第163話
その日はちょうど最終時限が体育で、ルキアとステラは体育館に来るのが遅れていた。
着替えが長引いているのか、寮に戻ってシャワーまでしているのか。どちらでもいいし、フィリップが退屈することはない。
二人が来たらすぐに始められるよう、準備運動をして身体をほぐしたり、素振りをして感覚を整えたり、事前準備を済ませてしまおう。
ルーチン化された動きで筋肉や関節の緊張を取り除き、可動範囲を最大限まで高める。血行を改善すると酸素の循環効率も上がり、バテにくくなる効果もあるのだとか。
まぁ、理論はどうでもいい。
フィリップが準備運動を欠かさずやるのは、ウォードに「脱臼しにくくなるよ!」と言われたからだ。
痛みを教訓とした入念な準備運動を終え、鞄からウルミとベルトを取り出す。
今までの短く、刃も無いモデルならベルトの上に巻いておけば良かったのだが、この本物──名前を付けるべきだろうか──ではそうはいかない。そもそも腰に巻けない長さと太さだし、最悪、抜くときに自分で自分の腰を削ぎ落して戦闘不能になる。
だから同封されていた専用のベルトには、携行用の部品が付いていた。巻いたウルミを佩くための金具と、脚を保護する防具だ。
まずベルトを付け、防具と金具を装着し、細心の注意を払って巻いたウルミを佩く。
問題はここからだ。
まだ戦闘形にも入っていない、移動する時のスタイルになっただけだが、ここからがもう難しい。
戦闘準備完了までには三工程ある。
まずは
抜くときにグリップ以外を握ると、粗く削られた鉄の鞭が掌や指を傷付ける。
次に、ウルミを何度か空振って、
ここでしくじると、敵に向かって振ったウルミが自分に襲い掛かることもある。
そして
独特の姿勢を取る『拍奪』と、全長四メートルという長大なウルミは絶妙に噛み合わせが悪い。少しでも姿勢が狂えばスピードも欺瞞精度も落ちてしまうし、攻撃が自傷に変わる確率も跳ね上がる。
「──ふぅ」
両手を挙げた降伏の姿勢から、真上にコインを爪弾く。
りぃん、と綺麗に澄んだ音を立てているが、森で拾ったよくわからない謎のコインだ。王国で使われている硬貨ではない。
研ぎ澄まされた感覚が、頭より高く飛んでいくコインを把握して──消える。
一部の剣士は、“気配”で自身の周囲数メートル圏内を完全に把握し、死角を潰すことが出来るという。
しかし今のフィリップでは、周囲数十センチの物体すら認識できない。おおまかにこの辺かな、という当たりは付くけれど、そんな大雑把なものは戦闘中には使えない。必要なのは数センチ単位の精密さだ。
認知圏を出たコインが戻ってきて──きん、と、微かな音を立てて落ちる。
「──!」
コインが落ちた音。
その微かな金属音は、直剣が抜かれる鞘の音だ。
一瞬の後には剣が構えられ、最も直線的で最速の攻撃、突きが来る。ウォードなら、そうする。
だからフィリップが選ぶべきは、横移動。位置認識欺瞞は横向き、移動する方とは逆側だ。
ウルミのグリップに手を添え、留め具を外す。
しかし、
「わぁ、ホントだー!」
と、そんな気の抜ける声が、フィリップの集中を搔き乱した。
制御し損ない、暴れる蛇のようにのたうつウルミを何とか取り押さえる。
幸いにして怪我はしなかったが、何事だ?
