第182話

 森の外に溢れ出た眷属一掃から十五分。

 ルキアとステラはぴったり五分の休憩を終え、再び森の中に足を踏み入れていた。


 あれだけの数の魔物が大挙して通った後だというのに、森の様相は殆ど変わっていない。狩人などの森に詳しい人間が見れば、魔物の突撃が残した痕跡を100は見つけられるのだろうが、素人目には先程と変わらない静かな森だ。

 強いて言うのなら、通常の獣や虫の気配がかなり少なくなっている。あの大暴走から隠れるため、木々の高いところや、地面の穴、藪の中などに身を潜めているのだろう。


 地図とコンパスを確認しながら先を進むステラ。

 その視線は両手の道具だけでなく、周囲と、少し後ろを付いてくるルキアにも時折向けられる。


 「重くないか?」

 「大丈夫よ、ありがとう」


 ルキアが両手で抱えるようにして持っているのは、学校医のステファンが用意してくれた医療用バッグだ。中身は鎮痛剤や化膿止めなどの薬と、外科手術キット一式。課外授業に際して複数個用意してくれたうちの一セットを拝借してきた。

 ルキアもステラも治療魔術は使えないが、フィリップがウルミの練習を始めてからは応急処置の機会も増えた。ステファンに多少の教導も受けているし、小規模な刀傷くらいなら縫合もできる。


 もしフィリップが怪我をしていても、自分で手当てをさせるような──手当てをぼさっと見ているだけという無様は晒さない。


 「それより、フィリップを見つけるのは難しくない? やっぱり、覚悟を決めて魔力視を使うべきじゃないかしら」

 「発狂したいなら好きにしろ、と言えたら格好の付くところだが……私はお前に発狂して欲しくない。だから止めろ」


 そうよね、とルキアも頷く。


 もしフィリップがハスターを召喚していたら。

 もしフィリップの傍にシュブ=ニグラスが居たら。


 二人の懸念する事案は異なっていたが、起こり得る結末は同じだ。

 物理的な視界より多くの情報を伝える魔力視は、神格にただ相対するより精神的ダメージが大きい。恐怖は狂気に、狂気は精神の破壊に、それぞれ押し上げられる。


 災害現場では、大切な人を助ける以前に、まず自分自身を助けるべき。

 そういう格言が王国にはあるが、今はそういう状況だ。


 フィリップのことは心配だし、この身を擲ってでも救うつもりはあるが──それ以前に狂死していては話にもならない。


 「だが、如何せん手がかりが少ないな。カーターと別れたところから虱潰しなんて、それこそ日が暮れるような作業になるぞ」

 「私も貴女も、トラッキングなんてできない、し、ね……」


 ルキアの言葉に、ステラが「それだ」と言わんばかりに指を弾く。ルキア自身も、自分自身の言葉に触発されて閃きを得ていた。


 「《サモン》!」

 「《サモン》」


 二人の詠唱に応じて、指向した地面に魔法陣が浮かび上がる。

 その中から飛び出す四足の獣。


 隆起した四肢の筋肉、しなやかな背中、強く地面を噛む爪が目に留まる。

 厚い毛皮は、ここよりもっと北の地域から流れ着いた種であることを示していた。


 90センチ近い体高、グレーと白の入り混じる毛色、金色の双眸。


 フィリップが愛してやまない、探し求めた一対のもふもふ


 ほんの数十分前までこの森の頂点捕食者であった二匹の狼、アルファ個体と呼ばれる群れの中で最強のオスと最強のメスだった二匹は、今や二人の使役下にあった。

 不埒にも縄張りに侵入した愚かなニンゲンを群れで取り囲んだところ、ステラの膨大な魔力による威圧に怯えて逃げ出し、ルキアの麻痺電流によって捕獲され、今に至る。強者に従うのが狼の群れの自然な姿だ。契約に際して然したる抵抗は無かった。


