第173話
恐怖には種類がある。
一つは理性的恐怖。
たとえばナイフを突きつけられたとき、その攻撃による痛みや死を想像して恐怖する。刃物に対する知識、怪我や痛みの記憶といった個人の経験に基づく恐怖だ。
一つは本能的恐怖。
たとえば蜂の羽音、蛇の威嚇音に対する恐怖感が当てはまる。これは人体が持つ遺伝的恐怖心であり、人間であるのなら例外なく備わっている。
狼の威嚇──正確には四足歩行獣の唸り声へと、暗闇に浮かぶ一対の光源への警戒も、遺伝子に記述され脈々と受け継がれてきた本能的恐怖心の一種だ。
生物学的には人間であるフィリップの身体も、シャドウウルフを前にして硬直を強いられる。
頭では分かっている。
その爪で引き裂かれ、その牙を突き立てられようと、フィリップが死ぬことはない。フィリップを容易く殺せる力と鋭利さがあるからこそ。
外神の視座は、眼前で唸る猛獣を脅威とも思っていない。
だが──身体が強張る。
フィリップの意志や認識に関係なく、フィリップの身体を構成する細胞が、遺伝子が、その機能に従って恐怖したような反応を返している。
これは反射だ。
眩しいから目を瞑る、熱いものを触れば手を引っ込める。そういう類の、訓練を積み重ねなければどうにもならないモノだ。
「──ふぅ」
ウルミを振って整形する動作で、深呼吸を誤魔化す。
眼前で唸りを上げるシャドウウルフは、狼の名を冠するが獣ではない。
生存本能を持たず、代わりに殺人衝動を備えた、人類の不倶戴天の敵。魔物だ。
だからフィリップの「臭い」にも反応しないし──フィリップの甘い動きを、見逃すことも無い。
シャドウウルフの身体が、影に隠れていても分かるほどに膨れ上がり、
「■■■■■■──!!」
咆哮。
地面を揺るがすような雄叫びは、単なる「声」ではない。
恐怖や威圧、恐慌の効果を持った、音を媒介にした精神攻撃だ。しかも、フィリップが息を吸う瞬間を狙って差し込んできた。
人間は恐怖してしまうと、反射的に息が詰まる。
だというのに、満足に息を吸えていない無防備な状態でも、恐怖した身体は徒に酸素を食い潰す。
そうなってしまえば最後だ。
息が足りないのに、息が吸えない。過呼吸にすらなっているのに、酸素が吸収されない。そんな弱々しい、戦闘態勢に入れていない無防備な身体を押し倒し、喉笛を食い破る。
武術などであれば基本にして神髄である、呼吸の理解と調和。
それを理合いを持たない、人ならざるものが行使する。
この──戦闘本能!
人間を殺すことを存在理由とする魔物に備わった、“知性無き最適戦略”こそが、魔物が畏れられる理由だ。
だが。
「──えい」
軽い掛け声と、見合わぬ破裂音。
一瞬と過たず、ずぱぁん! と水袋を切り裂くような音が続いた。
「いやー、危なかった」
「あぶなかった!」
威圧は、駄目だ。
敵となれば一瞬の躊躇もなく首を刎ねられる、害ある音無効、精神汚染無効のフィリップ相手では、悪手以外の何物でもなかった。
魔物らしく消滅していく死体には一瞥もくれず、フィリップは「嫌だなぁ、でも確認しないわけにはいかないしなぁ」と明記された顔をシルヴァに向ける。
「今の、吸血鬼の眷属って言った? この森って吸血鬼いるの?」
「……わかんない」
「えぇ……? 眷属がいるなら大元の吸血鬼もいるんじゃないの?」
本当に頼りない声の返答に、フィリップも困り顔になる。
吸血鬼と言えば、最上位種の真祖はゴエティアの悪魔にも並ぶ力を持つ、魔王勢力の超大物。
まず前提として不老。魔力攻撃と銀武器以外の攻撃を無効化し、優れた身体能力と膨大な魔力を持つ上位のアンデッド。日光下では能力が半減し、月光下では倍増する。身体を無数の動物や霧に変化させたり、血を吸った分だけ力が強まったりすると言われている。目を合わせただけで相手を金縛りにする、なんて話もある。
要は、とてもつよいアンデッド──神の敵対種だ。
このレベルの相手を見落とすようなら、ドライアドは“森の管理者”なんて言われていないだろう。
シルヴァはこの森のドライアド。フィリップより現地の生態系に詳しいはずだ。
その彼女が知らないというのなら、今この森に来た、とかか? 馬鹿げた話だが、それなら先程の圧力にすら感じた魔力にも説明が付く。
「もりのおくにふういんあった。それ、かも……?」
「封印? 嫌な単語がポンポン出てくるなぁ……」
それが原因だとしたら、封印が解けた可能性が高い。
いや……封印? 封印というのは、少しおかしい。
吸血鬼は不老だ。外的要因によって殺さなければ、永遠に存在し続ける。そんな存在が、人類に敵対しているのだ。
だからこそ、人間はこれまでの歴史の中で、吸血鬼の情報を集め、対抗手段を模索してきた。
吸血鬼の耐性や特性は厄介だが、既にパターンは出来ている。
簡単な話だ。
日光下、つまり昼間に、銀武器で武装した騎士と、遠距離攻撃の可能な魔術師、銀の鏃を使う弓兵などを使い、数の力で押し潰せばいい。教会の秘蹟には霧化や動物化を阻害する結界儀式があり、それは一般人のフィリップも知っているレベルで周知されている。
聖別された油に、聖なる火を灯して焼却してもよい。
魔を払う木、サンザシやトネリコの木から作った杭を心臓に突き刺してもよい。
吸血鬼は強い。
強いが故に、吸血鬼殺しのパターンは完成されている。
その吸血鬼を、わざわざ封印したということは。
「その吸血鬼、滅茶苦茶強いんじゃないの? ルキア以上の魔力みたいだし……」
銀武器を使った正面戦闘、遠距離からの魔術砲撃、投石機による聖油壷爆撃辺りの定石が、全て効かなかったということだろう?
