第184話

 対森林級魔術を撃てるほどの魔力が回復していないディアボリカは、せめてもの抵抗に森に火を放ちながら逃走を続けていた。

 生木を燃やす高温の炎でさえ、シルヴァが存在格を強化した木には弾かれる。一度ついた火も、不可解な方法で消えてしまう。内から外へ逃がさないよう迷わせる木々の結界をぶち抜く以上の効果はない。


 しかし、その堅牢無比な防御とは裏腹に、攻撃の手は徐々に緩み始めていた。

 上下から咬むように伸びる枝葉の大顎は、頭上から降る断頭の刃一つに減り、攻撃の間隔も数秒程度だが長くなった。


 断続的に頭上から繰り出される攻撃を避けながらでも、ディアボリカの走る速度は人外のもの。その健脚によって追跡を振り切りつつある──なんて、甘い見通しは立たない。


 森の中にいる限り、ヴィカリウス・シルヴァの掌中だ。

 そう考えて損はないだろう。


 だから、この緩みは──


 「星の力に制限がかかり始めた──いえ、100年前の余力が尽き始めたみたいね?」


 ディアボリカの勝利を告げる喇叭の音だ。


 まだまだ余力はあるだろうし、断片程度の星の力でもディアボリカには脅威だ。攻撃それ自体は単調で、作業のように避けられるものの、当たれば一撃で首を刎ねられるだろう。

 油断はできないが──もうあと一押しで、完全に止まるはず。


 「魔力の変換効率から見るに、そろそろ限界でしょう? あの子の治療に使う分、残しておかなくていいの?」


 善意めかした言葉に、一瞬の空隙が返される。

 ディアボリカでなければ気付かないようなほんの一瞬だけ、攻撃の間隔が空く。それはシルヴァが初めて見せた、人間的な動揺だった。


 「貴方の切り札──星の力を魔力に変換するアレ、そんなに都合のいいモノでもないでしょう? 余力全ての一括変換しかできないようだし、変換効率もすごく悪い。100年前のアナタが何年級の存在だったのかは知らないけど、500年くらいは蓄積していたでしょう? その全部で、アタシ程度を100年封印するのがやっと。ドライアドの守護樹の補助があって、漸く100年よ?」 


 ディアボリカは強力な吸血鬼だ。

 封印されていた期間を抜いても300年強の存在歴があり、魔術や白兵戦の技術を磨いてきた戦士であると同時に、この世の理を解き明かさんと願う研究者でもある。


 だが、そんなものは、星の表層の前では経歴とも呼べない。

 星の表層、ヴィカリウス・システムが脅威と判じる要素を、ディアボリカは何一つ持ち合わせていない。


 そんな雑魚を、100年封印する程度。

 それはまるで勇者の所業──人間風情と同等でしかない。


 その弱さの理由を、ディアボリカは理解していた。


 「結局、アナタは上位者でしかないのよ。星の力を魔力に換えて、アタシたちと同じ技術を使ってみても、あまりにも拙い。大人が赤子の真似をしているような痛々しさがあるだけよ」


 ディアボリカは笑う。

 嘲笑や冷笑ではなく、むしろ共感するような表情と声色には、自虐の気配も含まれていた。


 「吸血鬼が人に混ざれないように、人が家畜に混ざれないように。上位者は劣等種とは混ざれないものなの。分かるでしょう?」


 ヴィカリウス・システムは星の表層。星の一部。

 この星に於いて、最上位の存在格を持つモノだ。それそのものに生命は無く、故に死という状態へ変化しない、本物の不滅。一度以上の生命整理を乗り越えた概念の化身は、星の排除機能を上回った経験を持つ。


 これに比べれば、唯一神もディアボリカもフィリップも、等しく塵に同じ。

 そんなものが、塵の真似事を上手くやれるわけがない。


 「そんなアナタが──いえ、物を知らず、記憶も失っていた“現在いま”のアナタが守りたいと思った子を、救うべきではないの? 上位者として劣等種を救うでも、あの子に庇われた恩を返すでも、理由は好きに付ければいいわ」


