第169話

 フィリップ一人とルキア、ステラの二人に分かれて行動し始めてから、およそ三十分。


 「……賑やかだな」

 「……そうね。飼い慣らされた馬より野生動物の方が感覚が鋭いのは、当たり前と言えば当たり前だけれど」


 ルキアとステラは、大移動してきたと思しきリスや野兎を、既に何十匹と見つけていた。


 小動物とはいえ、移動すれば音がする。

 木々の枝葉が不自然に動き、擦れ、小さな爪が樹皮や土を掻く音だ。一匹だけなら聞き取ることも難しいようなその音が、何十と重なって森を騒がせていた。


 賑やか、と言っていいだろう。森の静けさは木々や枝葉が音を吸い、遠くへ伝播させないが故だ。音の只中にあると、それなりに五月蠅い。 

 恐慌状態だったのか、足元に突撃してきたイノシシを消し炭に変え、光の杭で縫い留めたことも一度や二度ではない。


 「でも狼はいないわね。夜行性なのかしら?」

 「かもな。或いは、もう少し奥の方に逃げているのか」


 騒がしいが、おかげでルキアに恐怖は無い。

 あの森に広がっていた冒涜と死の香り、何者をも、音ですら逃がさないように大口を開けた闇の気配は、ここにはない。


 それに、ステラがいる。

 戦闘センスでは自分をも超える、同格の魔術師が一緒だ。もう一度あの黒山羊が出て来ても、どうにかできるだけの力も付けた。今度は勝って見せる。


 フィリップも、同じ森の中にいる。

 もう二度と無様は見せない。シュブ=ニグラス神にも、神官様にも胸を張って「フィリップを守ったのだ」と言えるような、美しい戦いを魅せるのだ。


 「居ないに越したことはないのだけれどね。……黒山羊の話よ」

 「あぁ、例の。どういう奴なんだ?」


 ──と、のんびりとした時間を過ごしていた二人とは違い、フィリップは。


 「詰んだかもしれない」


 腰から下を泥沼に浸し、それはそれは言い表しようもないほどに爽やかな諦観の笑みを浮かべて放心していた。




 ◇




 その日も、シルヴァはイチョウの老婦人の声で目を覚ました。


 「シルヴァちゃん、もう朝よ。おはよう」

 「ん、おはよう、いちょうのおばあちゃん」


 いつものように挨拶をして、いつものようにツリーハウスを出る。

 飛び降りて、花畑を駆け、いつもの広場で“友達”と合流する。


 「今日は宿無しが二番ね! あ、シレネー! おっそーい!」

 「わぁ、二人とも早いねー! でも三番ー!」


 少し待ってコリアリアも揃うと、いつものように「今日は何して遊ぶ会議」が始まった。

 シルヴァを延々と走り回らせる?鬼ごっこ? 他のドライアドに怒られるシルヴァを遠くから眺める? シルヴァに犬の真似をさせる?おままごと?


 いやいや、今日はもっと過激な気分だ。久しぶりに、あれをやろう。


 「今日は的当て! 宿無しが的ね!」

 「ん! しるば、まと!」


 楽しそうに返事をして駆け出したシルヴァを追って、三人も駆け出す。


 「《シード・バレット》!」

 「《エア・バレット》!」

 「《ブルーム・カッター》!」


 硬い種の弾雨を、圧縮空気の弾丸を、舞い散る花弁の刃を避けながら、きゃあきゃあと楽しそうに笑うシルヴァ。

 運動性能は丸きり子供のそれだ。だが、的そのものが矮躯では、思うように当たらない。何より、当たったところで何の痛痒も無いように、けろりとして──むしろ楽しそうにはしゃいで走り続ける。


 シルヴァを追う子供たちも、楽しそうに笑っている。

 それは何とも陽気で奔放で無邪気な、親たち大人の見様見真似だった。


 「楽しいね! 宿無し!」

 「ん! しるば、たのしい!」


 曇りない笑顔のアザレアの言葉に、シルヴァも全く同じ満面の笑みを浮かべて答える。


 攻撃を受けて、攻撃を避けて、攻撃を受けて、ただ走り続ける。

 それがこの的当てという遊びの中で、「的」であるシルヴァに与えられた役割なのだから。


 集落の大人たちは魔術を撃ちながら走り回る子供たちを迷惑そうに見ていたが、その標的を見ても「あぁまたか」と仕方なさそうに苦笑するだけだ。


 止めようともしない、いやそれ以前に、止めるべき行為であるという認識が無い。


 だって、あれは出来損ないだ。

 どうして存在しているのかも分からない奇妙で不気味な存在で、人間の心すら読めない欠陥品だ。自分たちと同じドライアドだという認識すらない。いや、この裏層樹界にいるということは、ドライアドではあるのだろうけれど。


