第178話
たん、と軽い踏み切り音を残して、ディアボリカの姿が掻き消える。
それを認識した瞬間、思考するまでもなく身体が動いた。
半自動的に選択された行動は“回避”。片腕で顔を守りながら、全身を投げ出すように地面へ伏せる。
直後、轟、と、フィリップの頭があった位置を背後から穿ち抜く業火の拳。
ほんの一足でフィリップの背後に回り込んだディアボリカの一撃だった。しかし、それは明確にフィリップを殺すためというより、自分の肉体性能と、その衰えを確認するための動きだ。
無様に転がることでしか回避できなかった、そもそもディアボリカの動きを見切れなかったフィリップへの追撃が無いことが、それを証明している。
「うーん、やっぱり遅くなってるわね」
「ち──」
握ったり開いたりしている自分の手を見ながら呟くディアボリカに、舌打ちを漏らしつつウルミを振るう。
都合四つの斬撃をしかし、ディアボリカは一歩で5メートル以上も後退して回避する。
デタラメな肉体性能だ。
今のフィリップが見切れないということは、少なくともステラの放つ初級魔術より速いということになる。
それを実現する力が攻撃に転用された、その威力を味わう羽目にはなりたくないものだ。
「──ッ!」
姿勢を下げ、再度の攪乱走行を試みる。
相手が本気なら、あの魔力照準法を使われて終わりだろうが──これはあくまでも準備運動。純粋な肉体性能だけで攻撃してくるはずだ。
その予測、或いは願望は、幸運にも的中した。
フィリップが欺瞞した通り、一人分後ろを拳が通り過ぎる。ディアボリカからは、自分の拳がフィリップを通り抜けたように見えただろう。
トリックが分かっていても、眼球と脳は錯覚を起こす。それが正常な機能だからだ。
しかし、その攻撃に驚いたのはフィリップも同じ。
五メートルの距離を一瞬で詰めてくるどころか、拳を振り抜いた後で漸く姿が見えたほどの高速移動。暫定的にだが、ソフィーと同等の白兵戦能力と言える。それ以上という可能性もあるが、どちらにせよ勝てない。
驚愕が自動化された身体操作を鈍らせ、攻撃の精度が落ちる。
ディアボリカは迎撃にしては一瞬遅いウルミをスウェイで躱し、また五メートルの距離を空ける。
フィリップの攻撃が一歩届かず、ディアボリカもまた一歩で詰められる距離だ。
間合いが違い過ぎる。
四メートルという長大な攻撃距離を誇るウルミですら、一歩の踏み込みを要する。通常の直剣であれば数歩以上を進まなければ、当たるかどうか以前に、攻撃を振ることも出来はしない。
不利だ、と思う。
そもそもフィリップは、別に白兵戦に長けているというワケではないのだ。なんせ、武器による防御ができないのだから。
防御とは文字通り相手の攻撃を受け止めるだけではなく、弾き、受け流し、打ち払う、広義の意味での「防御」だ。
剣術の流派の大半は、防御を前提に戦術を構築する。フィリップの使う『拍奪』を編み出した流派にだって、防御の術法は数多い。
防御ありきの白兵戦で、防御縛り。
それだけ聞くと、我ながら自殺志願者じみているが──
「当たったら死ぬのなら、当たらなければいい」
なるほど確かに! と、当時は思っていたし、今でも人間相手ならそれでいいのだが。
──相手が悪すぎる。
フィリップの戦術は、概ね三通り。
魔術師相手には中近距離を『拍奪』で走り回って攪乱し、ウルミでズタボロにする。
剣士相手には近付かず、領域外魔術で攻撃。
どちらにせよ勝てない相手には神格招来。
ステラとの模擬戦で『二分間の耐久』という条件が付いているのは、神格招来を詠唱する時間を作れるか、という部分がチェックされているからだ。
魔術が通用せず、ウルミを見切ってくるような──たとえばステラのような──相手と敵対した時にでも、生還できるように。それが、あの二分間に込められた意味だ。
だが、ほんの一瞥で心臓の鼓動すら停止させるような相手は、流石に想定していない。
“拘束の魔眼”。
目を向けるだけで相手を完全に硬直させる、アレさえ無ければ、神格招来でどうとでもなるのに──!!