 寄り添うような言葉は、完全な詐術というわけではない。

 それはディアボリカが吸血鬼になってから数年で悟ってしまった、悲しい道理だ。


 「……アタシは不死身よ? アナタが100年後に力を取り戻したら、また殺しに来たらいいじゃない」


 たかが100年。

 ディアボリカとシルヴァの存在歴には大きな隔絶があるし、「たかが」という言葉に含まれる軽視の桁も全く違うが、100年というスケールが些事であるのは同じだ。


 その命乞い、或いは再会の約束に。


 「…………」


 ガーテンの森は沈黙を──普段と変わらない静かな空気を返した。


 「……はぁ」


 助かった、と、ディアボリカは心の底から安堵する。


 今のヴィカリウス・シルヴァは戦闘能力的には脅威ではない。

 だが数分程度でも時間を稼がれると、聖痕者と遭遇する可能性が刻々と高まる。あんな──森の外にいてもはっきりと分かるような突然変異と二対一なんて、全盛期でも御免だ。


 足早に森を立ち去るその背中を、顔のない蝙蝠が見つめていた。




 ◇




 ディアボリカの討伐を先延ばしにしたシルヴァは、木の幹に背を預けてぐったりとしたフィリップの横に跪いていた。

 生命活動の有無や傷の具合などを検分する手つきは拙く、不慣れというより、見様見真似といった風情だ。


 血がだくだくと流れて止まりそうになかった左手の傷からは、じわじわと染み出す程度の流血が残る程度。フィリップが肩に巻いていたベルトが理由なのだろう。


 しかし、肌はディアボリカにも負けず劣らず蒼褪めていて、眠っているのに呼吸が著しく速い。

 額や首筋には滝のように汗をかいているのに、体温はすぐ側にいても感じられないほど低下している。

 

 死に瀕しているのだろうと、死を知らないシルヴァにもなんとなく分かる。

 森の中で死んでいく生き物は数多くいるし、人間もそうだ。森が戦場になったこともある。


 しかしドライアドとは違い、ヴィカリウス・シルヴァに森に入った者の心を読む機能は無い。

 発生からたかだか100万年の種族の心を読む必要など無いからだ。


 だから、シルヴァは応急手当の方法や治療魔術を、その外観程度しか知らない。

 そして──それだけで十分だった。


 「これが今代の私の望みです。フィリップ。ドライアドとあなたの望みは、また100年後にでも」


 フィリップの頭を撫でるシルヴァの表情は、優し気な言葉とは裏腹に無感動だ。

 ここでフィリップを助けても、80年もすれば老いて死ぬだろう。だからフィリップを助けることそれ自体に然したる意味はなく──100年前の残滓ではなく、今代のヴィカリウス・シルヴァ、2年前に再発生したばかりのシルヴァが「助けたい」と思ったから助ける。ただそれだけだ。


 理由など要らない。

 道理も、利益も必要ない。


 ただ感情のままに動く。

 それが許されるのが上位者だ。


 「《セイクリッド・ヒール》」


 かつて森の中で致命傷を負った勇者に、仲間の神官が使った最高位の治療魔術。

 記憶の中にあるそれを再現した時点で、シルヴァが持つ100年前の余力は完全に消費された。


 目を刺すような輝きと共にシルヴァの身体が光の粒子に変わる。

 その輝きは風に乗ったような動きでフィリップの左腕を包み込み、失った血液諸共に傷を修復する。


 後に残されたのは静かな寝息を立てるフィリップと、


 「……ぇ?」


 何が起こったのか分からないという顔で立ち竦む、元の幼児の姿に戻ったシルヴァだけだった。


 「……」


 シルヴァはきょろきょろと周囲を見回すが、ディアボリカの姿はない。

 その気配の一片も感じられないことを確認して、ぽてぽてとフィリップの隣に座った。始めは左側に座ろうとしたのだが、血で染まった地面を嫌って右側に移る。


 そしてそのまま、二人は揃って寝息を立て始めた。

 




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