩法】+1D10+5 【回避】+1D6 【鞭術(ウルミ)】+1D6+6 【応急手当】+1D4


 SAN値回復:通常1D6のSAN値を回復する


 








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