第172話
シルヴァはフィリップに抱き着いたまま泣きじゃくり、ドライアドたちに起こったことを話してくれた。
泣き疲れて眠ったシルヴァを抱き締め、岩の上に腰を下ろしたフィリップは、さわさわと風に揺れる林冠を見上げて想う。
「……別に、死んで良かったんじゃない?」
いや、別にドライアドたちに思うところは無いが、聞く限りではこんな小さな子をイジメるクソ野郎──女郎か?──の集まりだ。ついでに言うと物語で読んできた「美しく気高い精霊」のイメージがぐちゃぐちゃに潰れたのも辛い。期待があった分、落差が生んだダメージも大きいのだ。
「いや──」
そんなことはどうでもいい。
元々、人間が10人死のうが1億人死のうが誤差と断じる価値観を持つフィリップだ。見ず知らずの精霊が1000人単位で死んだからといって、特別な感傷は無い。
問題はその死に様だ。
身体がどろどろに溶けて死んだ。……何とも不可解で、それ以上に嫌な記憶を想起させるワードだった。
フィリップはその死に様を齎す、死因までをも知っている。
存在核の崩壊。
盲目白痴の最大神格、アザトースに拝謁した者が至る終着点。圧倒的な存在の格差が「存在」という概念や形而上学に属するものを揺らし、押し潰し、破壊する。
攻撃ではない。
人間の側が勝手に潰れるだけの、単なる現象だ。故に、そこに慈悲は無く、例外も有り得ない。
だからこそ不可解だ。
アザトースに拝謁したのなら、発狂なんてしない。あのカルトたちのように、一瞬のラグも無く同時に液状化して死ぬ。
シルヴァの語ったように、ドライアドたちが殺し合い、その他の様々な狂気に落ちたということは、少なくとも発狂する余裕がある相手と繋がったのだろう。
存在格の破壊は、そう難しいことではない。フィリップには無理だが、時間の外側にいる上位次元存在、外神だけの専売特許という訳でもない。
存在の核にアクセスすることが出来る相手、程度で言えば旧支配者上位──ハスターなど──なら、そういう攻撃も出来るだろう。
だから相手の下限は、ハスター程度。
そして上限だが、ヨグ=ソトースでさえ一見しただけで存在核を崩壊させることはない。それは証明済みだ。
ハスター以上、ヨグ=ソトース以下。
そのレベルの相手が降臨したのなら、いくらフィリップでも一瞬で気付く。いや、フィリップだからこそ、と言うべきか。
邪神はいない。少なくとも今この瞬間には。
ドライアドは降臨ではなく、交信を試みたと考えるべきだろう。
そして自ら呼び掛けたナニカの逆鱗に触れ、根絶された。シルヴァが生き残った幸運も併せて考えると、幸運を見逃す程度の本気度だったのだろう。
「──ふぅ」
思考を終え、息を吐く。安堵の息だ。
ここに邪神はいない。
ルキアも、ステラも、安全だ。フィリップにとっての最優先事項は達成された。
では次の問題だが──
「……どうしよう、この子」
フィリップの腕に身体を預け、目元を腫らして眠りこける、小さなドライアド。
その身の上を聞いた後では、流石のフィリップも「じゃあ僕はこれで。頑張って生きてね」と放り出すことは出来なかった。
それは非人間的だという思考が少しも無かったと言えば嘘になる。
だがそれ以上に、彼女を放っておけないという気持ちと、邪神被害の生還者である彼女に対する同情があった。
契約。
その単語が頭を過る。
ポケットには事前に準備した血液瓶がある。だがおそらく、フィリップの魔力量では精霊相手に契約は結べない。
ルキアとステラに頼るのは最後の手段だ。
彼女を助けたいのはフィリップの我儘なのだから、ここはフィリップが負債を背負うべきだろう。具体的には、連れ帰ってナイ教授に智慧を借りる。しこたま煽られるだろうが必要経費だ。
「よし──ッ!?」
覚悟を決めて、腰を下ろしていた岩から立ち上がった、その瞬間だった。
身体が横向きに潰れた。
まず目が押し込まれて視界が白くぼやける。次に舌が喉奥に向かって押し込まれ、同時に肺も圧迫されて息が詰まる。内臓に負荷がかかり、吐き気が込み上げてくる。全身の肉が圧搾されて血が噴き出しそうだ。脳が押されて、思考が、途切れ──
「──、ァ」
「うぎゅ……」
シルヴァを抱き締める腕に力が籠り、声が漏れる。
目を覚ましたシルヴァは不思議そうにこちらを見上げていて、苦しげな様子はない。
よかった、と安堵の息を吐きたいところだが、それどころではない。
そもそも呼吸ができていない。
森の奥から殺到し、鳥や虫たちを一斉に飛び立たせた不可視の圧力は、実時間にしてほんの1秒か2秒で、数十秒もの体感時間を錯覚させる強烈なものだった。
「は、ァ──はぁ、はぁ……」
シルヴァを地面に立たせ、フィリップは勢いよく片膝を突いて息を荒げる。
今のは、神威──では、ない。
神格に特有の気配なら、フィリップはこの上ないほどに特上の味を知っている。
「ふぃりっぷ、だいじょうぶ?」
「はぁ、はぁ……うん、大丈夫。今の、分かった?」