 だが、ドライアドは木々から生まれる、木々そのものの精霊だ。

 本体である木を持たない宿無しシルヴァは、人間で言えば親も肉体からだも無い子供。だった。


 他者と違う、大多数ではないということは、迫害の種になる。

 絶対的に自分たちとは違う存在だという確信を根に、恐怖という枝葉が伸び、忌避感という花が咲き、排斥と迫害という実を結ぶ。


 それを自覚している者は多くない。

 自覚さえしていない者が、本能的な異物への恐怖感から石を投げる。


 石を投げてみて、痛がれば、或いは打ち殺されてしまったら、その時には悲しもう。「こんなつもりじゃなかった」とか、そんな言い訳を自分と他人に並べ立て、共有して、忘れ去ってしまえる。そんな甘い考えは、すぐに捨てさせられた。


 精霊は発生からの年月が力に比例する。

 もちろん例外はあるが、ドライアドは大多数の精霊の例に漏れず、そういう種だった。


 シルヴァの発生は、ほんの2年前。

 ある時、何の前触れもなく、何の依り代も楔も母体もなく、ただ唐突に発生した。


 昨日もシルヴァを攻撃したホーソンは、発生から25年。他にも発生から30年以上150年以下の大人たちの攻撃を受けて、シルヴァの肌には傷一つ付かなかった。


 シルヴァが異物と認められた、決定的な瞬間だった。


 「こら、宿無し! あんた、また入ってきたの!?」

 「ん!? ごめんなさい、とねりこ。わざとじゃない」


 痛くも痒くもない攻撃を避け、受け、また避けながら走っていると、呆れたような怒声が耳に刺さった。


 いつの間にか禁域に入っていたようで、斜め前方には例の祠と、それを守る四本の守護樹が見える。

 振り返っても誰もいない。何の痛痒も無い攻撃だから、それが止んだことにも気付けなかったようだ。


 「あー、もう! ねぇ、ホーソン! なんか柵とか作れないわけ!? この根無しが二度と入ってこれないような、ちゃんとしたやつ!」

 「それだと、枝葉の結界の効果が薄れるよ。柵なんてこれ見よがしな目印だし、「この奥に何かありますよ」って言っているようなものだ」

 「とねりこ、まえもおなじこといってた」


 あぁん!? と高い声で恫喝しながら、肩を怒らせたトネリコが姿を見せる。

 守護樹であるセイヨウトネリコ本体の傍で、祠を守るような位置に立った彼女は、苛立ちを抑えるように深呼吸した。


 感情を抑えるなんて珍しい、とホーソンは片眉を上げ、


 「さっさと出て行きなさい。《ランドスライド》!」


 ドッッッ! と、凄まじい轟音と共に花畑を捲り上げ、シルヴァの矮躯を吹き飛ばしたトネリコの魔術に苦笑した。


 裏層樹界で何をしようと、表層の物理世界に影響は無い。

 どころか、ほんの数秒で物理世界と同じ形に修復される。腐葉土や柔らかな土の層どころか下層の粘土質までもが見えるほどに抉れた地面は元通りに均され、その表面を色とりどりの花々が覆う。


 数十メートルは吹き飛び、木々の間に姿を消したシルヴァだが、数分もすると軽快に走って帰ってきた。

 当然のように無傷なのは、もはや驚く要素ではない。


 シルヴァには純粋な運動量でしか影響を与えられないことは、初めの一年で理解した。

 ドライアドの非力さでは、殴る蹴るの暴力に意味がないのは予想できた。種族的に耐性のある水属性、土属性、風属性の魔術にも難なく耐えた。種族的弱点である火属性にも、特に痛痒を感じていないようだった。


 ただ、体重の軽さだけはどうしようもないのだろう。

 攻撃が重ければ重いほど、その矮躯は軽々と宙を舞う。その後に何事も無かったかのように立ち上がる様が、より一層の異物感を催させるのだ。

 

 「こりありあ、みた?」

 「……見てないわよ」


 それを聞くために戻ってきたのだろう。

 さっさと失せろとばかりに、トネリコは簡潔に答える。そもそもこの結界は、シルヴァ以外の誰にも破られたことはないのだ。もうこれ以上、それもたかだか下草の齢、発生から10年以下の幼体に破られてたまるか。


 「しれねーは?」

 「……見てない」

 「あざれあは?」

 「あのねぇ! あんた以外の誰が! 今までここに来たことがあんのよ! 考えてモノ言いなさいよ!」


 うがー! と手を挙げて威嚇するトネリコ。

 シルヴァは楽しそうにきゃあきゃあと笑いながら駆け回る。


 「あー、キレそう!」

 「さっきキレてたけどね。土属性上級魔術まで使って……」


 あぁん!? と、またトネリコの威嚇が飛ぶ。おっと失礼、と肩を竦めるホーソンの表情は揶揄うような微笑だ。

 トネリコが怒り、ホーソンが受け流す、いつもの光景だが──今日ばかりは、そんな日常風景を再演している暇はない。


 「二人とも、最終確認するわよ。こっちに来なさい」

 「今日は聖痕者様がいらっしゃる日なのですから、いい加減に結論を出しませんと。……あぁ、もう学生たちが森に入ってきましたね」


 新たに姿を見せた二人の守護者たちも揃って、四人のドライアドは同じ方向に目を向ける。侵入者のやってきた方向だ。

 

