第158話
精神とは擦り減るものだと、慣用句や熟語などから、なんとなくそう捉えられる。
その表現に則るなら、宝石のようなものだとイメージして欲しい。
容姿や種族という多様な違いを持った人それぞれの肉体という器に収められた、人によって異なる宝石。
それは月光のように澄んでいたり、陽光のように輝いていたり、どす黒く濁っていたり、深い傷があったり、千差万別だ。
磨けば光る。汚せば濁る。
ルキアのように、大きく傷ついてなお美しいものもある。ステラのように、傷付いたことを窺わせない強靭なものもある。だが大抵の場合、減ったものは戻らないし、砕けたら終わりだ。
邪神という強烈に精神を蝕む存在に相対して、その宝石は深く傷つき摩耗する。
元の形を大きく損なえば狂気となり、砕けてしまえば石を収める
しかし、そんな状態のものでも利用価値はある。正確には、利用する方法がある、と言うべきか。
フィリップのように、人間性の残滓を他のものに溶かして固めた、精神的な人間モドキとして再利用してもよい。或いは──全く別のモノを容れてもいい。
「私が憑依し、操作する。それで君を目的地へ転送すれば、お役御免かな? 魔王の寵児よ」
「はい。それで──うわっ!?」
フィリップが首肯した次の瞬間には、ハスターの巨躯が支えを失ったように崩れ落ちる。
複雑に絡み合った触手の集合体はその全てが力を失い、軟体のあるがままに地面へぶちまけられ、広がっていく。身長五メートル近い人型を織りなしていた大量の触手が濁流となって襲い掛かり、フィリップは成す術もなく押し流された。
幸いにして、転倒した先にも触手があって打撲には至らなかったし、フィリップの上を流れていく触手もそう多くない。重いが、潰れもしないし溺れもしない程度だ。
もごもごと藻掻くこと数秒、ぴくりとも動かなくなった触手だまりから抜け出したフィリップは、足元のそれを踏み潰しながら元居た場所に戻る。
そう遠くまで流されてもいないし、ラジエルの巨躯はいい目印になる。だだっ広い真っ白な空間でも迷うはずがなかった。
フィリップの体重程度ではぐにゃりと潰れる程度だったハスターの触手だが、触手の津波それ自体に押し潰されたものからは黒い液体が滲み出し、じわじわと地面に染みこんでいる。
それを避けながら、フィリップは吊るされた姿勢のままぐったりと空中に浮かんでいるラジエルに向けて話しかける。
「次からは事前に言ってください。……ハスター? これ、中身はハスターなんですよね?」
憑依すると言っていたし、そのはずだ。
もし違ったらハスターを呼び直して、どういうことだと問い詰めなくてはならない。まさか羽虫と侮った存在の、廃人と化した抜け殻の乗っ取りに失敗したのかと。
訝るフィリップの視線に反応したようなタイミングで、ラジエルの巨躯がびくりと震える。
「ッ!? びっくりしたぁ……」
死んでいると思っていた蝉が急に暴れ出した時の驚き方で飛び上がったフィリップは、ウルミも魔術も構えていなかった。
ラジエルの身体からハスターのものと同質の神威を感じたから──ではなく、単に無警戒なだけだ。
「驚かせないでくださ……い……え?」
はらり、純白の羽が一枚、手元に落ちてくる。
一枚、また一枚と増えていくそれは雪のようで美しくもあったが、少し視線を上げると、そこにあるのは冬の高く澄んだ空のように気持ちの良いものではなく、枯れ木だった。
いや、違う。
一瞬だけ枯れ木と誤認したそれは、骨だ。
輝かしいほどに色艶の良かった、ラジエルの背中に生えた四枚の翼。それらに綺麗に生え揃っていた純白の羽が次々に抜け落ち、舞い落ちていた。
今やげっそりと痩せ衰えた二対の翼は、肉や皮までもがどろりと溶けて滴り、代わりのように背中側から無数の触手に覆われていく。
翼が枯れ終わるのを待つまでもなく、手の、足の、身体の、顔の肉が削げ落ちていき、触手が代わりとなって纏い埋める。
