第177話

 どうするか。

 現状、ディアボリカを殺せるビジョンは全く見えない。


 いや、フィリップも有効打になり得るカードは数枚ほど握っている。


 クトゥグアとハスター神格招来の二枚は、一星の支配者にもなれないような劣等種相手には十分な火力を誇る。クトゥグアに関しては些か過剰の感も否めないし、また何かの手違いでヤマンソが出てくるのではという懸念もあるが、眼前の吸血鬼を殺し切れないことは無いだろう。


 だが、その行使には長々とした詠唱を要する。

 精神を犯す毒である邪神の名前が含まれた呪文は、天使や悪魔にすら恐怖を与える。ディアボリカも何かしらの脅威を感じ、拘束の魔眼で止めてくるはずだ。


 小声でこっそりと、という案も浮かぶが、そもそも魔術行使に伴う魔力の動きを感知した時点で拘束たいさくされる。


 もう一枚。

 ご丁寧にも自分から銀属性を付与し、吸血鬼にも有効打を与えられるようにしてくれたウルミだ。


 これは完全に見せ札で、ディアボリカもこれが自分を殺し得るとは思っていないだろう。いや、そもそも──


 「吸血鬼は不死身だって聞いたことがあるんですけど、そうなんですか?」


 世間話のような調子、というには険の籠った声での問い。

 そもそも殺せるのか、という命題は、これから殺し合いをする上では最低限クリアすべき問題だった。


 ディアボリカは気分を害した様子も無く、「えぇ」と軽く頷いた。


 「えぇ、そうよ。アタシたちは血液──人間一人分の血液が、そのまま一つの命のストックになるの。十人食えば十回死ねる、百人飲み干せば百回死ねるってワケね」

 「……つまり今の、渇き切ったあなたなら、一回殺せば終わりってことですよね?」


 ディアボリカは今度の問いには頷かず、しかしロワイヤル・スタイルの口髭に縁取られた口元を獰猛な笑みの形に歪めた。

 剥き出しにされる長い犬歯。長年の飢えに耐えてきたそれは、もうすぐ血にありつけると喜ぶように、鋭利な輝きを纏っていた。


 「やれるものなら、ね」

 「……」


 これが英雄譚の類なら、上等だ、とか格好いいことを言って突撃する場面だ。

 しかし、これは現実で、残念ながらフィリップの戦闘能力は英雄には遠く及ばない。


 フィリップは自身の切り札──本当に握っているのかさえ分からない、最強の鬼札を想起する。


 外神の副王、ヨグ=ソトースの庇護。

 ナイアーラトテップの興味悪意から、シュブ=ニグラスの愛情軽挙から、ヤマンソの本気暴走から、フィリップを守ってくれた世界そのもの。


 外神最強の一角であり、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスでさえ副王の前には一歩劣る。

 彼の庇護を超える守りなど、この世界に、否、この世界の外側を加味しても存在しないと断言できるほどだ。


 しかし、その介入基準は判然としない。

 たとえば、去年の交流戦の折。フィリップはウォードの攻撃を防御し損ねて、重度の脳震盪に陥った。どうしてあの時は守ってくれなかったのか。


 先日の、ジェームズ・フォン・ルメールに殴られた時もそうだ。

 視界内とはいえ非戦闘態勢時の不意討ち。しかも軽傷とはいえ怪我をする程度には痛打だった。あの時もガードくらいはしてほしかったのだが。


 外神の判断基準を計ろうとするのは愚かなことだが、同じ視座を持つフィリップなら話は別だ。

 納得できるかどうかはさておくとしても、理解くらいはできるはず。


 ──と、一度もそう考えなかったといえば嘘になる。だが、フィリップはそれは無理だと分かっていた。


 フィリップと外神では、思考の形態が違う。


 人間の思考は不可逆的な時間の流れ、原因と結果の序列を論理の根幹に据えている。

 しかし、外神は時間の外側にいる。ヨグ=ソトースなど、時間と空間そのものと言っていい存在だ。言うなれば彼らには、「原因と結果」という概念が無い。


 価値観を共有できても、思考までは一致しない。人間同士がそうであるように、共通認識があれば、固有の意識もあるのだ。


