第168話
丸一日かけてローレンス伯爵領についた魔術学院生たちは、まずは伯爵家が所有する館で一泊した。
いくら事前調査のされた森とはいえ、それなりに深く、弱いとはいえ獣や魔物がいる。気候の変化なども考慮すると、体調を万全にしておくに越したことはない。
今日は朝から森へ行き、契約する相手を探す予定だ。
宿泊した館の玄関ホールに集合した生徒たちは、出発を今か今かと待っていた。
「はい、えー……、事前に配布した資料の通り、えー……ガーテンの森には」
ローレンス先生は資料に書かれた、森の生態系を説明する。
野兎やリスなどの小動物、狼やイノシシなどの注意すべき中型生物、蛇の目撃例は少数で毒蛇はいないと思われる。
蜂の活動時期はまだ先のため、木のうろや地面の穴に注意すること。
生息している魔物はおそらく五種。
ゴブリン、オーク、ジャイアントスパイダー、キラービー、アルラウネ。
生物であれば、森の中で最も強く、最も契約難易度が高いのは狼。高い知性を持つのもそうだが、何より群れるのが問題だ。一匹と契約している間に群れに襲われると予想される。
魔物は、まぁ、高速で飛び回るキラービーが多少難しいくらいか。
ゴブリンとオークは群れるが、誤差だ。知性が低く、狼のように群れで連携してこない。ただ複数体同時というだけなら、AクラスとBクラスの生徒が後れを取る相手では無い。
特筆すべきは、男子生徒が狙う対象の一極集中だ。
それは勿論、強く、賢く、忠実で、もふもふなもふもふ……狼。ではなく、唯一の中型魔物であるアルラウネだ。
他の小型魔物と比べて一線を画すほど強いわけではない。
アルラウネは大きな植物の魔物で、美しい花を付ける。その花の中には、万人を魅了する美貌と妖艶な肉体を持った女性の形をした、生きた果実があるのだ。
つまり、えっちなお姉さんの魔物ということである。
えっちなお姉さんと契約して使役する。
何とも思春期男子の心と股間をくすぐる、妄想の捗るワードだ。
男子生徒が「資料ならもう十回読んだ」「準備は万端だから早くしろ」と騒ぐのも無理はない。
ちなみにだが、魔物との姦淫は一神教の定めるソドミーという罪に抵触する。バレたら一発で処刑だ。
「えー……では、行動を開始してください。問題が生じたら先生を呼びに来ることと、えー……、日没までには帰ってくるように」
その言葉を待っていた! と、ほぼ全ての男子生徒は目を輝かせて館を飛び出した。
男子サイテー、と冷めた視線を送る女子生徒は、その後をうんざりしたように続く。あまり遅れていくと、
ほぼ全ての男子ということは、例外もいる。
たとえば「いやアルラウネよりキラービーの方が強くね?」と冷静な判断をした者。はたまた「女子の前で性欲剥き出しにするのはちょっと」と最低限の見栄を持っていた者。或いは、
「……僕も魔物を召喚したかったなぁ」
両隣に立つ世界最強の魔術師たちに「魔力量から言って、魔物とは契約できない」とお墨付きを貰った、悲しき生徒とか。
「………………」
「カーター……」
「え、なんですかその顔。何か変なこと言いましたか?」
ルキアとステラが名状しがたい、しかし物言いたげなことだけは分かる表情を浮かべていることに気付いたフィリップは、そう訊ねつつ、自分の言葉を回想する。
そして一つの結論を導き出し──それは正解だった。だったが。
「あ、いや、魔物とセックスしたいワケじゃないですよ」
致命的なまでにデリカシーが欠けていた。
恐るべきは宿屋従業員の精神力と言うべきか、「大変申し訳ありませんが、夜分に大声を上げるのは他のお客様のご迷惑になりますので、ご配慮のほどをよろしくお願いいたします」とか、「〇号室のお客さん、泥酔した女の子連れ込んでましたよ。衛士団呼びます?」とか、「このシーツ処分で。血まで付いてるんで」とか、色々と経験してきた結果だ。
年下の、二次性徴もまだの子供から飛び出したとは思えない冷静な言葉に、二人は顔を赤らめるを通り越して苦笑していた。
「僕はソドミストじゃないので。するなら普通の──」