やがて全身の肉が腐り落ち、触手によって代替されると、その表面は擬態する蛸のような極彩色に波打ち、人肌へと外見を変えた。
見るも悍ましいその変態を見届けたフィリップは、口元を苦々しく歪めて首を振る。
気色悪すぎる、もっと見た目をどうにかできないのか──そう文句を付けたいところだが、たぶん無駄だろう。そう諦めて嘆息すれば、催しかけていた吐き気も収まった。
「……あぁ、驚いた」
「こっちの台詞ですよ。何ですか今の……って、訊くまでもないですね」
驚いた、と呟いたのは、中性的ながら若い男性のように聞こえるラジエルの声だった。
しかし、そこにはラジエルがずっと滲ませていた慈愛や尊重の気配がなく、徹底した無感動と、人類への冷笑が微かに透けて見えていた。
ハスターだ。
肉体を再構築した触手を見れば一目瞭然だが、確かにハスターが憑依している。
「そう、憑依だよ。ただ、私の……何と言えばいいのか、疑似精神の圧力に肉体が耐え切れなかったようだね。お陰で慌てて肉体を再構築する羽目になった」
「……それで、僕を転送させられそうですか? えっと……“大罪書庫”ってところに行きたいんですけど」
「分かっているよ、任せて。そちらの少女も一緒にだね?」
やはり、ハスターはフィリップの希望をかなり正確に汲んでくれるようだ。
こう言うと少し失礼かもしれないが、多分、フィリップと価値観が近しいのだろう。片や外神の父を持つ旧支配者、片や外神に守られる人間──上位存在を知る劣等種という点で、二人の立場は共通している。
ラジエルの肉体となったハスターは片手を挙げ、掌をフィリップに向ける。
天使の装いもあって洗礼や祝福、或いは宣告のように神聖な儀式の一幕にも見える動作だが、触手の翼がその印象を台無しにしていた。
「……それは、私以外には抱かない方がいい感想だね。もし感情のままに動くような手合いなら、確実に君を殺そうとするだろうから」
フィリップがこっそりと抱いた共感に気付いたハスターは、呆れたように警告する。
軽く頷いたフィリップの反応を見ようともせず、ハスターは無関心に魔術を行使し、フィリップとフレデリカを転送した。
「さて、唯一神とやらに向けて欺瞞もしておかなければ。魔王の寵児に恨まれるなんて御免被る」
ハスターは誰にともなく、或いはこの場を見ているものたちに宛てた言い訳のように、面倒くさそうに呟いた。
遠退いていた意識と真っ白に染まっていた視界が戻ったとき、フィリップとフレデリカは小さな書斎にいた。
目に入るのは暖炉と、書き物机と、壁の一面を埋める本棚だ。
机の奥には真っ白な世界を切り取る窓があり、赤いカーテンに縁取られている。五歩も歩けば壁に当たるような小さな部屋で、暖炉の炎と天井に吊られた燭台という限られた光源のみでも十分に明るい。
時折ぱちぱちと薪の爆ぜる音を立てる暖炉には、オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れている。
暖かな色の光に照らされた書き物机は、フィリップが見ても分かる高級な木材製だ。黒くて、硬くて、重そうな逸品だ。机上には羽ペンとインクの他には何も載っていない。
そして、壁の一つを埋める形で据えられた本棚には、本や巻物だけでなく、石板や木片といった古めかしい代物も飾られている。整然と並べられているのではなく、額縁やスタンドを使って飾られているのだ。
そのレイアウトもあって、蔵書数はそう多くない。
七段の棚が四つも並んでいるというのに、展示品の数は100を下回るだろう。
「ここは……? さっきの、あの天使は?」
「あ、先輩。ご無事で何よりです」
魔術によって眠らされていたはずのフレデリカだが、気付けば部屋の真ん中でフィリップの隣に立っていた。