 だから──フィリップには分からない。

 ヨグ=ソトースの攻性防御、ナイアーラトテップを握り潰した時のような、世界そのものが敵対者を滅する絶対防御の発動条件が。


 神格相手にしか発動しないかもしれない。

 致死状況でしか発動しないかもしれない。


 或いは──一度死ぬまで、発動しないかもしれない。


 フィリップにその意識は無いが、ナイアーラトテップの酔狂、シュブ=ニグラスの愛情、ヤマンソの暴走によって、フィリップは一度ずつ死んでいるなんてコトも有り得る。


 一度死んだフィリップを確認して、「このままでは死ぬので止めようね」と時間を巻き戻して注意した、その結果があれらの完璧な介入かもしれないのだ。

 非致死の攻撃を素通りさせ、致死状況だけは完璧に防いできたヨグ=ソトースの“完璧性”。それがフィリップの死によって裏打ちされたものだとしたら──


 「面白くない話だけど、僕が死なないことに変わりはない」

 

 言い切り、ウルミを空振って整形フォーメーションする。


 一回死んでいようが、三回死んでいようが、どうでもいい。

 人間の身体のまま生きていれば、それでいい。


 疾走準備スタンスを完了する。

 

 胸が地面に付きそうなほどの極端な前傾姿勢に、ディアボリカは不思議そうにしつつ、好奇心と愉快を混ぜた笑みを浮かべる。


 「あら、想像以上に期待できそう。楽しませて頂戴──ね!」


 ディアボリカが吼える。

 大きく広げた両腕の指揮に従い、展開される数十の火球がっき


 ただそこにあるだけで空間中の魔力を食い潰し、轟々と燃え盛る、原始的で野蛮な音の羅列。


 本来は単純な恐怖だけでなく、畏怖や崇拝、温かさや懐かしさを思い起こさせるはずのあかは、薄ら寒い青色に穢されていた。


 「血が減るのは困るから、手加減してあげるわ。尤も、魔力を焼く炎は怪我をしないだけで、痛みはタダの火傷とはワケが違うわよ? さぁ、踊りなさい! 《ソウルフレア》!」


 フィリップの知らない魔術。

 走り出し、酸素供給が遅延し始めた脳では、折角の解説も理解できない。


 だが、問題ない。

 幸いにして、ディアボリカの十以上ある魔術は、その全てが狙い澄まされた狙撃の精度。


 ──『拍奪』を相手に、狙った攻撃は絶対に当たらない。


 「あら?」


 透過したように外れた必中のはずの攻撃に、ディアボリカが小さく驚く。

 二発目、三発目と続く弾雨はいずれもフィリップを透けて通り、地面を撃って消えた。


 斜め前方に位置取り、攻撃姿勢に入る。


 狙いは一撃必殺の可能な首一択──では、ない。


 この状況で最も狙うべきではない箇所。

 戦闘能力でも、命でもなく、戦意を奪うための標的。顔面だ。


 単なる準備運動でしかなく、端から戦意など一片も持っていないディアボリカ相手では無意味な一撃になる。


 知識がある者なら、「無意味なことを」と嘲る一手。

 戦闘経験豊富な者なら、「何かの布石か」と勘繰る一手。


 そしてフィリップにとっては、起死回生の一手だったのだが──


 「ふふっ」


 嘲笑、ではない。

 ディアボリカが上げたのは感心の声。


 ぎゃりぎゃりぎゃり! と火花を散らす魔力障壁は、漆黒の双眸を切り裂かんとしていたウルミを、その数センチ手前で防ぎ切っていた。


 「クソ……!」


 攻撃で流れた身体の勢いを利用して再加速し、カウンターの火球をやり過ごす。


 「アナタ、他人を殺すことに全く躊躇しないのに、あんまり戦闘には慣れてないのね? 面白いわ!」


 今のはフィリップにとって、考え抜かれた最善手だった。

 先の一撃、素のウルミが効かないことを確認する時に首を狙ったことで、ディアボリカは「躊躇なく殺しに来る相手だ」と分かったはず。


 その上で、実戦では顔を狙うという不意討ち。

 “拘束の魔眼”を封じるための、眼球一点狙い。


 決まりさえすれば、その時点で神格招来を切れたかもしれないのに。


 攻撃を見切られた? ウルミの、音速を超える先端部の動きを?