授業終了直後の一時間は、ステラが正式な手続きを踏んで体育館を借りている。クラブ活動は、その後からの利用になっているはずだが。
怪訝な視線を向けるフィリップには構わず、何人かの女子生徒がわらわらと体育館に入ってくる。
闘技場のようなレイアウトだから、猛獣と剣闘士のように見える──ことはない。どちらかと言えば、鞭を持ったフィリップはサーカスの猛獣使いで、女子生徒たちは壇上に呼ばれた客のようだ。
「放課後に変な武器を振り回してる先輩がいるって噂、ホントなんですねー」
ずかずかと無造作に、グループの先頭を歩く女子生徒が近付いてくる。
フィリップは一先ずウルミを握ったまま、怪訝そうな目を向ける。
わざとらしく首を傾げ、まだ時間ではないはずだがと眉根を寄せてみるも、相手は気にした素振りも無い。
「クラブの人ですか? 時間はまだのはずですけど」
いい感じに、仮想敵の動きまで想像できるほど集中できていたのに。と邪魔されたことへの苛立ちは、内心だけに留め切れていない。
険の籠った声に動じず、女子生徒は上機嫌な足取りでフィリップの前に立つ。
最近少し背が伸びたフィリップより、まだ頭一つ分は高い視点から見下ろして、彼女は薄く紅を引いた口元を嘲笑の形に歪めた。
「ここ、魔術学院ですよね? どうして武器なんて振ってるんですかぁ?」
神経を逆撫でするような甲高い声のバックグラウンドに、彼女以外の生徒が交わす囁きや、くすくすとこれ見よがしな嘲笑が流れる。
普通なら眉を顰めるようなその振る舞いに、フィリップは小さく首を傾げた。
──そもそも、彼女は誰なのだろう、と。
ナイアーラトテップや他の外神の気配は無い。いや、そもそも神威そのものを感じない。
だから彼女は、少なくとも神格に連なるものではないはずだ。
「えっと……どちら様ですか?」
フィリップの問いに、彼女は内心を満たす自信を表すように胸を張る。
「セシル・クラインって言います。1-Aに首席として入学した者です」
「……はぁ、それは、おめでとうございます?」
これまでいたコミュニティ──家族、実家の宿、奉公先、そして魔術学院でも、最年少だったフィリップは基本的に目下の立場にあった。
誰かの先輩になることもあったが、相手は十以上年上なんてことが当たり前で、年下としての振る舞いしかしてこなかった。
だからこういう時、先輩としてどういう言葉をかけたらいいのか、全く分からない。
さて困ったぞ、これで正解だろうかと頭を悩ませるフィリップだが、残念。
セシルがただ魔術学院入学に浮かれて誰かれ構わず話しかけている、ちょっと頭の弱い明朗な少女であれば、それでも良かっただろう。しかし、彼女の性質はもっと陰湿だった。
「その私から言わせて貰うとぉ、武器なんて野蛮なモノ、この学院には合わないと思うんですよねー」
……そうだろうか? そんなことは無いと思うけれど。
学年首位どころか世界屈指の魔術師二人は、それぞれ儀礼剣術と実戦剣術の心得があるし、フィリップが使う『拍奪』だって、元はAクラスだった生徒の見様見真似で始まったものだ。教わったのは軍学校生のソフィーと、それを一時間足らずで習得したステラの支配魔術に、だが。
「先輩、何組の人なんですかぁ? って言うか、先輩ですよね?」
「一応、二年生ではありますけど……特例編入なので、年は11です。クラスは2-Aです」
同じAクラス同士、仲良くしようね。とか、こっちだってAクラスなんだが? とか、そんな擦り寄りや威圧を含まない、淡々とした受け答え。機械的だと気分を害することはあっても、それ以上の感情を催させない態度のはずだ。対酔っ払い・対クレーマー用のマニュアル通りの。
しかし、セシルは不愉快そうに眉根を寄せる。
「へぇ、Aクラス。それって、私よりも強いってコトですかぁ?」
自分の強さに自信があるのだろう、彼女の声は剣呑で、返答次第では攻撃も辞さないと言わんばかりの圧がある。
感情に呼応して高まった魔力は、じわりじわりと空気を侵していく。
それを感じ取る能力はフィリップには無いが、逆に、彼女たちにはフィリップの内側にある貧弱な魔力が読み取れているのだろう。
ひそひそ、くすくす、隠しもしない囁きと嘲笑を交わす女子生徒たちを背に、セシルはにっこりと笑った。
その意味は勿論、威嚇だ。
すり寄りや、冗談の気配は少しも無い、己の不機嫌さを表層に押し出す張り詰めた笑顔を浮かべて、彼女は。
「先輩、模擬戦をしませんか?」
そう、端的に宣戦した。
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