不連続な視界に酔ったか、はたまた昏睡魔術の余韻か、フレデリカは頭を振りながら問いかける。
フィリップがでっち上げた「天使と話をして目的地に送ってもらった」という嘘は彼女の耳を滑っていったようで、しばらく無言で考え込んで記憶を漁る。
そして最後の記憶、天使の出現とその暴力的な神威を思い出したらしく、蒼褪めた顔を勢いよくフィリップに向けた。
「か、カーター君! 無事でよかった! あんなにも強大な存在感を放つ天使に立ち向かうなんて驚いたよ! ほんの少ししか理解できなかったけれど、戦っていたのは分かったよ。すごいね!」
「……まあ、はい」
「それで、その天使は? まさか倒した、なんてことは……」
「ないですよ。手も足も出なかったので、説得しました。その結果がここです」
自分で言っていて悲しい話だが、手も足も出なかったのは事実だ。
フィリップの場合はそれでも別なものを出せるので、全くの無抵抗でやられるという意味ではないのだが、魔術もウルミも全く歯が立たなかった。
フレデリカも知識としては天使の強さを知っており、更にはその存在感を肌で感じたからか、フィリップの「勝利」という仮説よりは「説得」という話の方が受け入れられたのだろう。そうなんだ、と軽く頷く。
「じゃあ、ここが……これ、この本や石板が?」
「大罪書庫……“神を冒涜する書物”が収められた場所、だと思います」
ふらふらと本棚に向かうフレデリカの腕を、フィリップは間一髪捕まえることができた。
「待ってください。僕が先に安全を確認します」
「え? あ、あぁ、じゃあ、お願いするよ」
フィリップは1年生だが学年最高のAクラス、フレデリカは2年生だが学年下位のFクラス。魔術適性では比べ物にならない──と、一般的にはそう判断されるからか、フレデリカは素直に一歩、本棚から下がる。また天使が出て来ては堪らないとでも思ったのだろう。
安全を確認すると言っても、フィリップに魔術罠や物理的な仕掛けを見抜く目は無いし、発動したそれに対処する術も持ち合わせていない。
だが、そもそもフィリップが気にしているのはそんなものではない。フィリップの懸念はこの宝探しが始まってから徹頭徹尾、ただ一つだけだ。
本や石板、粘土板や巻物を無作為に幾つか取り出し、中身を確認する。
邪悪言語ではない。
邪神の名前も……ない。知らない固有名詞は幾つもあるが、フィリップに与えられた智慧に合致するものはない。
少なくとも読んだ瞬間に発狂するような、人外が残した魔導書ではなさそうだ。
「……大丈夫みたいです」
「それは良かった。じゃあ早速、と、その前に。……ありがとう、カーター君。キミがいなければ、私はここまで来られなかった」
フレデリカは感慨深くそう言って、きっちりと一礼する。
胸に手を当てる立礼は彼女がよく見せるものだが、これまでに見たどの所作よりも感情が込められていた。
フィリップも達成感や安堵に浸りたいところだが、その表情は暗い。
安堵や解放感、そして期待に満ちた顔で本棚に向かったフレデリカも、内容を確認するごとに表情を曇らせていく。
二人は黙々と本棚に飾られた品々を検分し、互いが確認したものも重ねて調べた。二時間以上をかけて、何度も何度も、繰り返し、見落としは無いか、変わったところは無いかと淡い期待を胸に。
そして遂に、フレデリカは大きく嘆息して、言った。
「──違ったか」
……そう、違った。
ここにあるのは間違いなく人類の記した、人類の歴史、人類の知識だ。人間の精神を汚染するような人類圏外の智慧でも、神の御業とされる死者蘇生について書かれたものでもない。
「……そうですね」
フィリップが手にした石板は、フレデリカによると数百年前のものらしい。
そこに描かれているのは山のような形の神殿とそれを拝む人々の絵だ。注釈のように、フィリップも知らない唯一神以外の神の名前が書かれている。