「うーん……?」
ディアボリカが両拳の炎を消し、顎に手を遣って考え込む。
銀武器を持った相手を前にして、だが、舐めすぎとも油断し過ぎとも思わない。その傲慢は実力に裏打ちされている。
しかし、それでも──隙には違いない!
「おっとと」
振り抜いたウルミを、ディアボリカはまた数メートルの後退で躱す。
もはやこちらを見てもいない、腕を組んで虚空を見上げた黙考の姿勢。
その首に、鉄茨の鞭が絡み付いた。
こちらを舐め切って、いや、正確に過ぎる戦力分析に基づいて、最低限の回避しか行わなかったディアボリカに、ウルミだけが追従していたのだ。
「あら」
フィリップが意図的に手放したウルミは、スイングの遠心力を回転に変えて飛翔するボーラとなった。
ボーラとは、両端に重りの付いた投擲武器で、獲物の翼や足を絡め捕る捕獲猟具だ。毛皮や羽毛を傷付けない特性は有用だが、投擲武器である以上、命中精度や射程距離は練度に大きく依存する。
しかし、今のフィリップにはどちらも必要ない。
彼我の距離は五メートル。ウルミが二回転分も飛べば十分に当たる距離であり、相手は黙考の最中でステップの直後、回避運動も間に合っていない。
そして──
再び全力の疾走。
回転の勢いを残し、振り回されているウルミのグリップを掴み直し──思いっきり引きながら走る。
表面を荒く削られ、棘さえ立った鉄の鞭は、柔らかい肉によく絡む。
首を二周した鉄の茨は、首の肉を噛んだまま引っ張られ、糸を引き出す糸巻きのように回転を強いる。
頸動脈や気管を削ぎ落しながら頸椎を折る、血と肉の削れる湿った音と小枝の折れるような乾いた音。
フィリップが予期し、期待した
──ぎゃりぎゃりぎゃり! と、火花の散る硬質な音に、取って代わられた。
「ッ!? は──」
話が違う。
そう叫びたかった。
今のは完全な密着状態、魔力障壁よりもさらに内側に潜り込んだ攻撃だったはず。
つまり、今のは──
「あー、そういえば。アタシの血って、格下の攻撃をある程度無効化するのよ。アタシ以外の血が全く残ってない時だけの、それこそ何百年に一度あるかないかの、追い詰められたときの最終防壁みたいな?」
──純粋な外皮による耐久!
「そっか、アタシ自身の魔術でも、付与魔術程度だと突破できないのね」
賢くなっちゃったわ、などと笑う、典雅な顔立ちの紳士。
フィリップにしてみれば、全く笑い事ではないのだが──その特性は既知のものだ。
存在の格というものがある。
生物に限らず、この世全ての存在には、それぞれの格がある。普通に生活していても、たとえ命を懸けた殺し合いの最中でも、多少の格差は問題にはならない。
しかし、両者間の格差が甚大である場合──戦闘は発生しない。
格下の攻撃は通用せず、格上は攻撃未満の挙動が格下にとっての致死となる。
たとえば去年に遭遇した、座天使長ラジエル。あれがちょうど、フィリップとハスターと中間くらいで、それぞれの存在格が隔絶している良い例だ。
フィリップはラジエルに大きく劣り、その攻撃が全く通じなかった。
そしてラジエルもまたハスターには大きく劣る存在格であり、軽くあしらわれていた。
隔絶が大きければ、目にしただけで存在の核が崩壊することだってある。
ディアボリカの存在格は宇宙規模で見れば下の下だろうが、フィリップと比べると、攻撃を無効化する程度には上位らしい。
せめてきちんとした銀武器か、耐性を貫通できるような魔術があれば話は違ったのだろうが。
詰んでいる。
いや、まぁ、ずっと詰んではいたのだが──いよいよ本格的に、神格招来以外の手札が尽きた。
一応はウルミを構えたまま、しかし動きを止めたフィリップを、ディアボリカは顎に手を遣って観察する。
「勝敗は決した、というか、始めから戦闘になんてなっていないことは分かっているのよね? アタシがその気になれば、アナタを止められることも知っている。……なのに、そんな目ができるのね。不思議だわ」
「はっ。諦めに濁った目ですか? 奴隷みたいな目って言われたこともありますけど」
