第181話
尻もちを搗くような姿勢で倒れ込みながら、フィリップは必死に頭を回転させていた。
拘束の魔眼による停止中は聴覚を完全に奪われ、視覚も制限された状態ではあるが、それでも外界の知覚は出来ていた。
シルヴァが居たはずの場所からドライアドのような姿の女性が現れたこと、ディアボリカが彼女に対して明確な警戒を向けていたこと、どうやら彼女は味方らしいこと。ここまでは理解できたが、唐突に自由を取り戻した動揺で、眼前の攻撃への対応が一手、遅れた。
「危ない!」
「──脆いわよ!」
ルキアやステラの初級魔術を上回る、フィリップでは見切ることのできない速度の移動と攻撃。単純な
厚さ30センチの岩盤を落としたプリンのようにバラバラにした拳は、そこで勢いの大半を失う。
しかし、拳は、腕は、もう一つある。
即座に握り込まれ、岩盤を打った反動すら利用して打ち込まれる第二の拳打。
助走が無い分威力には劣るそれの照準は、フィリップの鳩尾──ではなく、空中に散らばる岩盤の破片。
テーブルサイズから人間の頭部大にまで砕かれたそれを、さらに人間の指先サイズまで破砕すると同時に、フィリップに向けて撃ち込む。
ナイアーラトテップなら
しかし、ディアボリカに殺す意思はない。
死にそうなほどの大怪我をしてくれれば、それでいい。シルヴァを足止めするための贄とする。
破砕音というよりは破裂音と言うべき、乾いた甲高い音。
岩の破片は礫となってフィリップの全身を打ち、穿ち、傷付ける。人体の柔らかい部分であれば貫通さえしかねない高速の破片を無数に浴びて──
「あつッ──!!」
左腕から幾条もの出血。岩の礫が抉り飛ばした肉と噴き上がる血潮は如何にも痛々しいが、しかし。
フィリップが負った怪我は、たったそれだけ。
拳打による瓦礫の射出、散弾攻撃。
そんな大雑把な攻撃でさえ、ディアボリカの動きは精緻を極めていた。
胴体の
身体が勝手に動いた、とでも言えばいいのだろうか。
ディアボリカという明確な強敵相手にも全く怯まない精神性。
しかし、明確な強敵だという認知はある。故の警戒と準備。
ルキアとステラとの訓練で培われた回避能力と、その刷り込み。
身体の自由を取り戻し、眼前の攻撃を知覚した瞬間、フィリップの身体は意識より早く、拍奪の歩法で回避行動を取っていた。
「ちッ──!」
外したことを認識したディアボリカが舌打ちを漏らし、三度、拳を握るが──流石に、それは許されない。
「──ッ!」
二度目の追撃が来る前に、ディアボリカの足元が突発な地滑りを起こして裏返る。
如何な吸血鬼とはいえ肉の身体を持ち、物理法則に縛られる身だ。足を掬われる前に跳躍して距離を空ける。
「まぁっずいわね、これ」
ディアボリカがこの十数分で一番の苦々しい表情を浮かべる。
そしてフィリップも同様に、ここ一年で一番か二番の苦痛に歪んだ表情を浮かべていた。
「痛っ……あ、ァ……」
戦闘でアドレナリンがドバドバ出ていたはずなのに、それでも泣きそうなほど痛い。
左腕の被弾箇所は、4つ。
その全てが腕を貫通し、肉を抉り飛ばしている。うち一つは骨まで見える深さだ。ウルミの練習中にミスした時とは比較にならない、腕が動かないレベルの大怪我。
だくだくと流れ出る血は一向に止まる気配が無く、数分で行動不能、そのまま放置すれば失血死も有り得るだろう。
シルヴァがどうとか言っている場合ではない。
ルキアとステラを巻き込む可能性が最も低い、ハスター召喚を切るべきだが──無理だ。フィリップの決意云々ではなく、ディアボリカの“拘束の魔眼”が邪魔すぎる。
相手はまだ「フィリップには何か切り札がある」程度の認識だろうが、迂闊なことをして警戒度を上げれば、もう二度と魔眼を解くことは無いだろう。いや、今度は最優先で殺しに来るかもしれない。
ディアボリカの動きを確実に止めた状態でなければ、ダメ元で詠唱する気にもならなかった。
「……貴女は──」
「シルヴァと同一の存在です、フィリップ。怪我は平気ですか?」
「いえ、全然……! 学院に戻れば……ステファン先生がどうにかしてくれるでしょうけど……応急処置をしないと……帰る前に死ぬでしょうね……」
死ぬだろう、と喘鳴すら交えて言っておきながら、フィリップは自分が死ぬとは思っていない。
いや、正確には、“最終的に”死ぬとは思っていない、か。
だが外神として新生する可能性がある以上──ルキアやステラ、衛士団やライウス伯爵に対して抱いている尊敬や拘泥を、人間性への憧れを、人間への拘りを捨て去ってしまう可能性がある以上、どんな形であれ「死」は避けたい。