フレデリカが読んでいる巻物は王国が数百年前に使っていた秘密文書で、国内に存在していたカルト教団を教皇庁が殲滅した旨が記されている。
他にも、色々なものがあった。
王都外の一部地域に暮らす狩猟民族が動物の皮に記した、森と動物を神格化したものについての教典。山と雲を神格化して信仰するカルト教団についての記録。北部地域で神として祀られていた強大な狼の木彫り像。粘土をこねて焼いた女性を模した像。かつて存在した国が信仰していた異教について記された粘土板。太陽を乗せた戦車の絵画。
自然信仰。アニミズム。女性信仰。
唯一神こそ唯一にして絶対の神と定義する一神教とは教えを異にする、かつて存在した異教の歴史だ。
「……神を冒涜する、か。なるほど、面白い言い回しだ」
フレデリカは言葉とは裏腹に、怒りすら湛えた口調で呟く。
ここにあるのは、史料だ。
それはつまり、文化と歴史を全く異にする、異教があったという証明に他ならない。
「人間は集団を形成する動物だが、群体知性ではない。むしろ多様性に富んだ種族と言っていいだろう。……異なる神、異なる信仰が生まれ、根付き、栄えていたなんて、然して驚くべきことじゃない」
フレデリカはフィリップに、或いは自分自身に言い聞かせるように独り言ちる。
読んでいた巻物を、そっと元の場所に戻しながら。
彼女の手は本棚を滑り、一冊の本を取り上げる。
革表紙に綴じられた現代風のものではなく、中身も表紙も羊皮紙製の粗末なものだ。
「ここにあるのは、その異教を、異文化を焼き、そこに生きた人々を虐殺して回った教皇庁の罪業の記録だ。唯一神の神託、天使の降臨まであったらしい」
吐き捨てるように言ったフレデリカにつられ、フィリップも真面目な顔で考え込む。
唯一神が人間の信仰心に寄生している共同幻想──信仰心ありきの存在である以上、ある程度の力を得た時点で他の宗教を駆逐し始めるのは納得がいく。異文化を絶滅させ一神教へと吸収すればするほど、自分の力が強まるのだから。カルト狩り、異教狩りは治安維持という側面を抜きにしても大きな利のある行為だといえる。
だからこそ──その利己的な虐殺行為には納得できない。
そりゃあ、カルトを根絶してくれるというのなら手伝いすら申し出たいくらいだけれど、見る限り、ここに収められた異教はカルトらしくない。
王国には王都と王都外で生活水準の乖離があり、文化にも差がある。誕生日の贈り物なんかは代表例だ。
これは、これらは、言うなればその程度の違いでしかないのに。
誰も傷付けていない。
何も損なっていない。
生きている土地に根差した文化を築き、育て、その中で命を生み、文化を繋ぐ。人間という種が当たり前にしている「生存」をしていただけなのに。
よくもまあこの本たちを指して、冒涜的だ、なんて言えたものだ。
厚顔というか、傲慢というか、腹立たしいを通り越して滑稽ですらある。そして酷く人間的で、矮小だ。
「人の生んだ神だから、当然か」
唯一神もまた、人々の信仰が生んだ神だ。
神としか形容できない強大な力を持って生まれ、結果として信仰されるに至った旧支配者や外なる神とは、在り方が根本的に違う。
だからこそ、信仰を奪うという人間的な行為に及んだのだろう。自分が強くなるために、或いは自分が淘汰されることを恐れて。
「唯一神って、意外と……」
「あぁ、分かるよ。唯一絶対だからといって……いや、唯一絶対であるからこそ、他の信仰を、他の信条を否定するなんて許されない。一神教だって分派があるくせに」
フィリップは呆れたように、小さく呟く。
共感を示すフレデリカの声にも、かなりの怒りが籠っていた。
しかし、フレデリカのそんな反応に、フィリップは首を傾げる。フィリップが呑み込んだ言葉は「
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