問いに、シルヴァは「うん」と大きく頷く。
「いまの、まりょく。まじゅつになるまえの、じゅんすいなまりょく」
「……なるほど、どうりで」
通りで、似た感覚に覚えがあったはずだ。
今のは、ルキアが怒ったときに感じるプレッシャーによく似ていた。
フィリップは幸いにして、今のところ、彼女に怒りを向けられたことはないが、隣で感じたことは何度かある。
その記憶に照らすと、
「ルキア以上の魔力量? 冗談キツいな……」
本当に神威が無かったのか、希薄過ぎて感じ取れなかったのか、定かでは無くなってくる。人間でないことは確かだろうが。
苦い笑いを浮かべたフィリップの耳に、ばん、と爆発音が届く。
音を頼りに空を見上げると、かなり遠くの空に林冠越しにも眩い赤い光が灯っていた。
魔術による信号弾。ステラのものだろう。
赤は確か──即時撤退。
「シルヴァ、森を出よう。なるべく早い方がいいんだけど、ルート分かる?」
「ん!」
フィリップはまだ気分が悪いが、シルヴァはけろりとしている。
大方、魔術耐性や魔力抵抗力のような、フィリップには無いといっていい力が原因だろう。
先導役がいるのなら、方位磁石片手にうろうろする必要はない。さっさと森を抜けて、ルキアとステラと合流しよう。
相手が何なのかは判然としていないが、邪神やそれに連なるものではないのなら、フィリップが無理をする必要はないのだから。
「こっち!」
さっきのように手を引かれて、足場の悪い森をひた走る。
隆起した木の根を飛び越え、尖った葉のついた枝をくぐり抜け、泥濘を突っ切ろうとするシルヴァに引かれてスキー気分を味わい、獣道を有難く使わせて貰う。
そして、ふと、その音に気が付いた。
たたん、たたたん、たたん、と、明らかに人間ではない足音だ。
背後から凄まじい勢いで近付いてくるそれは、どうやらフィリップたちを狙っているらしい。
「ふぃりっぷ、てき、くる!」
「みたいだね!」
脳裏に浮かんだ、このまま走って逃げ切れるか、という疑問を笑い飛ばす。
相手は四足獣、くぐもった足音からすると肉球のあるヤツだ。音感覚に自信は無いが、まだそれなりの距離があるような気もする。
足音を軽減する肉球ありきで、この距離でこの速度、そしてこの足音の大きさ。
直感だが、狼の大きさではないだろう。中型の熊か?
「シルヴァ! 開けたところに行こう! ここじゃ戦い辛い!」
「ひらけた?」
「あー……木が少なくて広い場所!」
「わかった!」
元気なお返事に続き、ぐい、と手を引いて方向転換。
つんのめるようにして後を追うと、希望通り、いやそれ以上の広場があった。
足場は柔らかく踏み締めにくい土ではなく、岩の上に薄く土が乗っただけの、ほぼ岩盤だ。地表を覆うコケも乾いたタイプのものが多く、ぬるりと滑る心配はない。
何が出ても、とはいかないが、多少強い魔物くらいなら十分に戦える地形といえる。
「来る──!」
「……くる!」
足音一つが、たん、ではなく、どん、と響いて聞こえるほど近付いている。
シルヴァに下がるように手振りで示し、ウルミを抜く。左手は魔術照準用に、足音の方へ向けておく。
鬼が出るか蛇が出るか。
四足歩行の獣だとしたら熊だろう。魔物の知識は無いが、大型狼のダイアウルフやムーンウルフなんかだと、群れのボスは熊サイズだと何かで読んだ。
魔術耐性の低い獣でありますように、と宛ても無く祈り──遂に、追手がその姿を見せた。
フィリップたちが立ち止まったことに気付いたか、疾走を止めゆっくりと木立の中から進み出る、四足歩行の魔物。
「──?」
一見しただけでは、それがどんな魔物なのか分からなかった。
全身を影のような靄に覆われ、シルエットの全容が判然としない。
それでいて、相手が自分をどうやって殺すのかを見せつけるためか、太くしなやかな四肢と尖鋭な爪、唸り声を上げる強靭な顎と鋭い牙だけは見て取れた。
狼にしては大きく、熊にしては小さいどっちつかずなサイズ。だが人間一人を押し倒すには十分な重量があるだろう。
「…………」
剥き出しの牙と真っ赤な双眸から目が離せない。
少しでも余所見をすれば、喉元を食い千切られる確信がある。──神格招来の呪文をのんびり唱えている暇は無さそうだ。
「しゃどううるふ」
「シャドウウルフ? ……そんなの、この森にいるの? ──っと!」
跳びかかってこようとしたシャドウウルフを、ウルミを叩き付けて牽制する。
直撃せずとも、音速を超え衝撃波を起こす先端部分は脅威に映るのだろう、影に覆われた狼は獣らしく、半身を切るような下がり方をした。
地面を打ったウルミは土を跳ね飛ばし、岩肌に擦れて火花を散らす。
意外と魔物に詳しいらしいシルヴァは、フィリップの問いに首を振り、
「ちがう、もりのまものじゃない。きゅうけつきのけんぞく」
と、帰りたくなるような
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