「シルヴァと同じ……ドライアド、さん? お名前──いえ、治療魔術とか……使えますか……?」
お名前はなんて言うんですか? とか、のんびりしたコトを聞いている場合ではない。
フィリップの
幸いにもと言うべきか、左腕の痛みは引き始めた。
じわじわと痛むが、被弾直後の焼けるような痛みはない。失血で神経機能がマヒしたのか、或いは脳の方に影響が出始めたのか。
しかし、どれだけ荒く呼吸しても息が苦しいのは問題だ。思った以上に出血が酷いらしい。
一番大きな傷口を押さえてはいるが、如何せん傷が複数個所あり、しかも大きく深い。精々が死に至るまでの時間を、ほんの少し伸ばす程度だろう。
脆い身体は人間性を維持する必要条件だが、ほんの少しだけ恨めしい。
「……動脈が傷付いたのね。良かった、最低限の目標は達成ね」
「──逃がしませんよ」
安堵の息を吐き、踵を返したディアボリカ。
木立の間に消えたその背中を追うシルヴァだが、ほんの数歩で足を止める。
「アナタは知らないでしょうけど、動脈の傷付いた人間は数分から十数分で致命的に出血するわ。その子、あと十分そこらで帰ってこられなくなるわよ」
「っ……!」
安否を問うような視線が向けられる。
振り返った肩越しのそれは、ディアボリカの言葉の真偽を問うものだ。
フィリップが嘘だと言えば、彼女はディアボリカを追うだろう。
そしてフィリップが助けを求めたら、彼女はきっと立ち止まってくれる。フィリップを助けに、戻って来てくれる。
それは──不要だ。
「僕は……大丈夫、だから!」
ウルミを捨て、ベルトを外す。
右手と口を使って、肩と脇を思いっきり締め上げる。
間接止血法。
血管損傷部から心臓までのルートを圧迫し、血流を止めることで傷口からの流血を防ぐ方法だ。
しかし、これはステファン曰く、医者以外がやるべきではない手法だ。
血管の圧迫は専門知識無しでは不十分になりやすく、また圧迫が緩んだ場合は勢い良く再出血する可能性が高い。その上、不適切な圧迫だと却って血管や組織を傷付け、最悪の場合は腕そのものが壊死することもあるのだとか。
だが、まぁ。
腕の一本くらい、どうということはない。
ステファンには無理でも、シュブ=ニグラスやナイアーラトテップなら容易く生やせるだろう。肉体全部が人外化するのは嫌だが、腕の一本くらいなら許容しよう。
今はそれよりも──
「あいつを追って、殺せ!」
あの、クソ野郎を、ブチ殺す。
必要とあらばハスターでも、クトゥグアでも、ナイアーラトテップだって呼んでやる。
何なら、この森林諸共にでも──!!
「──ッ!」
がちん、と硬質な音。
開きかけていた口を閉じ、世界を呪う言葉を噛み砕いた歯の音だ。
痛みが募るごとに高まる憎悪を、世界を砕く呪詛を、冒涜を顕現させる命令を、邪神を歓喜させる咆哮を飲み下す。
駄目だ。
ここにはルキアとステラがいる。ディアボリカの言葉通りなら、二人とも森の中だ。彼女たちを巻き込む可能性がある報復はできない。一時の獣性に身を任せて二人を喪えば、きっと、そのまま雪崩のように人間性を失う。
その自制が、フィリップに残された最後の余力だった。
ふっと意識が遠退き、木の幹に身体を預けてずるずると頽れる。
シルヴァはフィリップが叫んだ直後には駆け出していった。足音なんかも聞こえないし、ルキアやステラが来るまでにはもう暫くの時間があるだろう。
この場にはフィリップ一人、邪神を呼ぶこともできるが──眠い。立ち上がるどころか、呪文を唱える気力さえ湧かないほどの強烈な眠気が襲ってくる。
左腕の出血はかなり緩やかになっていて、じき止まるだろうと予想が付く。
その安堵が緊張の糸の最後の一本を切り、フィリップの意識は闇の帳に覆われた。
◇
木々の間を人外の速度で走りながら、ディアボリカは小さく舌打ちを漏らした。
背後、いや全方位からかかるプレッシャーが一向に緩まないことに気付いたからだ。
ヴィカリウス・システムがヒト風情を救うという御伽噺のような展開に期待した自分が愚かだと言えばその通りなのだが、ヴィカリウスの中でもシルヴァは特異な個体だ。
森林という生命に寄り添うモノだからか、ドライアド程度に召喚の術を教え、あまつさえその請願を聞き入れて動く。
ならば幼気な少年を救うため、100年前と同じように星のエネルギーを魔力に変換し、高度な治療魔術を使ってくれたら良かったのだが──こちらを追ってきた。あの子供を見捨てて。