 目を凝らすまでもない。

 人間という乱雑で整然とした思考を持つ生物の、あらゆる感情、あらゆる計画、あらゆる記憶に深層意識。その全てがドライアドには手に取るように分かる。


 まだ眠い、帰りたいといった表層的な感情に混じる、数滴の性欲。

 魔物に向けられたそれに、彼女たちは一斉に嫌悪感を露わにした。


 「気色の悪いソドミストが……いえ、ソドミーという認識さえないの? なんて愚劣な……」


 ごく一部の生徒の深層意識までも仔細に読み取って、ドライアドたちは嘲笑う。

 本当に人間は救いようのない生き物だと。だが、まあ、それだけだ。森を穢し侵す意図を持った人間は一人もいない。


 ならば、ドライアドは森の管理者として、彼らに厳罰を課す必要はない。


 「そこの根無し、集落に戻りなさい。私たちは今から大事な話をするあーーーーーーーーーーーぁ?」

 「ん! しるば、もどる! ……じゅにふぁー? どうしたのー?」

 

 変化は一瞬で訪れた。

 シルヴァに向かってシッシッと手を払っていた守護者の一人が、虚空を見つめたまま意味の無い音を垂れ流すだけの木偶になった。


 糸の切れた操り人形のように頽れたのは、ポプルスとホーソンの二人。


 残る一人、トネリコの反応が最も過激で、最も不可解だった。

 起こった現象は、擬音にするならたった一言。


 


 トネリコは一言も発さず、ただ恐怖と絶望に染まった顔を最期に浮かべて、どろどろの残骸になって溶け崩れた。


 「……ん?」


 理解不能だった。

 ただでさえ知識が不足しているシルヴァにとって、眼前で繰り広げられた異常事態は、どれ一つとっても理解できない現象の羅列だった。


 よく分からないけれど、ただ「戻れ」と言われたことは覚えていたから、シルヴァは素直に集落の方へと足を向けた。


 集落に広がっていた光景も、また理解できないものだった。


 上級攻撃魔術を撃ち合う殺し合うドライアドたち。

 木々は炎に巻かれ、雷に裂かれ、土礫に穿たれ、瞬く間に表層の姿に修復され、また燃え落ちる。


 ツリーハウスの床から垂れ下がる死骸もの、地面に打ち捨てられた死骸もの、どろどろに溶けた死骸もの

 意味の分からない言葉を羅列する残骸もの、歌い踊り暴れ狂う残骸もの、目に入る全てを攻撃する残骸もの


 「あははは! 宿無しだぁ! あなたもいっしょに遊びましょう? 今日はキャッチボール!」


 真っ赤な花飾りのドライアドが、楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながらボールを投げてくる。


 反射的に受け止めたボールにも、赤い花飾り。

 赤い液体を滴らせる断面。苦痛に歪んだ表情を浮かべる、見覚えのある貌。


 「あざれあ……?」


 白い花飾りを鮮血で染め上げて、シレネーは大きく手を振って笑う。

 さあ、ボールを投げっこしましょ? と、明るい声を上げる顔のパーツは、甚大な恐怖で濁りきった双眸以外、朗らかな笑顔のかたちだった。


 これは、おかしい。

 シルヴァでも分かる、明確な異常。


 何がおかしいのか、何が起こっているのか、何が原因なのか。それは全く分からないが、少なくともシルヴァが経験したことの無い非日常であることだけは確かだった。


 「おばあちゃん……!」


 脳裏を過ったのは、ただ一人のやさしいひと。

 萎れ枯れ始めた花畑の感触に嫌悪感を抱きながら、シルヴァは全速力でイチョウの木へ戻る。


 40メートルもの高さを一息に跳躍してツリーハウスに駆け込むと、いつも通りの穏やかな笑顔が出迎えてくれた。


 「あらお帰り、シルヴァちゃん。集落の方が騒がしいみたいだけど、何があったのか知ってる?」


 あぁ、良かった。と、シルヴァはほっと息を吐いてへたり込む。


 イチョウの老婦人はあらあらと慈しむように、労わるように笑い、抱擁するように手を伸ばす。


 「無事に帰って来てくれてよかったわ」


 ひょい、と軽く抱き上げられる。

 自分を抱き締める腕の暖かさに、シルヴァは自分でも理由が分からないまま泣きそうになって。


 「あなたは私が殺さなくちゃいけないんだもの」


 首を絞めるように片手で喉を掴まれて、ずどん! と、壁が揺れるほどの勢いでツリーハウスの床に叩き付けられた。






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