第170話
人間に比べて非力と呼ばれる精霊種でも、200年生きたドライアドともなれば、筋力もそれなりに成長する。
老婦人の外見からは想像もつかないが、少なくとも常日頃から剣や槍を振る騎士を上回るだけの握力があった。
その手に喉元を掴まれて、シルヴァには一片の痛痒も無い。
骨をも砕く握力は肉を僅かに撓ませるだけ。気道と血管への圧迫は肉の身体を持たない精霊には無意味。精霊を傷付ける鉄の籠手や
だがそんなことには気付かないように、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、イチョウの老婦人は圧搾を続ける。
「おばあちゃん……?」
シルヴァは不思議そうな声を上げるが、老婦人は穏やかな笑顔のまま、
「私ね、思ったのよ」
と、脈絡のない話を始めた。
「どうしてかは思い出せないのだけど、ふと思ったの。殺さなくちゃ、って。誰を、どうやって、いつ、どこで殺せばいいのかも分からなかったけど、とにかく殺さなくちゃいけないことだけは分かったわ。それでね、ずっとシルヴァちゃんを待ってたのよ」
「ころす……?」
分からない。
シルヴァには「殺す」という言葉が指す行為、その目的である「死ぬ」という現象、そして老婦人がその行為に及ぶ理由の全てが分からない。
けれど──彼女だけは、何があっても
そのことが無性に楽しかった。
「あはは!」
反射的に溢れかけた涙を堪え、いつものように笑顔を浮かべる。
だって、シルヴァは
この胸を刺すような感情は、自然と涙が零れてしまうような情動は、今すぐにこの場から逃げ出して、泣き叫びたくなるような衝動は、『楽しい』という感情なのだと。『楽しい』ときは、笑うものなのだと。
友達と遊んでいるときも、大人たちに突き飛ばされたときも、みんながシルヴァを「出来損ない」と呼んで蔑むときも、シルヴァはずっと楽しかった。
「あははは!」
笑う。
楽しいときは笑うのが普通なはずだから。
ドライアドはみんなおかしくなって、この森でただ一人優しかった人もおかしくなって、みんなが向けるような
なんて、なんて楽しい。
「だから、ね? シルヴァちゃん。死──」
ばしゃり、と。
何の前触れもなく、イチョウの老婦人が液状化して床に広がる。
持ち上げられていたシルヴァはどさりと床に落ちて、眼前に──否、裏層樹界全域に広がる異常事態について考えることもなく、ただ茫然と放心していた。
シルヴァが泣きながら笑っていたとき、祠の傍では斃れ伏していた一人のドライアド──ホーソンが意識を取り戻し、懸命に地面を這いずって移動していた。
周囲にはもう、誰も残っていない。代わりに汚い水たまりが三つ、あるだけだ。
集落も同様だ。殺し合いをしていたものも、理性を失くしていたものも、既に死んでいたもの以外の全てが、どろどろの残骸になってぶちまけられた。
ホーソンが生き残ったのは奇跡──では、ない。
これはただの順番だ。
誰から殺すか。そういう順番ではない。
そもそもこれは、誰かの悪意によって故意に作られた地獄ではない。
ドライアドたちに備わった、森に入った者の思考や深層意識、そして記憶を読むという機能。
これは呼吸や心臓の鼓動に近いものだ。耳を塞ごうと目を閉じようと、森へ入った誰かの情報は自動的に流れ込んでくる。
ただ、「どの情報から読み解くか」には個人差がある。
読みやすい直近の記憶から、最も行動に繋がりやすい思考から、思考の根幹となる深層意識から、最も強烈に焼き付いている記憶から。ドライアド個々人の性格や論理によって、まちまちだ。
だから、それが森に一歩立ち入った、その瞬間に。
──ドライアドの全滅は確定していた。
ホーソンは直近の記憶から読むタイプで、その情報を読み解いたとき幸運にも失神したから、まだ生きているだけだ。
こうして這いずっている間にも、ドライアドという精霊種の機能は全自動で情報を解読していく。
思考を、表層意識を、無意識を、なるべくゆっくりと時間をかけて覗いていく。
並んだ扉を一つずつ開けていくような奇妙な感覚だ。
一繋がりの部屋の中には醜悪な怪物がいて、その尾が、身体が、爪が、だんだんと露わになっていく。怪物の
その前に、まだやるべきことがある。
数百年前に祠へと封じられた、封印の宝珠。
その中に閉じ込められた化け物を、決してこの森に解き放ってはならない。
ドライアドが全滅すれば、守護樹が持つ神秘性は半分以下まで落ちるだろう。
その前に──!
