第179話

 眼前で繰り広げられるフィリップとディアボリカの戦闘。或いは両者が“準備運動”という名目の下に互いを観察し合う光景を前にして、シルヴァの脳裏には全く別な景色が投影されていた。


 シルヴァ自分と相対した吸血鬼ディアボロスは、長く艶やかな髪を手櫛で梳き、降り注ぐ血の雨を恍惚と浴びている。



 覚えのある場所。

 覚えのある状況。


 記憶。走馬灯。


 或いは──白昼夢。



 森の木々は枝葉を切り落とされ、ディアボロスの望む形に作り替えられてしまった。


 その形状とは槍か精肉用の吊り鉤。

 目的は言うまでも無く、ローレンス伯爵領から攫ってきた、百人では足りない血液袋の設置だ。森のそこかしこに、人間の死骸が早贄にされていた。


 「一度やってみたかったのよ、コレ。直吸いじゃなくて、浴びるように飲むっていうの」


 けらけらと、好奇心が満たされたことに悦楽を感じながら哄笑する、猟奇殺人鬼──否、吸血鬼。

 しかし、その愉悦はすぐに消沈した。


 「うーん、でも、あんまり意味は無かったわね。命は増えないし、服は鉄臭くなっちゃうし、骨折り損だわ」


 疲れたような口ぶりだが、既に100人以上の血を吸っていたディアボロスにとって、ローレンス伯爵領の衛兵など大した敵では無かった。

 後から後から湧いてくる雑兵を片手間に吸い殺し、時にはただ殺し、殺すまでも無く適当に薙ぎ払い、眷属に喰わせた。歩いている時に腕を振るような、ごく自然なことだ。


 面倒だったのは、そこそこ大きな町に住むそこそこの数の人間から、処女と童貞だけを選別して連れてきたことだ。


 処女と童貞に限定したのは、その血液が他と比べて美味だから。

 わざわざ少し離れた森まで運んできた──魔術で杭を生やし、街中で楽しむという選択肢を取らなかったのは、獲物の中に多い子供の、親が乱入してくるのを嫌ったからだ。


 命のストックを幾つか使うほどの大魔術、複数人での転移魔術を使うほど、気合を入れただったのだが。


 「ま、分かってたコトだけど、想像よりも気持ちよくなかったわね」


 あーあ、とつまらなさそうに嘆息する。


 この実験結果は、分かり切っていたことだ。

 血液とは「情報」であり媒介だ。命そのものではない。


 対象から流れ出た血には「命の情報」がごく少量しか含まれておらず、それを何リットル飲んだところで「命」という存在の理解と掌握には至らない。根本的に、必要不可欠な情報が欠落していると言うべきか。


 吸血鬼にとって、自己強化食事となる吸血行為──命のストックを増やすためには、相手の体内に流れている新鮮な血液、命という存在の記述が欠落していないものを介する必要があった。


 その大前提を、100年以上も生きているディアボロスが知らないはずがない。


 だから今回の暴食に、大した意味は無かった。

 いつも食べている食材の、一風変わった味変を耳にして、試してみたけど微妙だった。ディアボロスにとってはたったそれだけの、ローレンス伯爵領の住民にとっては地獄のような一幕。