いや、吸血鬼なら効くはずだから、それをやる前に対処部隊が壊滅したのか。どちらにせよ化け物だ。
「シルヴァ、森を出るまでどのくらい?」
そんな相手と戦うなら、ウルミとか魔術とか舐めたコトを言っている余裕は無い。
森を出てルキアとステラが安全な位置にいることを確認し、そのままクトゥグアで焼却するか、シルヴァを預けてハスターと一緒に直接倒しに行く。これが最適解だ。
「まっすぐなら、そんなに。でもほこらがあるから、ちょっとまわりみちする」
「祠? ……封印と関係ある?」
「ん!」
良いお返事で。
フィリップは腕を組み、思考を回転させる。
のんびりしている余裕は無いだろうから、黙考できるのは精々一分そこらだ。一刻も早く結論を出さなくては。
選択肢は二つ。
一つ、祠の方へ行き吸血鬼を探す。
一つ、祠から離れるように逃げる。
前者の場合、確実に戦闘になるだろう。
吸血鬼を前に邪神招来の長ったらしい呪文を詠唱できる確証がない以上、ハスターは事前に呼んでおくことになる。となると、シルヴァとは別行動が望ましいが──ルキアやステラに預けるならともかく、置いていくのは心苦しいし、彼女の方が襲われたら元も子もない。
後者は、逃げ切れるのなら最高の解だ。
ルキアやステラと合流すればどうにかなる可能性が高いし、あの二人が敵わない絶望的状況でも、シルヴァを預けて三人で逃げて貰えばいい。あとはハスターなりクトゥグアなりが何とかする。
だが、逃げ切れる確証はない。
さっきのシャドウウルフは獲物を前にして威嚇するアホで助かったが、眷属はあの一匹だけでは無いだろう。次もそんな個体とは限らないし、複数体で来られたらひとたまりもない。
「ふぃりっぷ?」
険しい顔で黙り込んでいたフィリップを心配するように、ぽてぽてと近寄ってきたシルヴァ。
翠玉のような瞳に上目遣いで見つめられ、服の裾を小さな手できゅっと掴まれても、フィリップの心に動揺はない。
だが──彼女は、フィリップと似ている。
同族が邪神との交信を試み──暫定だが──、今までいたコミュニティが全滅してしまったシルヴァ。
カルトの儀式によって外神たちに拝謁し、人間社会から精神的に隔絶してしまったフィリップ。
程度の差はあるが、同じ被害者だ。
少なくともフィリップはそう思って、彼女を抱き締めた。
「ふぃりっぷ……?」
「大丈夫。僕が、君を守るから」
いつか言われたように、いつかのようにそう言って、フィリップは選択した。
「森を出よう。吸血鬼はその後で何とかする」
そうと決まれば早速移動だ! と立ち上がった、その瞬間だった。
「あら、森を出られるのは困っちゃうわね。アナタ、とっても良い匂いがするもの」
木立の間を縫って、舐るような、粘着質な声が届く。
弾かれたように目を向けるが、声の主は見当たらない。隠れているのか、声だけを飛ばす魔術でもあるのか。
「不思議な匂いだわ。アタシたちの棲む夜の匂いを、何倍にも濃くしたような芳香よ? お星さまやお月さまに香りがあるなら、きっとそんな匂いなのでしょうね」
ひ、と小さく悲鳴を漏らし、シルヴァがぴったりと身を寄せてくる。
フィリップには分からないが、声の主──吸血鬼の気配を感じ取ったのだろう。
「そっちの子は……妙に覚えのある匂いだけど、どこかで会った──はずないわね。100歳超えには見えないもの」
くすくすと独り笑う声の主。
「──って、ちょっとぉ!?」
を、完全に無視して、フィリップは声とは反対方向に駆け出した。
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