第171話
沼といってもまちまちだが、泥の密度次第では人間の方が比重が軽く、沈まないこともあるという。
フィリップが腰まで浸かったこの沼もそうなのか、或いは圧迫感と生温さだけが伝わってくる足は底に付いているのか、とにかくこれ以上沼に呑まれることは無さそうだ。
「……やばい」
しかし、安心はできない。
そういう場合は溺死ではなく、死ぬまで放置されて衰弱死か餓死するのだ。
とりあえず歩いて岸まで──無理だ。泥が重すぎて、腰から下はびくともしない。
適当な木にウルミを引っかけて、身体の方を引っ張る──無理だ。普通の鞭ならともかく、
これは──
「詰んだかもしれない」
着地の衝撃で泥の跳ねた顔で、これまでになく爽やかな笑顔を浮かべるフィリップ。
森は広く、また土や木々の枝葉が音を吸う。
大声で叫んでも、ルキアやステラ、先行した他の生徒たちが気付く可能性は低い。
残る選択肢は二つ。
一つ、諦めて衰弱死する。
これは、ない。こんなところで、こんな惨めな死に方をしたら、その後ナイアーラトテップにどれだけ煽られるか。
一つ、やっぱり自力での脱出は諦めて、ハスターを呼ぶ。
これしか、ない。名状しがたきもの、邪悪の貴公子、ヨグ=ソトースの落とし仔には本当に、大変申し訳ないが、羽虫駆除の次は泥掻きをお願いしたい。
幸い、周りは高い木々に囲われていて、ルキアや他の生徒の目に留まる心配は殆ど無い。
誰もいないよね? と最終確認をする。
誰かいれば魔術でちょちょいと助けてくれるはずだが、フィリップは「誰もいないでくれよ」と願っていた。もう完全にハスターを呼ぶ気満々である。
しかし、フィリップの期待に反して、沼の畔には人影があった。
「っ! いつの間に……!? いや、君、は……?」
いつからそこにいたのか。いったいどういう存在なのか。そんな疑問の籠った目のフィリップと同じくらい怪訝そうな顔で、こちらを見ているモノがいる。
一見すると、5歳かそこらの子供だ。
地面にぺたりと座り込んだ小さな体は、胸元と腰周りだけを緑色のセパレートで隠したような、どう見ても森歩き向きではない格好だ。
木の葉のように鮮やかな緑色の髪には目を引かれるが、異質な髪色はマザーとルキアで見慣れている。髪を飾る枝葉で編まれた冠も、森遊びの一環としては理解できる。
だから単なる五歳児ではないことを、一見した時の印象を否定する要素は、そんなことではない。
手足が、異質だった。
初めはブーツと手袋かと誤認したそれは、爪先から膝の下までを覆う木の根と枝葉、指先から肘の辺りまでを覆う鮮やかな苔と小さな花だ。
「──っ」
人外だ。
これが何者なのかは全く分からないが、人外であることは確実だ。
魔物、なのだろうか。
もしそうなら、走れない現状では後手に回った時点で致命的かもしれない。
外神の智慧の中に該当するものが無い時点で、警戒の度合いは大きく下がるが──それでも、今のフィリップは普段以上に脆弱だ。なんせ動けないのだから。
「……しるば」
「……え?」
なんとなく、『萎縮』も『深淵の息』も効かない気がして攻撃できずにいたフィリップは、その声の主を即座には判別できなかった。
きょろきょろと無防備に周りを見渡して、誰もいないことを確認する。
そしてもう一度、沼のすぐ側で座り込んだモノに目を向けると。
「しるば」
「……シルバ?」
鳴き声……いや、独自の言語、だろうか。邪悪言語でないことは確かだと思うのだが。
大陸共通語だとしたら、固有名詞……?
「ううん、しるば」
違う、と言いたげに首を振って繰り返され、フィリップは首を傾げる。
「シルバー?」
銀、或いは銀食器のことか?