 「狼の嗅覚なら、フィリップのいる方角くらいは分かるはずよね?」

 「そう願うよ。さて……どっちには?」


 ステラの投げた問いの真意を測りかね、ルキアが小さく首を傾げる。

 フィリップの匂いのついた何かを嗅がせて、追跡するのだとばかり思っていたのだが……思えば、そんな都合のいいモノは持っていない。


 ステラの問い、大陸共通語を理解したように──契約に拠る魔術的な繋がりを介して、言葉ではなく意思を理解している──ステラと契約したオスの狼が顔を上げる。

 すんすんと空気の匂いを嗅ぎ分け、やがて一方向に向けて唸り声を上げ始めた。


 「なるほど、こっちか」

 「……あぁ、フィリップの“臭い”?」

 「そういうことだ。獣に襲われる心配も無いし、便利な体質だな?」 


 説明を受けるまでもなく、少しの思索でルキアも正解に辿り着く。


 フィリップの纏う、動物レベルの嗅覚にしか判別できないような微弱な臭い。邪神の気配の残り香とでもいうべきそれは、野生動物にとっては近寄ることも嫌な悪臭らしい。

 それを逆に利用する。


 「え? そっち行くんですか?」と言いたげな嫌そうな顔で付いてくる狼たちを従えて、二人は導を見つけた者の確かな足取りで森を進み始めた。

 

 そのまま歩くこと数分。

 原生の魔物や恐慌状態の獣の襲撃を腕の一振りで排除していた二人は、ふと足を止めた。


 「……なぁ、ルキア」

 「……えぇ」

 

 世界最強の魔術師二人が感じ取ったのは、ほんの少しの違和感。

 魔術を照準されたわけでもなく、敵意が向けられたわけでもない。ただ直感的に「なにか変だ」と感じただけ。


 その何の根拠も無い「嫌な予感」に、素直に、即座に従う。

 足を止め、使役していた狼を魔術的な異空間へ送還した。


 周りの景色に変わりはない。

 代り映えのしない木々の並び、時折感じる動物の気配、虫の羽音。人間という森に紛れ込んだ異物から離れるもの、観察するもの、様々だ。


 「──あ」


 その、中に。

 一つ、異質なものがいた。


 木の陰からじっとこちらを見つめる、一対の双眸。

 バロック調の装飾が付いた目は嘲笑の形に歪められ、触手で編まれた首が骨格を持たない動きで傾げられる。


 ステラもルキアの声に釣られるように視線を向け、それに気付いた。

 二人に気付かれたことを理解して、嘲りの色を深くした双眸の持ち主が動く。


 藪の中から姿を現したのは、明確な異常だった。


 それは一見すると、緑色の四足獣だ。

 食肉目の動きで一歩ずつ、藪の中から姿を現す。その全容が露わになるまでもなく、異様が目に付く。


 緑色を基調としたグラデーションの触手に編まれた体躯は、骨格と関節に従った動きをしない。水の入った袋のように、どこからでも折れ曲がり駆動する四肢は、それでいて肉食獣に特有の力強さを感じさせる。


 ──違う、と、そう感じた。

 これは間違いなく、二人の知るどの生物とも違う。この星に生きるあらゆる生物、あらゆる魔物、あらゆる存在とは根源ルーツからして違うモノ。


 ルキアとステラが生きる世界とは、絶対に相容れないモノだと。


 アラベスク模様と金色の一本線に彩られ、側部には宝石のような小さな煌めきを並べた外観は、絢爛とすら形容できる派手なもの。

 だというのに、それは森の中に溶け込んで、ルキアとステラの目を以てしても発見することは困難だった。


 それは自分から存在感を発し、二人に自分自身を知覚させたのだ。


 「──」


 何故かと考え、結論が出る前に、きーん、と超音波じみた甲高い音が耳を刺す。

 それが眼前の存在が上げた鳴き声であると理解した瞬間、ルキアとステラは強烈な寒気に襲われた。


 今のは、嘲笑だ。


 フィリップが時折見せる自分も含めた全てに向ける冷笑とは違う。むしろ、ナイ教授が授業中なんかに一瞬だけ見せる、生徒たちに向けた嘲笑が近い。

 圧倒的な視座から見下され、その無価値と無意味を嘲笑われているような不快感と薄ら寒さが湧き上がる。


 高い感受性が仇となり、二人は全く同時に、人生最大の恐怖をリフレインする。


 魔術学院の一室で、ナイ教授と相対したときのこと。

 どことも分からない真っ白な空間で、邪神を引き裂いた神父のこと。


 フィリップを守護し、フィリップに仕え、それでいてフィリップも含めた遍く全てを嘲笑するモノ。

 シュブ=ニグラスと、ハスターと、同質のモノ。二人が知る彼或いは彼女の情報はたったそれだけだが、それだけで十分だ。


 遥かな視座から降る嘲笑は、二人のトラウマにも近しい恐怖の記憶を励起した。


 恐怖に際して、人間が取る行動は大別して二つ。


 一つは逃避。

 一つは排除。


 自分が逃げるか、相手を退かせるか。受動と能動。客体と主体。防衛的と攻撃的。

 どのような反応をするかには、状況と、何よりも本人の気質が大きく影響する。

  

