第175話

 緑色を基調としたグラデーションの触手。アラベスク模様と金色の一本線に彩られ、側部には宝石のような小さな煌めきを並べた、絢爛とも言える外観。

 鮮やかで派手な色合いのそれが織り合わされ、四足歩行の獣のような形状フォルムを象る様は、まるで抽象絵画がキャンバスを飛び出したようにも思える。


 地面に四つ足を付き、背中を反らせて伸びをする。

 まるで猫──いや、事実、それは猫だった。


 「土星の猫……!?」


 土星に住む、猫のような生き物。

 神格ではなく、神格に連なるモノでもない。地球に猫が棲んでいるように、土星にも猫が棲んでいる。ただそれだけのこと。それだけのもの。


 だが、フィリップの智慧にある。

 それはつまり、触手で編まれた前足で触手で編まれた顔を洗っている、この醜悪な猫は、シュブ=ニグラスの視座から見てもフィリップを殺し得るということ。


 そんなものを呼び出した張本人、吸血鬼ディアボリカは、「あら博識。ホントに配下に欲しいわ」などと悔やんでいる。


 「前にお空から降って来てね、拾ったのよ。血を分けて眷属にしたの」

 「……へぇ」

 「不思議な見た目だけど、すっごく強いの。今のアタシの、んー……半分くらい?」


 はは、と、乾いた笑いが漏れる。


 ふざけた性格キャラクターだが、ディアボリカは本当に強い。

 百年間も封印されていて、力の源である血液は枯渇しているはずだ。そして今は昼間──木漏れ日とはいえ間違いなく陽が射している、日光下。吸血鬼の力は半減しているはず。


 それで土星猫の倍。


 土星猫は非神格だが、惑星間航行能力を持ち、星々の放つ電磁波や重力をいなしながらふらふらと彷徨する、気ままな猫だ。

 宇宙空間という絶対死──真空、極低温、極高温、その他無数の死因が散らばる地獄で、猫のような振る舞いを可能にするだけの強度がある。


 好奇心のままに星を訪れ、格下を狩って糧にする。時には残虐な方法で弄び、退屈を紛らわすことさえある。

 神格や自分より強いモノに遭えば、一目散に逃げるだろう。だがそれは、戦力を見定める観察眼と、素早い判断能力と逃げ足を有するということだ。


 宇宙の猫。

 宇宙空間で自由気ままな猫のように振る舞うだけの強さを持つモノ。


 興味無さげに毛繕い──触手だが──をしていたそれが、ぎょろり、と、骨格を持たない動きで首を向ける。


 「──っ」


 視線が合う。

 ハスターのような「便宜上の顔」ではなく、生物的な機能の備わった頭部の、バロック風の装飾に彩られた眼球と。


 こちらを観察する、四つ足の大型動物。

 先程のシャドウウルフよりさらに大きい、フィリップよりも体格に優れたネコ科の獣。


 フィリップの身体が、刻み込まれた本能によって硬直する。


 しかし──恐怖の度合いで言えば、相手の方が大きかったようだ。


 ぴょーん、と、蛇か胡瓜を見つけた猫の動きで飛び跳ね、大きく距離を取る土星猫。

 予備動作ゼロでほぼ垂直に5メートル以上跳躍する身体能力は驚異的であり、脅威だ。襲われたらひとたまりも無いだろう。


 「ど、どうしたの!?」


 ディアボリカが驚愕の声を漏らす。

 土星猫はそれには応えず、フィリップをじっと見つめる。


 ややあって、一歩、肉球とは似ても似つかないのに外観の形状だけは猫に近い足を、フィリップに向けて踏み出した。


 「……ふぃりっぷ」

 「大丈夫、大丈夫だよ」


 シルヴァを右側に座らせたのは失敗だった、と、腰の右側に佩いたウルミを思う。

 彼女の肩を抱いていた右手をそっと放し、ゆっくりと立ち上がりながら、ディアボリカを刺激しないように緩慢な動作でグリップへ伸ばす。


 ──駄目だ、間に合わない。

 ウルミを抜くより、土星猫がフィリップの足元に来る方が早い。


 かといって、焦って動きを速めれば、あの拘束の魔眼が飛んでくる。


 緑色の醜悪な猫は、ゆっくりとフィリップの周りを一周し──


 「──」


 きーん、と、人間の可聴域ギリギリの鳴き声を上げながら、ぽてりと横たわった。


 「……は?」

 「……あら」


 胴体をフィリップの足にこすりつけながら、ごろごろと転がる土星の猫。

 きーん、きーん、と続く超音波といい、もしかして、


 「あらあらあら甘えちゃって! 可愛いわね!」

 「……えぇぇえ……?」


 何故か嬉しそうなディアボリカの言葉に、フィリップの混乱が限界を突破する。


 「……お前ね、僕は一応、お前のご主人様に敵対してるんだぞー?」


 闘争の空気でも無くなって、うねうねと足元で蠢く触手の塊を撫でる。

 ふわふわもふもふ──というより、ぬめぬめむちむちうごうご、という感じだ。触っていて気持ちのいいものではないが……ちょっとクセになりそうな感触ではあった。


 「……ふむ」


 生温かい触手の隙間に手を突っ込み、奥の方を撫でてやると、土星猫は気持ちよさそうに身を捩る。


 「ふむふむ……」


 なるほど、これは確かに、触っていて楽しいモノではある。というか、むしろ無限に触っていられる。

 好きなところを触ってやると「あーそこそこ」と言いたげに身を捩るのも、違うところだと「そこは別に……」と萎れるのも、どちらも可愛い。


 触手の表面はぬるりとしているが、粘液が分泌されているわけでも無し、触って手が汚れることはない。