こんな森の奥でお目にかかれるものではないと思うが、それを寄越せば助けてやるとかそういう話? フィリップに交渉能力は無いから、妙な条件が付くぐらいならハスターを呼ぶのだが。
「んーん! しるば!」
ちょっと怒ったように首を振って、同じ言葉が繰り返される。
一体何なんだ、と考えること数秒。フィリップの脳裏に模範解答が閃く。
「それは君の名前? それとも僕への命令?」
分からないなら、訊けばいい。
森の中で遭遇したよくわからない相手──明確に自分とは違う種族の相手にどういうアプローチをするかは、そう選択肢の多いことではない。
友好的か、敵対的か。
友好的に接するのなら、安直に挨拶や自己紹介から入るだろう。
敵対的なら、やはり「動くな」とか「武器を捨てろ」とか、その手の警告からだ。
「ん! なまえ、しるば!」
「しるば……シルバー……? あ、シルヴァ?」
舌足らずな発音のせいで、彼女の意図している名前が微妙に伝わりづらい。
なんとなく人名っぽく聞こえるよう、勝手に補正してみると、幼児──シルヴァはにっこりと笑って頷いた。
「僕はフィリップ。フィリップ・カーター。人間だよ。君は……魔物、なの?」
自分で聞いておきながら、違う、という確信めいた直感があった。
その直感は裏切られることなく、シルヴァは「ううん」と首を横に振る。しかし、続く言葉は何処か自信なさげで、聞いているこちらまで不安になるようなか細い声だった。
「ううん。しるばは……どらいあど」
「ドライアド!? へぇ、人前に姿は見せないって聞いてたけど……。いや、それより、助けてくれない?」
どこか落ち込んだような態度のシルヴァには引っかかりを覚え、敢えておどけて見せる。
軽い口調を取り繕うまでもなく、足から沼に突き刺さった状況は半分ギャグなのだが……致死の可能性があると、流石にちょっと笑えない。
「たすける? ふぃりっぷ、あぶない?」
「うん。だから、僕を沼から引き上げて欲しいんだ。魔術でどうにか……方法は任せるよ」
どんな魔術が最適なのか分からず、人間より魔力の扱いに長ける精霊だというシルヴァに丸投げする。
なんで? とか言われたらどうしようという懸念はあったが、シルヴァは「わかった!」と大きな声で返事をくれた。
そして、そのまま、無造作にこちらへ歩き出す。
慌てたのはフィリップだ。沼の水面は、地表によく擬態する。足元も見ずに踏み出したらフィリップのようにドボンと──?
「え?」
沈まない?
シルヴァはどう見ても泥の場所を、ひたひたと湿った足音を立てながら歩いてくる。
木の根や枝葉の這う小さな足は、ほんの僅かにすら水面に沈んでいない。体重が軽いから、という理由では納得できない、不思議な光景だった。
困惑するフィリップのすぐ傍ら、フィリップの腰までを呑み込む深さの場所に来ても、シルヴァは変わらず水面に立っていた。
「……すごいね、ドライアドって」
「……えへへ」
シルヴァはフィリップの困惑交じりの賛辞に嬉しそうに笑うと、脇の下に手を入れてきた。
もしやと思う暇もなく、とんでもない力が上向きにかかる。
「待っ──!?」
そのままイモを引っこ抜くような形で、ずぼ、と引き抜かれ、担がれたまま沼の外へ運ばれる。
当然ながら脇や肩関節は凄まじく痛かったが、折れてはいないようだ。
こちらを気遣うようにゆっくりと、壊れ物を扱うような丁寧さで地面に降ろされるのは悪い気はしないが、もう遅いよと言いたくはなる。
だが、
「ありがとう。本当に助かったよ」
咎める必要も意味も無い。
シルヴァがいなければ、またぞろハスターに「君の視座は」云々と小言を貰うところだった。
それきりシルヴァへの興味を失ったフィリップの次の関心は、表面にべったりと泥を付け、たっぷりと水を吸ったズボンだ。
取り敢えず脱いで、水気を絞って泥を払えばいいだろうか。
欲を言うのなら、川か泉で洗いたいのだが……この森は完全に初見で、全く土地勘が無い。そこまで考えて、フィリップは現地人とも言える存在のことを思い出した。
「ねぇシルヴァ。近くに川とか無いかな? 泉とか」
「んー……みずかがみ……きたないの、だめ?」
「そうだね。綺麗な方がいいかな」
沼を指して言った「みずかがみ」という単語は気になったが、それ以上にびしょびしょになったズボンとパンツが不愉快すぎる。今は知識欲より、服と体を清潔にしたい。
「んー……、ん! かわ、ある! こっち!」
「連れてってくれるの? ありがとう。悪いね、色々と」
フィリップの手を引いてくれる、苔のような、或いは微細な葉のような緑に覆われた手は、小さくてふわふわしていた。
思わず握り締めて満喫──いや、どういう素材なのかを検分したいという欲求に駆られるが、ぐっと我慢だ。
シルヴァは楽しそうに、軽やかな駆け足でぐいぐい進む。
歩幅は小さいが、足場の悪さをものともしていないので、フィリップもそれなりの早足でないと転びそうになる。
しばらく歩いたのち、シルヴァが、
「ここ!」
と示したのは、指一本程度の深さと一歩分程度の幅しかない、本当に小さな川だった。
顔を近付けてよく見てみると、なるほど確かに綺麗な水で、流れもそれなりに速く淀みも無い。飲んでも大丈夫かどうかまでは不明だが、服を洗うだけなら十分だろう。
もう少し水量が多い方が……というのは、無いものねだりか。
ズボンを脱ぎ、水気を絞る。
表面の泥を叩き落として、ズボンを振って、小川に浸けて洗い流す。何度か繰り返すうちに、履いていても砂粒で怪我をすることはない程度に綺麗になった。
「よし、と。……ホントにありがとね、シルヴァ。お礼をしたいところだけど……ドライアドって何を貰ったら嬉しいの? 魔力とか?」
「え、いらない……。しるば、まりょくつかえない」
「そうなの? 精霊は人間以上に魔術に長けてるって聞いてたんだけど」
まあフィリップの魔力なんて、ルキアやステラが海のようなものだとしたら、この小さな川みたいなものだ。何ならコップ一杯の水ぐらいかもしれない。貰って嬉しいお手頃サイズにも少し足りないという点を考えると、コップの四分の一くらいか?