 「──っ」

 

 思わず口を突いて漏れそうになった弱音なまえを、ルキアの美意識が飲み下す。


 「……二歩下がり、一歩右へズレろ」


 恐慌状態に陥りそうなほどの動揺を、ステラの合理性が脇へ置く。

 即座に従ったルキアは、抱えていた医療用バッグを傍らに置いた。ルキアはステラの指示したそこが、二人で連携する時の最適な戦闘配置だと瞬時に見抜いていた。


 「殺すぞ」

 「えぇ。そして先に──フィリップのところに行くわよ」


 今更言うまでも無く、ルキアも、ステラも、敵は殺すタイプの気質だった。

 

 ぞわり、と、触手の獣──土星猫の触手が逆立つ。まるきり威嚇する猫のような仕草だ。


 「出し惜しむな。吸血鬼戦は忘れて、いま生き延びることだけを考えろ」

 「当然よ。……あの時みたいな無様は、二度と晒さないわ」


 ステラには分からない決意を口にして、ルキアは自身の周囲に四つの光球を浮かべる。

 闇の帳を降ろすほどに周囲の光を集め、エネルギーに変換して撃ち出す光の槍──神域級魔術『明けの明星』。それが、四つ。


 一つ一つは指先ほどの大きさで、ダンジョンを吹き飛ばした時のような広域破壊は起こらないだろう。

 だが、そのサイズでも森そのものを貫くだけの貫通力と、黒山羊の身体を焼き切る火力はある。一年前の時点で、森の中からヴィーラムの町を貫くだけの威力があったのだ。


 「──」


 きーん、と、土星猫が鳴く。

 今度のそれは嘲笑ではなく、愉悦を多分に含んでいた。


 その挑発を皮切りに、ルキアの魔術が解放される。

 光の速度で撃ち出された純エネルギーの槍は、回避も防御も許さない絶対攻撃。無限の再生力を持つシュブ=ニグラスの落とし仔であろうと、劣等個体なら十分に殺し切れる。


 地球の重力すら振り切り宇宙空間へ伸びるそれを、


 「──」


 土星の猫は、笑いながら回避した。

 四条の光線の間を縫うように、狭い路地をすり抜ける猫の動きで。


 その動きを、攻撃の無意味さを知らしめるためだけの無意味な動きを見て、ルキアとステラは確信した。


 ──勝てる。


 動きが見えたということは、土星猫の動作それ自体は光速を超えていない。

 一連の回避は光の槍そのものを避けたわけではなく、進路上のあらゆる全てを貫く直線攻撃の照準を見切り、それを避けただけだ。どこに撃たれるのかが分かっていれば、攻撃の速度を上回って動かなくても回避できるのだから。


 照準しない広範囲攻撃を使ってもいいし、そもそも回避できないように手を打ってもいい。

 ビジョンは見えた。そして、それを実現するだけの手札は十分にある。


 「私が檻を」

 「私が槍か」


 一言で意思の疎通を終え、跳びかかってくる土星の猫を無感動に見つめる二人。


 シュブ=ニグラスに比べれば。

 ハスターに比べれば。

 ナイアーラトテップに比べれば。


 ──こんな程度の相手、恐れるに足りない。


 「《ハイグラビティ》」

 

 土星猫を縫い留めるのは、ルキアの魔術によって局所的に増大した地球の重力だ。

 相手を直接照準しないから狙いを読まれることもなく、相手が想定以上の魔術耐性を持っていたとしても防御されない。


 未知の相手を拘束するには良い手だが──しかし、土星猫相手には悪手だ。


 土星の猫は宇宙に生きる猫。

 星々の狭間を、荒れ狂う磁場との間を泳ぎ、自由気ままに生きるモノ。


 重力をいなす術は、生得的に備わっている。


 ぬるり、と。

 掴み損なったウナギのような、或いは掬い上げた指の間をすり抜ける水のような動きで、全身を引きつける星の力を受け流す。


 触手で編まれた顔が、バロック調の装飾に縁取られた双眸が歪む。

 自身を強いと過信して対応を誤った愚かな獲物に向けるに相応しい、深い嘲笑の形に。






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