 暗黒領の城を出る前の、「あ、そうだ」という唐突な思い付きによって引き起こされた地獄は、同じくらい唐突に現れた救世主によって幕引きとなった。


 「そこまでです。吸血鬼ディアボロス」


 自分のものでは無いような、冷たく澄んだ冬空のような声。

 伸ばされた腕はすらりと長く、成熟した女性のもの──幼児の外見であるシルヴァのものとは思えない。しかし、主観視点では間違いなく、自分の肩から伸びている。


 はてこれは、と思う暇も無く、記憶の再生は続く。


 「あら、ドライアド? いつの間に……」


 ディアボロスの目がこちらを向き、どうでも良さそうに逸らされる。


 「血の無い精霊に興味はないの。殺さないでおいてあげるから、失せ──」


 ぞぱ、と、鳥肌の立つような湿った音。

 どちゃり、と重く濡れたものが落ちる音に、ぼたぼたと多量の液体が零れる音が続いた。


 「──あら、手が早いのね」


 ディアボロスの右腕は、見事な筋肉も太い骨も関係なく、足元から伸びた木の根の槍によって切断されていた。


 肘から先を失くした右腕からは、鮮やかな色の血液がとめどなく溢れ続けている。その量と勢いは明らかに人間離れしており、魔術的にか物理的にか、とにかく非人間的な身体をしていることが分かる。

 極めつけは、その血の滝を突き破って生えた右腕だ。単純な傷の修復ではなく、欠損部位そのものの再生。治療魔術では再現不可能な規模の治癒だ。


 「今の、魔術じゃないわね。いえ、そもそもアナタ、魔力をほんの一滴も持ってない。……ホントに生きもの?」


 たとえ上位の精霊であっても難なく勝利できる存在格を持つディアボロスが、明確に警戒の視線を向ける。


 当然だ。

 魔力とは時に生きる意思とも呼ばれる、生命体の根幹に属するモノ。この世のありとあらゆる生き物は、必ず魔力を持っている。ヒトも、犬猫も、鳥類や爬虫類、魚類、植物もまた。


 そして精霊は肉体そのものが魔力で構成された存在だ。


 だというのに、視界のチャンネルを魔力に切り替えた瞬間、眼前からそいつの存在が掻き消える。

 

 有り得ない。

 そんなことは有り得ないし、そんな存在は在り得ない。


 何かのトリックを疑うべき状況だが、ディアボロスは自分の観察眼に、その正確さに自信を持っていた。自分の目を掻い潜る技量の魔術師は存在しない、と。

 そしてそれは思い上がりではなく、厳然たる事実だ。聖痕者にも匹敵する精度の魔力視は、相手の一挙手一投足を見逃すことなく捉える。


 存在しているはずがない存在、少なくとも魔力的にはを前に、ディアボロスは自身の周囲に十数個の火球を展開した。


 目に痛いオレンジ色の炎は、ただそこにあるだけで空気を喰らって轟々と啼く。

 その姿は、声は、あらゆる生命体の本能に恐怖として刻み込まれている。相手が樹木の精霊ドライアド、或いはそれに類似した何かであるのなら、尚更のはず。そう予想してのことだろう。


 撃ち出された複数の火球は狙い過たずシルヴァの顔面に突き刺さり──しかし、痛みはない。


 即死。──否、全くの、無傷故に。


 一片の痛痒も無く、一切の負傷も無く、水風船でもぶつけられたように、シルヴァはそこに立っていた。

  

 「あら、凄い。今のはアタシでも火傷する威力なのに」

 「この森に住まう全てのドライアドが、お前の排除を願いました。故に私──森の代理人ヴィカリウス・シルヴァが、その望みを叶えます」


 噛み合わない言葉は、会話するつもりはないという意思表示のつもりだった。


 しかし、その傲慢──次の瞬間には殺している相手との会話など不要、という戦力評価に基づく判断は、続くディアボロスの言葉によって覆される。


 「ヴィカリウス。なるほど、アナタがそうなのね」


 驚愕に見開かれた目に、ディアボロスの可笑しそうな顔が映る。


 「なあに、その顔? アタシ、これでも博識な方なのよ。この星に宿るモノ、アナタたち概念存在のことも、知識としては知っているわ。本で読んだ程度のものだけどね」

 「驚きました。私の同種が表舞台に出たのは千年以上も前のこと。当代に知識が伝わっているとは」

 「古い文書の写本の、そのまた写本を手に入れただけよ。アナタたちがどういう存在なのか、そのくらいしか知らないわ」

 

