第174話

 かたかたと震えて縮こまったシルヴァを抱えて──血肉の代わりに枯れ葉でも入っているのかと思うほど軽かった──、出来得る限りの速度で森を駆ける。


 相手の姿を見てもいないのに逃げるというのは、フィリップらしからぬ弱腰だ。

 だがシルヴァが怯え切ってしまい、戦うことも逃げることもできない現状では、邪神召喚も切りづらい。


 「シルヴァ、道を教えて! どっちが最短!?」


 ポケットのコンパスを取り出す暇も惜しんで叫ぶも、シルヴァは答えを返してくれない。

 彼女の口から漏れるのは「あいつ」「かえってきた」「なんでわすれてた」という恐怖と自戒の羅列ばかりだ。強烈な恐怖による一時的狂気という可能性もある。


 「シルヴァ! しっかりして! シルヴァ!」

 「ふぃりっぷ……ここは……?」


 懸命な呼びかけが功を奏したか、虚ろだった双眸に自我の光が戻る。


 よかった、と漏らすだけの息も、その暇も無かった。

 小脇に抱えられたままきょろきょろと周囲を見回したシルヴァは、何故か瞠目して、


 「とまって!」


 と、いま最も避けるべき行為を提言した。

 論外すぎて、何メートルか走るまで何を言われたのか理解できなかったほどだ。


 どうする?

 彼女はこの森についてフィリップより遥かに詳しく、吸血鬼に対する知識もある。


 だが、今の今まで放心していたのだ。

 正常な判断能力が残っているとは断言できない。


 ざりざりざり、と土を削る急制動。

 一瞬だけ迷って、フィリップは彼女を信じることにした。


 「ここ──こっち、だめ! けっかいのなか!」

 「結界!? どんな!?」


 二度と出られないとかだったらどうしよう。そんな悲観が脳裏を過る。

 いや、まぁ、もし本当にそんな結界だったらでも壊して脱出するけれど。


 「まいごにする! ほこらのほう、ちかづいてる!」

 「な、なんでそんな結界があるんだ!? 普通は逆──いや、来た道を戻ればいい!?」

 「ん!」

 