 いや──


 「。それだけよ」

 「ご丁寧に!」


 どうも、まで言い切る余裕は無い。


 魔力を焼くという蒼炎は撃った端から補充され、フィリップは走り続けなければ一瞬で撃ち抜かれる。


 ここから先は、予想さえしたくなかった最悪の展開。


 現状を打破する最適の一手を考える暇はない。

 木の陰に隠れたシルヴァの方に流れ弾が行かないよう、細心の注意を払いながら、スタミナが続く限り走り、無意味な攻撃を繰り返す数分間。


 その後にはスタミナ切れか、ディアボリカが準備運動を終えて、限界が来る。


 「狙いの正確さには自信あったんだけど、鈍っちゃったのかしら? そ・れ・と・も、アナタの技術テク?」

 「……」

 

 答えない。いや、答えている暇がない。

 蒼炎の弾雨は準備運動に相応しく、多少の間を置いて撃ち出されているが、一発ごとのラグは1秒以下だ。


 避けるまでも無く外れるその照準先を意識しながら、銀属性の付与されたウルミを振るう。


 人間、いや獣相手ですら威嚇になる破裂音も、吸血鬼相手ではこけおどしにもならない。音速を超える先端は軌道を見切られ、より遅い部分は見てから回避される。


 無尽蔵にも感じられる魔力。

 圧倒的な身体性能と戦闘経験。


 そして。


 「あぁ、なるほど。ホントはそこにいるの」

 

 小さな呟きを皮切りに、照準の精度が跳ね上がる。


 歩法による位置認識欺瞞が機能していないのではない。相手が視覚以外でフィリップの位置を認識し始めたからだ。


 予想はしていた。

 相手がルキアを上回る魔力量を持っているのなら、ステラと同様のことを、自分の魔力で空間を埋め尽くし、唯一他人の魔力がある部分を狙うという手段を取ってくることは、当然のように予想できた。


 「面白い走り方ね。顔の位置で……獣相手には通じないでしょうけど、対人戦なら有効でしょうね」


 思わず舌打ちを漏らす。

 ほんの数分で『拍奪』の仕組みまで解析するとは。


 この──観察眼!

 人間より上位の生物でありながら、人間の子供相手にも観察を欠かさない周到さ!


 それこそが自分の強みだと理解して、フィリップから片時も視線を外さない。

 フィリップが魔眼を警戒している──魔眼さえなければディアボリカを殺し得る“何か”を持っていると、そこまで読み切っているのか?


 だとしても、状況は“最悪”で頭打ちだ。

 ディアボリカがこちらの切り札を警戒していようと、フィリップ本人の自力だけを見切って底を知った気になっていようと、フィリップにはあの魔眼を、ほんの一瞥を乗り越える手段がない。


 どうするか、と、何十度目かになる思考を再開する。

 しかし、走り通しで血流も酸素も足りない脳が何十度目かの「打つ手なし」という結論を弾き出す前に、ディアボリカの攻勢が止まった。


 どういうつもりだ、とは思わない。これは元々、互いの力が拮抗して生まれた戦闘ではなく、ヤツがこちらを一方的に利用しているだけに過ぎない。

 戦闘の終了──準備運動の完了が一方的なものになるのも当然だ。


 「──ふぅ。魔力操作のカンはだいぶ取り戻したわ。ありがとね、フィリップくん」

 「はぁ、はぁ……なら、僕を殺しますか?」

 

 息を整えることに全力を尽くす。

 ディアボリカの答えがYESだろうとNOだろうと、もう一幕演じなければいけないのは確実だ。


 YES殺すというのなら是非も無い。

 だが、答えはきっとNOまだだ。


 理由は言うまでもない。

 フィリップがディアボリカと同等の性能を持っていたとしても、ルキアやステラと戦うのならする。

 

 「いいえ、まだよ。次は白兵戦の練習に付き合って頂戴?」


 まあそうだろうな、と苦笑が浮かぶ。

 フィリップだって、あの二人と魔術戦オンリーで戦おうとは思わない。

 

 ディアボリカが展開していた火球が消え、代わりに同色の炎を両の拳に纏う。

 轟々と音を立てながら空間中の魔力を喰らう、非物理の火炎。

 

 明らかに低い位置で両拳を構えるスタンスは、幾らでも再生できる頭部ではなく血液循環を司る心臓を守る、吸血鬼の戦闘スタイルに適したものか。


 死線を超えた先の死線、地獄の第二ラウンド、開始だ。






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