女の子と、と言おうとして、脳裏に閃くのはマザーの姿。
ない。
それは、それだけはない。そもそも彼女は人間じゃない。
あんなのはソドミーどころの話じゃないし、それなら魔物とやった方がマシだ。少なくとも人外化のリスクは無いし。
「こほん。二人とも、僕の召喚物がどんなものか、概ねは知ってるでしょう? ああいうのは嫌だって話ですよ」
「……そう」
「……そうか。でも、次は言葉を選ぼうな」
なんだか気まずい空気のまま、館を出ればすぐそこに見えるガーテンの森に向かう。
森はそれなりに鬱蒼としているが、地元の森も似たような感じだった。
現地の植生や生き物の気性は違ってくるだろうが、環境だけなら慣れたものだ。ルキアも未経験ではない。
ただ──
「黒山羊が出てきたら、まず森を出る。その後、貴女の『恒星』と私の『明けの明星』で森を消し飛ばす。いいわね、ステラ?」
「最悪の場合は僕が召喚術を使います。二人は無理だと思ったら僕を呼んで、或いは僕が不味いと思ったら指示するので、全力で逃げてください。耳を塞いで、可能なら目も塞いで」
その経験が、二人に警戒を強いる。
成長を続けている今のルキアなら、去年に遭遇した程度の劣等個体は葬れる。単純な戦闘能力だけで考えるなら、ステラにも可能だろう。
だが人類領域外の生命体は、多かれ少なかれ見る者の正気を損なう。
既に一度見て耐性を持っているルキアはともかく、ステラの精神は限界が近いはずだ。言っていて悲しい話だが、フィリップに共感できるくらいなのだから。
もうこれ以上、彼女の精神に負荷を掛けたくはない。
「分かった。いや、正直、何を警戒しているのかは今一つ分からんが、概要の当たりくらいは付く。魔力視も無しだな?」
「そうです。……じゃあ、行きましょう」
森に入り、フィリップはまず手近な木の幹に触れる。
今回は薪拾いでも果実摘みでもないが、迷子防止に木の幹を傷付ける。こういう場合でも、森への感謝を忘れてはいけない。特にフィリップは地元の人間ではないから、ドライアドたちは容赦なく意地悪をしてくるだろう。
礼儀正しい来訪者への歓迎か、風も無いのに林冠部の木の葉が揺れた。
森に入るなり立ち止まったフィリップに、ルキアとステラは怪訝そうな目を向ける。
「何をしているの?」
「え? 森に入るときって、ドライアドに挨拶……しないんですか? 王都の人は」
また文化の違いか、と苦笑するフィリップだが、それは少し違う。
確かに王都と王都外での文明レベルの差は激しく、同一国内ながら文化にも違いが出始めている。だが、これは言うなれば都会と田舎の差だ。
「いや、そもそも森に行かないからな。勝手が分からん」
それは確かに、とフィリップは思わず笑う。
王都に来てから森に入ったことなんて一度も無い。精々が公園の隅にある藪だ。
「でも、ちゃんと長袖に長ズボンで来たんですね。靴も、ちゃんと動きやすいもので」
「ルキアに色々と教わってな」
なるほど、と視線を向けると、ルキアもきちんとヒールの高くない歩き易そうな靴だ。以前はヒール付きブーツのせいで足首を怪我していたし、教訓を活かしている。
「なるほど。では、改めて──」
表情を引き締める。
そうとも。ここからは真面目な話だ。
たとえ黒山羊が出てこようと、ハスターがあれだけ幅広い視座を持っていると分かった今、フィリップは安心して手札を切れる。だから、その懸念はもう置いておいて。
「狼を探しましょう! 全力で! それ以外の魔物は無視して! 襲ってくるなら殺して! もふもふをもふもふするために!」
昔飼っていた、というか、今も家族の一員ではあるが気軽には会えない距離にいる、父の猟犬。
そのもふもふ──もとい、毛並みや仕草の虜になっているフィリップは、もはやどこに出しても恥ずかしくない犬派の鑑だった。
汝、もふもふをモフるべし。かくて汝、心の安寧を得るであろう。
狼ということは、猟犬よりもサイズが大きいのだろう。
つまりもふもふ度合いもまた大きい。ならば、その精神安定作用はルキアの膝枕より、いや、マザーの抱擁よりも素晴らしいに違いない!