 普通は「辿り着けないように迷わせる」ものではないのかと突っ込みたいところだが、製作者はシルヴァではないだろうし、時間の浪費にしかならない。


 今やるべきことは吸血鬼からの逃走ただ一つだけ、足を動かすことだけだ。


 シルヴァの案内に従って走ること数分。

 フィリップは視界の端に、とても嫌なものを見た。


 木々の合間からほんの僅かに見えた──木々の合間から、ほんの僅かにしか見えなかったのに、一瞬でだと分かる形状フォルム


 人間の目が、脳が、真っ先に認識するようになっているカタチ。


 ヒトガタ。

 夜闇より暗い漆黒の髪を靡かせ、黒曜石のように仕立ての良いスーツを纏ったもの。病的に蒼褪めた肌は、死体が起き上がったような印象を与える。


 それは石造りの小さな祠のようなモノを横倒しにして、その上に腰掛けて自分の爪を眺めていた。


 「あら?」


 ヤツの興味が移ろう。

 鋭利に尖った自分の爪から、数十メートル離れたところを走る子供へと。木々の合間からほんの一瞬だけ、互いを視認できる瞬間がもう一度訪れる。


 その瞬間、血のように赤い双眸と視線が、合って──


 「──あ」


 心臓が止まった。


 脈拍も、呼吸も、体温の変化も、流れる汗も、走っていた慣性すら消失したような不自然な挙動で、フィリップ・カーターという存在のあらゆる動きが停止した。

 風が吹けども髪は靡かず、片足を上げた不自然な走行途中の姿勢でもよろめきすらしない。


 「ふぃりっぷ!? ふぃりっぷ!!」


 シルヴァの悲鳴じみた警告にも、身体を揺すられても、微動だにしない。


 「あらあら、自分から来てくれるなんて。さっきの言葉はアタシを焦らすための、ウ・ソ?」


 ヒトガタがゆらり、と幽鬼の動きで腰を上げる。

 何のために、何て言うまでも無い。こちらに近付いて、その人間とは思えないほどに発達した犬歯を喉元へと突き立て、血を啜るためだろう。


 「ふぃりっぷ!」


 鼓膜も停止した状態では、抱きかかえたシルヴァが何を言っているのかも分からない。

 腕の中で暴れていることだけは分かる──あぁ、ということは触覚だけは生きているのか? だったら、血を吸われるのはとても痛そうだ。


 目も動かせない。

 どころか、焦点すら合わせられない。


 ゆっくりと近づいてくる人影は徐々にぼやけて、輪郭だけが何となくわかるような状態になって、やがて肌感覚で分かるほどに近付かれた。

 シルヴァはすっかり怯え切って、暴れるのもやめてフィリップの身体に縋り付いている。


 「──」


 声も出せない。

 当然だ。息を吸うことも吐くこともできないのだから。


 だが、苦しくはない。

 全身の細胞の酸素交換さえ停止している。


 異常に発達した犬歯を備えた口が開かれ、フィリップの喉元へと迫る。


 しかし──


 「あはっ」


 歯を突き立てる湿った音の代わりに、軽い笑い声が漏れた。

 百年ぶりの食事を前にした飢えの吐息、獣じみた呼気に、知性と愉悦の色が混じる。


 食欲と獣性を示すような涎を嚥下して、そいつの鼻がすん、と鳴る。


 「アナタ、本当にいい匂いだわ。アタシの飼ってる猫ちゃんのよう」


 フィリップに聞こえていれば「それホントにいい匂いか?」と訊き返したくなるようなことを言って、軽やかなステップで離れていく。


 肌感覚とぼやけた視界でそれを感じ取り──ふと、全身の活動が再開された。


 「う、わ──!?」


 心拍、呼吸、そして慣性さえもが一気に戻り、つんのめって地面を転がる。

 巻き添えになったシルヴァには本当に申し訳ないが、頭は庇ったので許してほしいところだ。


 受け身を取って立ち上がり、反射的に伸ばしそうになった手を制御してウルミを抜く。


 些末な抵抗の予兆には一瞥もくれず、ヤツは上機嫌に尻を振って歩いている。


 こちらに背を向けているが、獲れるか、と考えたのは一瞬だけ。すぐに無理だと思い直す。

 

 「今の──」

 「こうそくのまがん。みられたらとまる……とめられる」


 あの“拘束の魔眼”がこちらに向けられた瞬間、『拍奪』も、恐らくはウルミの動きさえも停止する。


 「はは……すごいな」


 思わず、乾いた笑いさえ零れた。

 今のは「目を合わせたら金縛りに遭う」なんていう伝承が可愛らしく思える、必殺の能力だ。


 心拍や呼吸どころか、流れ落ちる汗、直前の動きの慣性さえ停止させる凍結。

 完全停止の中でも思考を巡らせることができたのは、思考が肉体よりも精神の次元に近しいどっちつかずなものだからか? 


 もしそうなら、あれは肉体──否、物理次元に属するもの全てを縫い留める、空間操作にも匹敵する権能。これに比べれば、不老能力なんて添え物もいいところ、ハンバーグに付いてくるニンジンみたいなものだ。


 「こっちへいらっしゃい。少しお話しましょ?」

 「……この子を」

 「ダメよ。アナタにできるのは従うことだけ。分かるわよね?」


 ドスの利いた声で制され、続けて甘い猫撫で声で誘われる。


 苦い笑いが浮かぶ。

 ヤツの言葉は、脅しでも何でもない事実だ。


 シルヴァを逃がそうとしても、今すぐに神格を呼ぼうとしても、ちょっと魔力を込めて一瞥するだけでフィリップは停止すとまる。


 自分の足で歩かせるのは、停止したフィリップを運ぶ一手間を嫌っているだけに過ぎない。


 「……くそ」


 厄介な相手だ。

 勝ち目がない、とさえ思う。


 吸血鬼は血を吸うことで、相手を吸血鬼に変えることができるという。そして変化させられた吸血鬼は、親となった相手に絶対の忠誠を植え付けられ、永遠の命を懸ける忠実な僕になってしまうのだとか。