 外観は好みの分かれるところだろうが、あの醜悪な黒山羊より可愛げがあるし、見ただけで発狂する邪神などとは比べ物にならない。


 「うーん……この子の玩具オモチャにしようと思っていたのだけど……懐いちゃったわね」


 フィリップと戯れている土星猫を見て、ディアボリカは予想外だと呟く。


 そして、はっとしたように顔を上げ、フィリップ斜め後方の辺りに遠い目を向けた。


 「アタシの眷属たちが……そう、今代の聖痕者は一味違うってワケね。……なら、行きなさい、猫ちゃん。あの二人を始末するのよ」


 きーん、と超音波。

 土星猫は動かない。いや、動けない。


 「やだ、気紛れ! でもそこが可愛い!」


 ディアボリカは楽しそうに笑っているが、気紛れなどではない。

 土星猫が動かないのは、フィリップが押さえつけているからだ。


 フィリップの腕力は決して強いとは言えない。

 ウルミは筋力以上に身体の柔軟性が大切だと言われ、無駄な筋肉は付けない訓練をしている。同年代の子供と比べれば強いだろうが、それでもクラスで腕相撲大会をすればビリ確定だろう。体重も、体格に見合ってかなり軽い。


 それでも、土星猫は動けない。

 惑星間航行で染み付いた星々の匂いを漂わせる自分とはワケが違う、神格の寵愛けはいを纏うフィリップが、「動くな」と言外に命じているのだ。


 天秤に載っているのは、ディアボリカとフィリップの言葉ではない。

 ディアボリカの言葉と、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスといった外神の気配だ。針は振り切れ、行動は固定される。


 「……」


 一瞬だけ、「血を飲ませたらどうなるのだろう」という疑問が浮かんだ。

 このくらいの外見なら、気色の悪い魔物と言い張れないこともないのではないだろうか、と。


 ただ、契約には魔力量の制限がある。

 フィリップと土星猫の魔力量を比較して、フィリップが勝っているとは考えにくい。


 「もう、仕方ないわね。先にアタシの準備運動を済ませちゃおうかしら」

 「……はぁ」

 「あら、気が利く子ね。ホントに欲しくなっちゃうわ」


 ちらりと向けられた視線に嘆息し、立ち上がってウルミを構える。

 

 ディアボリカの言葉通り、ヤツにとってフィリップは何ら障害になり得ない。準備運動の相手になるかどうかはやってみないと分からないが、それ以上の脅威にはなれないだろう。


 腕の一振りで片が付く羽虫より、さらに格下。

 一瞥するだけで動きが止まり、あとはどうとでも料理できる俎上の魚。向かい合ってウルミを構えていて、自由なように見えるけれど、実情は生け簀に飼われた食材だ。


 ここまでずっと考えてきたが、答えは出ない。

 あの拘束の魔眼に見咎められず、神格招来の呪文を詠唱完了できる方法。フィリップがこの場を無傷で乗り切るビジョンが全く見えない。


 「そのウルミ。鉄と錬金金属の合金ね? 対アンデッドでもそれなりの効果はあるでしょうけど……」


 打ってこい、というように手招きされ、蒼褪めた首筋に向けて躊躇なく一閃する。


 直撃の寸前に先端部が音速を超え、破裂音を鳴らす。

 人間相手なら頸動脈や気道を削ぎ取る会心の一撃はしかし、小さな蚯蚓腫れすら残さない無駄打ちに終わった。


 「躊躇ないわね。あぁ、ホント残念……アナタ一人分の血も惜しい状況じゃなかったら、連れ帰って娘婿にしたいくらい」

 「ははは……」


 ディアボリカは終始一貫してフィリップのことを気に入っている様子だが、フィリップを見逃すことは無いだろう。


 漆黒の双眸には、ステラによく似た、冷酷で厳密な計算の光がある。

 フィリップを心底気に入っていても、聖痕者二人と対峙する可能性や、これから魔王領である暗黒大陸まで南下する道程を考えれば、絶対的に血液が足りないはずだ。それこそ、フィリップの小さな体に収まった、ほんの三リットル程度の血液すら惜しいほどに。


 それでも即座に吸血してこないのは、「いつでも殺せる」という確信と、


 「じゃ、準備運動に付き合って頂戴。《エンチャント・シルバー》」


 百年間もの封印生活で鈍った戦闘勘を取り戻す、くらいにはなるだろう、という期待によるもの。


 フィリップの手にしたウルミが魔力の輝きを帯び、銀属性が付与される。


 どうして、なんて考えるまでもない。

 ヤツにとって、素のフィリップは準備運動にもならないというだけのこと。


 フィリップの手が離れ、退屈そうに、或いは寄り添うように足元で丸まっていた土星猫が、戦闘の気配を察して立ち上がる。


 「そこで見てなさい」

 「たとえ僕が死んだ後でも、僕の友達に手を出したら……」


 分かるね? と、軽く首を傾げて見せると、土星猫は飛び上がって、そのまま森の奥へ消えてしまった。


 ディアボリカにしてみれば命令に反する、フィリップにとっても想像以上に過敏な反応に、二人はその後ろ姿を揃って見送る。


 「フフフ……あぁ、もう、ホント、ここでアナタに会っちゃったこと、堪らなく悔しいわ」

 「僕だってそうですよ。吸血鬼になんて、死ぬまで会いたくなかったです」


 笑って、ウルミを構え直す。指示するまでもなく、シルヴァは少し離れた木の陰に隠れた。 


 戦闘開始だが、さて──どうするか。








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