あぁ、早く、早く出て来てくれ。
そのもふもふした姿を見せてくれ。
そして契約しよう。
こちらが差し出せる
戦えなんて言わない。ただ、モフらせてくれたらそれでいい。
──と、そんな興奮状態で、出てくる魔物を片端からウルミで撫で斬りにしながら──アルラウネだけは開花する前にルキアとステラが吹き飛ばしていた──、森を進むこと、約二時間。
「待て、一旦止まろう。これは明らかにおかしい」
いつになく好調なフィリップに向けていた苦笑を完全に引っ込めて、真剣な表情でステラが号令をかける。
警戒も露わな双眸を見るまでもなく、二人とも警戒姿勢でそれに従う。彼女はいつだって合理的で、いつだって正しい。そう知っているから。
「魔物にしか遭遇しないのはどういうことだ? 確か、この森の食物連鎖の頂点は狼と梟のはずだな?」
そのはずだ。
基本的に狼は群れで狩りをするから、自分たちより大きなジャイアントスパイダーでも恐れることなく狩り殺す。空を飛ぶキラービーとは互いに不可侵のようだが、そちらは動きの鈍る夜間に梟によって捕食される。
だから、この森で最も傲慢に振る舞い、跳梁し、闊歩しているのは彼らであると思っていたのだが……歩けど歩けど、出会うのは低位の魔物ばかり。
「例の、黒山羊とやらの仕業か?」
「いや、あんなのがいたら魔物だって殺されてると……あっ」
「あっ」ではない。
フィリップは散々──少なくとも平常時に数回、致命的な状況で一回、それを認識しているのだ。しかも“致命的な状況”の方は、まさしくこんな森の中で、だった。
覚えては、いた。
だが、完全に意識の外だった。
「どうしたの? 何か問題?」
「いえ、狼に遭わない理由が分かりました」
しょんぼりと肩を落とし、そういえばそうじゃんと独り言ちるフィリップに、ステラは眉根を寄せる。
危機的状況であるのなら、まず真っ先に情報を共有すべきだ。そして危機的状況でないのなら、警戒を解くために情報を共有すべきである。もしフィリップが自分の家臣なら、即座に叱責している態度だった。
しかし、ステラはすぐに表情を苦笑に変え、頭を振って苛立ちを払う。力み過ぎ、緊張し過ぎだと自嘲しながら。
フィリップは確かにトラブルメーカーだが、誘発する問題全てが邪神絡みという訳ではない。
怖がるのも警戒するのも、まずは問題の全容を把握してからだ。
無言で先を促すと、フィリップはばつが悪そうに頬を掻いて、苦い笑いを浮かべた。
「僕の臭いです。ルキアは知ってるでしょうけど、僕は動物には好かれない……いえ、嫌がられる臭いを纏っているみたいで」
「……愛しき、いえ、星と月の香り、だったかしら?」
別に、“愛しき母の芳香”でも間違ってはいないと思う。ちょっと黒山羊の視点に寄っているが。
正確には、傍にいるシュブ=ニグラスとナイアーラトテップの気配の残滓、残り香のようなものだろう。よく訓練された軍馬でも、鼻先に回るだけで「おいおい勘弁してくれよクッセェな」と言いたげに嘶いて顔を背ける、酷い臭いのようだ。
狼と馬のどちらが臭いに敏感なのか、フィリップは知らない。
なんとなく
概ね、馬は人間の千倍の嗅覚を持つとされるが、狼は人間の一億倍もの嗅覚を誇る。馬と狼を比しても、その差は十万倍。
馬にとっては「鼻先に立つのは止めてくれ」ぐらいの悪臭に感じる気配でも、狼にとっては「風上に立つのは止めてくれ」とか、下手をすれば「森に入るのは止めてくれ」ぐらいの強烈なものかもしれない。
事実として、狼を含むほぼ全ての野生動物は、フィリップから遠ざかるように森の中を移動し、一緒に行動しているルキアとステラ以外の学院生は早々に狙った獣と契約できていた。まぁ、恐慌状態に近い荒れ方で、多少の苦労はしたようだが。
「まぁ、その、はい。邪神に関係する……気配みたいなものが、動物には嗅ぎ分けられるみたいで。馬なんかにも嫌われますし」
にわかには信じ難い言説に、ステラは確認するような視線をルキアに向け──こくり、と神妙な頷きが返される。
「なるほど。……よし、別行動しよう」
「……それが最適解なの?」
ルキアは難色を示すが、フィリップは頷く。
それが最短最速の最適解だろう。
ここの魔物はかなり弱い。
フィリップには肉の身体を持つ相手を一撃で死に至らしめる『萎縮』があるし、刃付きのウルミは人間サイズの大型動物ならともかく、ゴブリン程度なら首の肉の70パーセントを一撃で削ぎ落し、撥ね飛ばすことだってできる。
今のところ神話生物の気配は無いし──フィリップを除いて──ルキアとステラが後れを取るような相手はいないだろう。
「そうだ。私とルキアがペアで、カーターがソロ。カーターが“臭い”で追い立てた狼を私たちが捕獲しておけば、カーター自身も契約できるだろ?」
「……あ、そういう分け方ですか。てっきり三人別々だと思ったんですけど……それが良さそうですね」
一人ずつでも人類最強なのだ。
二人一緒なら、大抵の人外にも勝利できよう。発狂しなければの話だが。
「不味いと思ったら信号魔術を打ち上げる。赤は“森を出ろ”、黄色は“要救助”、黒なら“即時召喚”だ。覚えたか?」
「赤が逃げる、黄色が集合、黒は諦め。オーケーです」
これは王国の狼煙や信号魔術による交信では一般的な区分だ。
赤は撤退、黄色は救援要請、黒は被害甚大。魔術学院生はともかく、教員なら確実に知っている。打ち上げた時点で館から大人がすっ飛んできて、生徒たちを誘導してくれるだろう。
ただ──ステラのように「被害甚大か。では少数の死兵を出し、状況を把握せよ」と、冷酷な判断をできるとは限らない。「みんなで助けに行くぞ!」という判断をされたら最悪なのだが……その場合は、非合理的な判断と、不運を呪って貰おう。
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