 感心したような──大人が子供に向けるような、圧倒的な知識量の差から来る冷笑にも似た言葉を、ディアボロスは謙遜と共に受け取る。

 しかし、でもね、と言葉は続く。


 「でもね、それだけで十分。アナタは森。森そのもの。だから対人攻撃なんかじゃ傷付かない。無敵性の理由だけ知っていれば、それで十分なのよ」


 ディアボロスの、自信に満ちた声。

 知識に裏打ちされた確信のある、強い声だ。


 獰猛に笑うディアボロスに対して、シルヴァは首を傾げ。


 「意味不明です。お前は森を──“森という概念”を、この星から消し去れはしないでしょう?」


 そう、道理を口にした。


 ヴィカリウス。

 この星の触角であり細胞である彼女たち“代理人”というシステムは、その概念に根差している。


 例えば森の代理人、ヴィカリウス・シルヴァ。

 彼女は森そのもの。の攻撃でなければ傷一つ付かず、たとえその個体を滅しても、この星に森という概念がある限り再発生する。火山から流れ出る溶岩に洗われた土地が、数百年の時をかけて森林へと戻るように。


 数千万年もの昔、恐竜を絶滅させるほどの気候変動からさえ立ち直った“森林”という概念は、この星の表層の一つ。環境そのもの。


 一個存在がどうこうできる存在格ではない。


 ──だが。


 「えぇ、勿論。でも、アナタという一個体くらいなら話は別でしょう? ヴィカリウスという概念存在の、その化身にして触角、顕現した表層であるアナタ一人なら!」


 勝ち誇ったように叫び、ディアボロスは再生したばかりの右腕を天に掲げる。


 「対都市級魔術──《ヘルフレア》!」

 

 天を突く右手の延長線上、遥か上空に、どす黒い色の火球が生まれる。

 その規模サイズは極大。家一つどころではなく、城一つを呑み込むほどのもの。もはや大きな火球ではなく、極小規模の恒星とすら言える。


 落下すればこの森の半分を即座に焼却し、残る半分も数分で延焼、一時間もあれば焼け野原にするだろう。

 そして黒く穢れた炎は、魔術が解けるまで永遠に燃え続ける。


 小さな森なら一撃で燃やし尽くすことも可能な攻撃は、十分に『対森林級』の域。

 明確に自分を殺し得る攻撃を前に、シルヴァは依然、首を傾げる。


 「確かに、私という一個体なら殺せるでしょう。ですが、森は溶岩流の中からさえ立ち直ります。百年後、二百年後には、新たな『私』が再生する。その私を殺す意味が理解できません」

 

 両者間には、絶対に超えられない隔絶があった。


 そもそもシルヴァは『死』を知らない。

 知識として「生命の終焉を死と呼称する」とは知っているが、それだけだ。


 この星の表層に「森」と呼べる存在が出現し始めた、約前。ヴィカリウス・シルヴァの発生もその時期だ。

 それから、生命の整理を数回も経験した。気候変動。隕石誘引と落下。氷河期。この星が自ら生み出した生命を自ら整理する、数千万年に一度の大掃除。星の表層として認められた『森林シルヴァ』は、それを幾度となく乗り越えてきた。


 無論、森林とてそこに在り続けるものではない。

 火災や洪水、地震、豪雪、火山活動。その他の星の活動によっても、或いは人類やそれ以前の星の覇者の手によっても、その領域を著しく失うことはあった。


 だがそれでも、現に、明白な事実として。森林という概念は滅んでいない。


 「不滅」。

 星に根差し、数億年もの時を存在してきたシルヴァには、その言葉が相応しい。


 対するディアボロスは吸血鬼であり不老不死。とはいえ、発生から二百年かそこらの若輩者。

 そして何より、。文字通り、歴史と規模が違い過ぎるのだ。


 だから、


 「だから、アタシの勝ちなのよ」


 シルヴァが負ける。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る