冗談のような言葉に、ディアボリカはくすりとも笑わない。
双眸には冷徹な観察と計算の光だけが湛えられ、フィリップを即座に殺すべきかという思考さえ透けて見える。
「いいえ、違うわ。むしろ逆、諦めてなんていないでしょう? この期に及んでもなお、アタシのことを“脅威”として見てる。貴方の前に顕現した死の化身ではなく、打倒すべき敵としてね」
フィリップは何も答えないが、苦笑にも見える不敵な笑みを浮かべていては、答えているも同然だった。
「ふむ。……アタシが思うに、アナタの目的は二つ。一つは、そのドライアドちゃんを守ること。もう一つは時間を稼ぐこと。……聖痕者ならアタシに勝てるという予想は正解よ」
顎に手を遣り、考えを纏めながら話すディアボリカ。
その推論は正解だった。
フィリップでは勝てない。
それが確定した時点で、自力での勝利はすっぱりと諦めている。
先ほどからルキアとステラをしきりに気にしているディアボリカだ。二人を明確な脅威として認識していることは間違いない。
なら、頼ればいい。
過去に『騎士の誇りとか、男の矜持とか、ぜーんぶ無視して遠距離から毒ナイフを投げるタイプ』と言われ、先日は女子生徒の顔面にウルミの一撃を喰らわせたフィリップだ。ルキアとステラで勝てる相手で、二人の正気を損なわない相手なら、女性の背中に隠れることにも躊躇いは無い。
「でも、アナタはそれを諦めかけている。今やっと森に入った二人がここに来るまで、見積もり30分ってところかしら? 迷いの結界は焼き払うなりできるでしょうけど、アナタを助けに来るのなら取れない戦術よね?」
その通りだ。
結界に関するシルヴァとディアボリカの言葉は矛盾しているが、恐らく、ディアボリカが正しい。
この封印の祠に近付かせない、そして封印の祠から外には出さないように迷わせる木々の結界。
認識を狂わせる位置に植わった木々の、方向感覚を狂わせる方向に伸びた枝葉。非魔術的なものであれば、ルキアとステラでも気付かないままに迷ってしまう。
「それを分かった上で、アナタはまだ諦めていない。アナタ……手札を二枚、残しているわね? 一つはアタシを殺すもの。アナタが能動的に使う必要があって、アタシの魔眼に阻まれるもの。……もう一つはカウンター。アタシの攻撃に、アタシの強さに怯えが無いのは、防ぐ手立てがあるからでしょう?」
は、と、乾いた笑いが漏れる。
見抜かれていた──いや、だからこそ、体格も魔力も貧弱なフィリップを、準備運動の相手に選んだのだろう。
そしてフィリップの表情は、
「夜空に、星々に由来する何かでしょう? あの猫ちゃんと同じ、この星に在らざるものの力。違う?」
その言葉を聞いて今度こそ、この上なく苦々しく歪められた。
ディアボリカの言葉が正解だったから、ではない。
ディアボリカの声色に、はっきりとした警戒の色を感じ取ったからだ。
「……まぁ、分かりますよね。流石に」
「……」
努めて平然と聞こえるように応じたフィリップを、ディアボリカの目は見ていない。
漆黒の双眸は魔力を帯びて淡く輝き、フィリップの魔力の動き、血液の流れ、筋肉の強張りさえ見通していた。
フィリップという個人は、ディアボリカにとって見るべきものではなくなった。
今見るべきは、眼前の人間がどう動くのか。ヒトの形をして、ヒトの動きをするそれが、どのような手札を隠しているのか。
もはや準備運動を終えたヤツは、こちらを殺すことを、フィリップに鬼札を切る間を与えず、無傷で、一方的に殺すことだけを考えている。
冷酷で、何より精密無比な殺人機械を彷彿とさせる。
人間の血を啜る
強者でありながら弱者のように振る舞う存在。
フィリップのような本物の弱者が足を掬えない、最高に厄介な相手だ。
「……でも、アタシには選択肢がない。ここでアナタを吸い殺さないと、聖痕者からは逃げ切れない。……詰んでいるわね、お互いに」
冗談めかした声と共に、深紅に染まった双眸が向けられた。
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