 勿論、精神汚染効果はシュブ=ニグラスの守りが防いでくれるだろう。

 だが肉体変容は別だ。もし吸血鬼なんかになってしまったら、人間社会から爪弾きにされるどころの話ではない。人類の敵扱いだ。


 何より、不老不死の強靭な肉体(現在比)を手に入れて、人間性が残る保証がない。


 「適当に座って頂戴? 隣でもいいわよ?」


 打ち捨てるように倒された祠に腰掛け、一刀の下に切り裂かれたような綺麗な断面の倒木と、その切り株を示される。


 「しゅごじゅが……」


 シルヴァの呟きは、守護樹、だろうか。

 トネリコ、サンザシ、ビャクシン、ポプラ。どれも吸血鬼に効く杭を作るための素材と言われる、退魔の木だ。無惨に伐られ、倒されている。


 手近だったトネリコの切り株に腰を下ろす。勿論、すぐに動けるように浅く。


 「さて──」


 尻を基点にして180度回転し、吸血鬼がこちらを向く。

 ここで初めて、その姿をはっきりと視認し──思考が止まった。


 魔眼ではない。

 ロワイヤル・スタイルに整えられた口ひげと、大きく開けたシャツから覗く、分厚い胸板と豊かな胸毛の所為だ。


 そいつはどう見ても、艶やかな長い黒髪の──おじさんだった。しかも顔の造形自体はかなり整っている、ダンディなオジサマだ。


 ……いや、まあ、確かに、「女性にしては低い声だな」とは思ったのだが。


 「なぁに? 随分とアツい視線をくれるじゃない」

 「……おと、こ、なん……です、よね?」

 「フフ……どう見える?」

 「えぇぇえぇ……?」


 わかんない。めのまえのものがわかんない。

 声が恐怖で震えるなんて、生まれて初めてのことかもしれなかった。


 フィリップ・カーター11歳。

 人生初の、オカマとの遭遇だった。


 「でぃあぼろす……」

 「あら? やっぱり何処かで会ったかしら? でも、それは昔の名前よ。今はディアボリカって呼んで頂戴?」


 シルヴァの呟きも、それに応えるディアボリカの言葉も、まるで頭に入ってこなかった。


 「アナタどう見ても発生から2、3年ってトコロだけど、なんでアタシを知ってるのかしら? ここに封印されたのは、もう百年も前の話なのに……」 

 「しってた……ううん、おもいだした? わかんない」

 「ふうん……ま、いいわ。今はそれより、アナタのことが気になるわ。お名前は?」


 フィリップに視線が向く。

 魔眼はオン・オフの切り替えができるようだが、魔術を照準されているに等しい状況だ。油断はできない。


 いや、というかそれ以上に、油断以前に、頭が真面マトモに働いていない。


 「……フィリップ・カーターです。ミス……ター? こほん。吸血鬼ディアボリカ」


 敬称は男性系でいいのか? それとも女性形か? という至極どうでもいい逡巡を、敬称を付けないことで解決する。


 「あら、高貴な感じのいいお名前ね。青い血じゃないのよね?」


 仲良くお喋りという間柄でもないし、首肯するに留める。

 それでも会話が成立したことが嬉しかったのか、ディアボリカはその顔を喜色に染めた。


 しかし、続くディアボリカの言葉は、友好的とは言い難い剣呑なものだ。


 「勘違いされないように言っておくと、アタシはあと数分でアナタを殺すわ。聞きたいことを聞いたら、すぐにでも。あぁ、勿論、抵抗の機会くらいあげるわよ?」

 「……そうでしょうね」


 知っていたと口先で言いながら、フィリップは少し安心していた。

 血を吸って配下にされると、最悪の場合は人間性の完全な喪失に繋がるので、シルヴァの正気を天秤に乗せてでも抵抗する所存だったのだが──殺されるのなら、どうとでもなる。具体的にはヨグ=ソトースの庇護を信じて命を捨てる。


 「素直で良い子ね。百年ぶりの食事で喉がカラカラじゃなかったら、配下にしてたかも」

 「結構です。……質問に答える代わりに、この子を逃がしてくれませんか?」

 「ダメよ。アタシ、その子のことは知らないはずなのに、妙に引っ掛かるのよ」


 ち、と舌打ちを漏らす。

 まぁダメ元で聞いただけだし、というのは完全な負け惜しみだ。


 「森の外にはとんでもなく面倒なのもいるみたいだし、これ以上、たとえ若い精霊一匹でも敵を増やしたくないの」


 ディアボリカはフィリップから視線を外し、斜め後ろの辺りを眺める。

 恐らく、その先には魔術学院生たちが──ルキアとステラがいるのだろう。


 「アナタのお友達ね? 魔術学院生……アタシの眷属ちゃんたちにしてみれば餌同然の小粒だけど、聖痕者が居るわね。しかも、片方は光と闇のデュアル。たった百年で、とんでもない時代になったものね」


 やだやだ、と首を振る。

 しかし人類最強の魔術師二人の存在を感知しておきながら、その表情に焦りや翳りはない。


 勝てるのか? と、疑問が浮かぶ。

 フィリップが、ではない。


 「聖痕者が助けに来ると信じて時間を稼ごうとしてるんでしょうけど、無駄よ。アタシの眷属が100匹単位でお友達を襲ってるんだもの。そっちを守るのに手一杯でしょうし……ココ、内側からは出られなくて、外側からは入れないようになってるもの。ね、ドライアドちゃん?」

 「……う、ぁ」


 水を向けられても、シルヴァは怯えて頭を抱え──? いや、違う。この仕草は、単に怯えているというより。


 「シルヴァ? 大丈夫? シルヴァ?」

 「ぃ、ぅ……だいじょうぶ」


 頭が痛いのか。

 さっきの転倒で打った──わけではないだろう。そうならないよう、きちんと庇った。


 隣に座ったシルヴァの肩を抱き、頭を確認するが流血している様子はない。


 「あらあら、じゃあ、手早く本題を済ませちゃいましょうか」

 

 こつ、と硬い靴音。

 ディアボリカが打ち捨てられた祠から腰を上げ、こちらに近付いてくる第一歩目の音だ。


 ほんの数歩で距離が埋まる。

 動けばと理解していたから、フィリップはそれを受け容れるしかない。


 香水の匂いが鼻を突くほどの距離になり、冷たい吐息の漏れる口元が首筋へと伸びる。また、すん、と獣の鼻が鳴った。


 「間違いないわ、この香り。夜の匂いを何倍にも濃くした、アタシの一番好きな匂い。そう──と同じ、ね」


 ディアボリカの影が伸びる。

 不自然な角度に、不自然な大きさで、不自然な濃さの影は、吸血鬼が眷属を召喚するための門であり、眷属たちが眠る異空間でもある。


 そして──ぞる、と、聞くに堪えない音を立てながら、が姿を現した。




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