いや、あの子供がそう願ったのか。
自分の命を救うのではなく、敵を殺すことを優先してくれと。そうだとしたら、
「狂気的ね……」
10かそこらの子供が抱くには強すぎる意思だろう。
さわさわと木立の揺れる音。
殺気どころか敵意を感じることさえ難しい、耳に心地の良い音だ。涼やかで、心が落ち着く静かな音。ちょっと軽食、ちょっと昼寝をするには最高のバックグラウンド・ミュージックだが。
「ッ!」
それが頭上から殺到する無数の槍、枝葉で編まれたギロチンの落ちる音だと、ディアボリカは直感的に理解し、身を投げ出すように回避行動を取っていた。
ぞふ、と柔らかな音と共に深々と土に刺さる断頭の刃。
続けざまに四度、攻撃と回避を繰り返す。
「──最悪」
振り返ってもシルヴァの姿はない。
あれは全盛状態なら森の全域が認知圏内だが、今は星の力が1パーセントかそこら、回収した100年前の残滓を加えても10パーセント程度のはずだ。
しかし、その知覚能力は視覚依存ではないらしい。森の中にいるのなら、皮膚感覚が数十メートル拡張されたような超認識を見せるだろう。
視界外まで逃げ、木々で射線を切ってなお、相手の掌中。
不利という言葉が可愛らしく思えるが──まぁ、なに。相手は一個概念、森という概念の化身だ。戦況不利程度に収まっている今こそが好機。
足元から突き出される木の根の槍を、頭上や視野外から飛来する枝葉の投槍を、地滑りを起こして裏返る足場を、鋼の硬度を以てしなる蔦植物の鞭を、人外の身体能力で回避する。
直接戦闘能力には自信のあるディアボリカだが、この敵は“敵意”や“殺意”を持たないただの環境。
自然淘汰。環境による排除。
死なない限り生存を許す。そんな傲岸不遜なる暴虐が許されるだけの格差が、生命と環境の間にはある。
だが、ディアボリカにも矜持がある。
数百年の昔、吸血鬼として非生命の道、夜の世界に踏み入った時から。いや、もっと以前からの──強者としての矜持が!
「生き延びる……それがアタシの思う“強さ”。どれだけ無様でも、最後に生きている者が強いのよ。だから……アナタの星の力が枯れるまで、鬼ごっこを続けましょうか!」
ディアボリカの負け筋は二つ。
一つはシルヴァの攻撃によって致命傷を負うこと。
もう一つは聖痕者との遭遇だが──尋常ではない魔力規模だ。ディアボリカの感知能力なら大まかな位置は把握できるし、そもそもこの広大な森で偶発的に遭遇する確率は低い。離れるように動けばまず出会わないだろう。
そしてディアボリカの勝ち筋は一つ。
森の外へ逃げることだ。
全盛期のヴィカリウス・シルヴァであれば、森そのものを拡張することもできる。かつては地上のほぼ全域を埋め尽くし、従来の原生種を根絶さえした植物種の繁殖力は、“侵略力”と言い換えても差し支えの無いものだ。
それだけの力を持つ存在の掌中に在って、ディアボリカが今なお健在であることこそ、ヴィカリウスが全盛状態ではないことの証。
おそらく、あのドライアドの幼体のような状態が、この時代におけるヴィカリウス・シルヴァ本来の姿だ。
発生直後の森林と同じ、小さな火事や一発の落雷で全滅してしまうような、小さく弱いもの。
100年前に魔力に変換した星の力を再吸収して漸く、ディアボリカが逃走を選ぶ程度。しかも、攻撃の手は徐々に緩んでいる。
人間なら魔力切れだろうと推察できるが、ヴィカリウスは魔力を持たない。エネルギー源である星の力は、それこそ無尽蔵だが──
「星の力は無尽蔵ではあっても、無制限ではないのでしょう?」
出力には制限がある。
星の力が無限に湧き出る井戸のようなものだとしたら、ヴィカリウス・シルヴァは器だ。
100年前の全盛状態であれば、それこそ井戸を水源ごと持ち上げてひっくり返すような出鱈目な出力が許されていた。今も100年前の残滓と併せて風呂桶程度の出力規模はあるようだが、それもじわじわと縮小している。放っておけば、現代の存在格に応じた手桶レベルにまで出力限界が落ちるだろう。
それまで逃げ切れば森の支配や木々への命令権を失くし、ディアボリカを殺し得る攻撃能力も失うはず。
それに──
「100年前の力の残滓は脅威だけど、それを使い切ったら、本当にあの子を救えなくなるわよ?」
じき分水嶺だ。
シルヴァにとっても、ディアボリカにとっても。
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