自嘲はほどほどにして、何かできることはないかと考える。
シルヴァは命の恩人──とまではいかないが、フィリップを助けてくれたことには変わりない。それに、ドライアドに会うなんて初めてのことで、少しばかりテンションがおかしい。
精霊は基本的に、人間の前に姿を見せない。理由は知らないが、人間のことを見下しているのだろうというのが通説だ。
フィリップもこれまでに会ったことはないが、その存在は冒険譚や御伽噺の中ではポピュラーだ。森の管理者ドライアド、泉に住まうウンディーネ、エトセトラ。勇者に手を貸し、悪人を罰する超常的存在の話を、何度も何度も読んできた。
だからだろうか。
予期せず有名人に会ったような焦りと興奮で、頭がマトモに働かない。
人間代表として恥ずかしくない対応をしなければ! などと考えている。
「うーん……。えっと、ご両親はどこ? ドライアドの生態に詳しくないから、変な質問だったらごめんね」
「……しるば、おやいない。あざれあたちにはいたけど、みんないなくなった」
「……えーっと?」
舌足らずな言葉という理由を差し引いても、今一つ内容を理解しかねた。
彼女の親は事故か何かで死んでしまったのだろうという推論は立つが、「みんないなくなった」? みんなって誰だ?
他のドライアドのことだとしたら、そりゃあもうとんでもない大事件だから……他のドライアドにも親はいない、とか? ドライアドは一定の年齢になると消滅する性質がある、とかだろうか。
精霊はみんな若く見目麗しい女性の姿だというし、異質な身体を加味しても可愛らしい容姿のシルヴァを見れば、その言説は真実だと分かる。
だが、ドライアドは樹木の精霊だ。
木は成長し、老い、枯れる。龍種のように「成長しかしない」存在でもなければ、天使や神格のような「生まれたままの姿である」存在でもない。
「ま、まさか老いて美しくなくなったドライアドは、仲間の手によって殺されるとか……?」
「……? ころされるって、なに?」
……違うみたいだ。
シルヴァの反応は少し不思議だが、冒険譚や御伽噺で培われた「美しい妖精たち」の幻想が崩れなかったのは喜ばしい。
「いや、気にしないで。えっと、他のドライアドは何処にいるの? 君一人ってことはないよね?」
森には木々の数だけドライアドがいると聞いた。
夜には眠り、昼に活動する彼女たちは、ちょうど今頃には最も活発になるはずなのだが。
「……? だから、みんないなくなった。みんな……あざれあも、しれねーも、こりありあも、いちょうのおばあちゃんも、みんな。どろどろ、べちゃって。……あはは!」
「っ!?」
場違いに明るく、朗らかな笑い声に、フィリップは思わずびくりと身体を強張らせる。
どう考えても笑うところでは無かったし、何より、シルヴァの表情は今にも泣き出しそうなほどの悲哀に歪んでいる。
「……ど、どうしたの? ドライアド的には、笑うところだった……?」
人間とドライアドでは感情表現の方法が違う、のだろうか。或いは「どろどろ、べちゃ」で「いなくなる」のは、ドライアド的には楽しい、喜ばしいこととか?
「えっと、違ったら申し訳ないんだけど、君以外のドライアドは、その……全員、死んだの?」
「……う、」
しまった、と。フィリップは自分の失言を、考えの足りなさを痛烈に自覚した。
シルヴァの目に溜まっていた涙は限界を迎え、頬を伝って地面へと滴る。
嗚咽は押し殺した泣き声に変わり、やがては押し殺すこともできない激情の発露となった。
「ご、ごめん! 泣かせるつもりは──」
無かった、と言い切ることは出来なかった。
ただしフィリップの心情云々ではなく、物理的理由からだ。
「──!!」
泣き叫びながら抱き着いてきた──飛びついてきたシルヴァの頭が、枝葉で編まれた冠ごと鳩尾に突き刺さった。
呼気が漏れて、息が吸えない。
しかし──自分の胸に縋り付いて泣きじゃくる小さな女の子を払いのけることは、いくらフィリップでも出来なかった。
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