「砕く──!」
ホーソンは全身全霊を懸けて、自身の本体であるサンザシの木に命令を下した。
「《セイクリッド・ブランチ・スピア》!」
サンザシの枝が急成長する。
それは裏層樹界ではなく、
だが正確な投影だ。こちらからでも、的と砲台の位置は把握できる。ならば、あとは撃ち抜くだけ!
サンザシの枝は聖別され、宝珠を貫き砕く槍と化す。そして人間の頭蓋をも貫通するような速度で伸び──こん、と、宝珠の表面を突いて、終わった。
「はっ──」
駄目だったと笑う。
やはり、と頭に付けてもいい、予想された結果だ。
この宝珠は中に封じたものの強大さ故に、ドライアドでは手の出しようがないほどに硬い。だからこそ、封じた怪物を殺すのに、聖痕者の手を借りようとしたのだが……もう、遅いか。
最後の扉、怪物の顎に通じる終着点に至る。
ばしゃり、と。
数万本の木々を擁し、それと同じ数のドライアドが生きていた裏層樹界。その最後の一人だったホーソンも存在の核が破壊され、どろどろに崩れた。
ほんの数分。
それが森を訪れてから十分経ったかどうかという短時間で、ドライアドは全滅した。
一人の例外も無く。
当然だ。
外神に与えられた邪悪な知識だけなら。つい最近見た旧支配者の威容ならぬ異容だけなら。地下祭祀場で見た外神の姿だけなら。まだ、幸運の介在する余地はあったかもしれない。
だが、彼の存在の前では、運の要素は存在し得ない。
それは神そのものでありながら、神の否定そのもの。赦しも罰も与えない、盲目白痴の最大神格。
幸運も、たとえ奇跡であったとしても、等しく冒涜するもの。
唯一絶対の存在を前に救いなど、奇跡でさえ在り得ない。
◇
気が付くと、シルヴァは
周囲は見覚えのある──具体的にどこかは分からないが──木々に囲まれているが、地面だけは、苔むした岩と柔らかい土の混じった緑色だ。裏層樹界の色とりどりの花畑とは比較にもならない地味な色で、けれどどこか愛おしさも覚える色合いだった。
目の前にはやや大きめの泉がある。
以前に一度だけ
「みずかがみ……」
水鏡。
魔術ではなく純然たる現象であるそれは、森の表層と裏層樹界を繋ぐ門の役割を持っている。
底が見えるほど綺麗に澄んだ泉でありながら、その実、底の無い通路。すぐ近くのようにも、ずっと深くにも見える泉の底は、裏層樹界の水面だ。
その、はずだったのだが。
「……ぇ?」
濁っていく。
透明という言葉が不足に感じるほど澄み切った水が、瞬く間に淀み、濁り、穢れた泥へと変化して、最後には粘った泥に満たされた沼へと変貌した。
「……ぅ」
シルヴァに自分の意思で水鏡を通った記憶はない。
その主観と目の前の光景から、何となく想像は付いた。
ドライアドの全滅を以て、裏層樹界は完全に消滅したのだ。その入り口は潰れ、中にはもう誰もいない。ドライアドはもう、誰も残っていない。
つまり、本当に、ドライアドだけでなく世界にとってすら、シルヴァは
あぁ、それはなんて──楽しいことだろうか。
「うぅ……」
楽しいなら笑わなくては。
そうしないと、みんなが怖がってしまうから。
みんな──なんて、もういないのか。誰も、残っていないのか。
シルヴァにとって、あの楽園じみた花の世界は、その末路にも等しい地獄ではあったけれど──それでも、たった一人、大切な、やさしいひとのいる世界だったのに。
嗚咽が漏れそうになった、その瞬間だった。
たったったっ、と軽快な足音が、木々の間を縫って届く。
無警戒に──警戒するということを知らないシルヴァは、ただ反射のように音のした方に顔を向けた。
足音は徐々に、かなりの速度で近付いてきている。
逃げもせず、隠れもせず、ただ漫然とそれを聞いていたシルヴァの前に現れたのは。
「──ッ!」
地面を滑る蛇のようにも、低空を舞う燕のようにも見える不思議な姿勢で、長い鉄の鞭を尾のように引いて走る、金髪の少年だった。
背後に蜘蛛型の魔物を引き連れた彼は、シルヴァに気付かないままその前を横切り、跳躍する。
踏み切る力と、身体操作、そして体重移動を用いた全力の姿勢制御によって空中で回転し、手にした鉄鞭を振るう。
音速を超えた先端部は空気すら裂く刃と化し、少年に飛びかかった蜘蛛を見事に両断する。
そして少年はそのまま、
「──わぷっ!?」
綺麗に両足を揃えて、沼の真ん中辺りに突き刺さった。
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