第157話

 旧支配者屈指の存在であるハスターと、天使の九つある階級の中で第三位である座天使の長ラジエル。

 人の似姿を象るという点で一致し、それ以外の全てが異なる両者の戦闘は、フィリップが意外に感じる程度には長引いていた。


 時間にして、およそ三十秒といったところか。


 たったの三十秒、と、これまでのフィリップなら軽んじていた数字だが、近接戦闘の心得がある今なら分かる。


 一対一の殺し合いで三十秒。それも圧倒的格上相手にと考えると、これは異常と言っても差し支えない長時間だ。偉業と評しても過言ではない。


 フィリップが本気の──当然ながら殺すつもりという意味では無い──ステラを相手に耐久出来るのは、およそ二秒。これは彼女が威力の弱い初級魔術を更に回避可能な速度に抑え、当たっても痛いで済む威力に抑え、それを視界を埋め尽くすほどの超高密度に多重展開し、射出するのに要する時間である。


 つまり、両者に存在の格差がある場合、弱者は何もできずに負けるのだ。それも一瞬で。


 フィリップには相手の狙いをずらす歩法『拍奪』が、ラジエルには高高度へ逃避するための翼があるが、そんなものは関係ない。一つや二つの武器なんて、大波のように圧倒的な力の前には成す術無く押し流される。

 そう思っていたのだが。


 「……ハスター、手を抜いているんですか?」


 戦闘開始から三十秒。

 ラジエルはその姿が指で摘まめるほどの上空へと飛び上がり、超遠距離から攻撃魔術を雨のように降らせるという戦術を取っている。飛行魔術が人類には再現できない不可能魔術の一つに数えられる以上、これはルキアやステラでも真似のできない戦法だ。


 対して、ハスターは触腕を使って魔術を打ち払うばかりで、殆ど反撃をしない。偶に腕を伸ばしてラジエルを突き刺そうと試みているが、如何せん距離があるから、危なげなく避けられてしまうばかりだ。


 言葉の上では召喚魔術による使役だが、両者の関係性は殆ど対等だ。

 フィリップは呼んだだけ、ハスターは来ただけ。邪神相手に命令を強制するような魔力も意志力も、フィリップにはない。


 だからハスターがフィリップの命令に対して真剣ではないのだと、そう思ったのだが、ハスターは生物的に湿った音を立てながら身体を捩じり伸ばして、頭部を真後ろに向ける。

 顔や目を使って外界を認識しているわけではないということは、その状態でもラジエルの魔術を防御していることから推察できた。


 フィリップの視線の高さまで伸びてきた頭部には、そこが頭部だと分かりやすく示すためだけの仮面が付いている。

 その下もどうせ伽藍洞で、表情というものはない。


 だから感情は声色から推察するしかないのだが、ハスターはずっと一貫して無機質な声だ。


 しかし、今回もまたそうだろうと予期していたフィリップの想像は、あまり良くない意味で裏切られる。


 「魔王の寵児よ。君は少し、視座が高すぎる」


 そう諫めるハスターの声からは、呆れのような感情が汲み取れた。


 「あの程度の存在を敵と認識できないのは分かる。この程度の攻撃に危機感を抱かないのも分かる。私とアレを比べて、私の絶対優位を確信してくれたことは嬉しい。……だが、些か無頓着に過ぎる」


 何が言いたいのかと首を傾げたフィリップに促されるまでもなく、ハスターは続ける。


 「私が神威や権能を解放すれば、一瞬で片付く。それは君の予想、いや知識通りだけれどね……その先を考えるべきだよ。私が存在欺瞞を解除して本気になれば、この羽虫やクトゥルフの眷属が、飛行するポリプや宇宙昆虫のコロニー星を爆破した時のように、後から後からうじゃうじゃと……」

 「気分を害するような喩えは止めてくださいよ。……じゃあ、殺そうともしてないってことですか?」

 「そうとも、君が望んだとおりに、ね」


 ハスターの言に謝意を籠めて頷く。

 フィリップは確かに、ラジエルを何が何でも殺そうとは思っていなかった。むしろ、ハスターが殺す寸前で止めようとすら思っていたくらいだ。この善良なる劣等存在を、「邪魔だから」の一言で払い殺したくはない。


 「それに、私がここを離れて攻撃に出れば、君はともかく、その少女がどうなるか」

 「……あぁ! それは確かに!」


 視座が高すぎる、無頓着。なるほどそれは確かにと、フィリップも納得せざるを得ない指摘だ。


 天使の攻撃には脅威も価値も感じないし、それは外神の視座を持つ者としては正常なことだろう。だが、それはそれとして、天使の攻撃は確かに人間一人を殺すには十分な威力なのだ。

 誰かを背中に庇っているときに忘れて良いことではないが……一緒に居るのがルキアやステラならまた違った、というのは読みが甘いだろうか。


 「魔術で昏睡し、防護魔術を掛けられてはいるようだが、私が本気で戦えば硝子も同然だよ。それとも、君が肉の壁にでもなってみるかい?」

 「そんなことしたって、僕ごと死ぬのが関の山でしょう? どうにかなりませんか?」


 簡単に言ってくれるね、と嘆息するハスター。

 フィリップは「天使如き鎧袖一触だろう」と考えているし、実際、ハスターが権能の全てを解放すれば一瞬で片が付く。


 ただ、その後が問題だ。

 ハスターの存在に気が付いた唯一神は天使の軍勢を以て排除しようと動くだろうし、何より問題なのはクトゥルフだ。まさかフィリップを殺そうとはしてこないだろうが、ハスターとクトゥルフの抗争が始まるだけで、人間社会は容易く崩壊する。


 人間社会を害する魔導書かもしれないモノを探しに来て、人間社会崩壊の引き金を引いていては本末転倒だ。


 「存在欺瞞? は、そのままで。天使は……」

 「先に言っておくが、あれは疲労もしなければ魔力枯渇も無い。加えて空を飛ばれては、権能を封じた私には厄介な相手だよ。負けは無いが、勝ちも遠い」


 天使の攻撃は悉くハスターの触腕に弾き落とされているし、仮面の付いた頭部に直撃したとしても全く無傷だろう。だから、最終的にハスターが敗北するということは無い。

 しかし同時に、ハスターの攻撃も届かないのだ。これで殺せないし、殺されもしない。完全な膠着状態だ。


 「幸いにして、あれはもう半分狂っていて、勝てない相手から逃げるという判断が出来ない。撤退して天国へ情報を持ち帰るという選択はしないだろうさ」

 「なるほど、それは……それ、ホントに幸いですか?」




 ◇




 数百年前のことだ。

 かつて、一人の聖痕者が禁書庫内部に秘密の空間を作り、“神を冒涜する書物”を隠した。


 その際に番人として頼ったのは、学院の規律や禁書庫のギミックなどではなく、「知恵と知識の番人」として信仰される天使ラジエルだった。


 ラジエルはその性質から、その内容如何に関わらず知識を守ってくれる。

 それがカルトの聖典であれ、禁忌にして神聖不可侵たる死者蘇生を可能とするものであれ、人外の書き記した魔導書であれ。


 そして、相手が誰であってもだ。

 カルトだろうと聖人だろうと、知識を、本を焼く意図を持った者は誰であれ阻む。仮令、それが父なる神であったとしても。


 年若いだけの悪人だった学生を殺した。正義感に燃える善良な研究者を殺した。カルトに唆された哀れな学生を殺した。悪魔に魅入られた教師を殺した。教師に化けた悪魔も、中にあるものに気付いた天使なかまも、殺した。

 神の命による神罰執行ではないから、地獄ではなく煉獄での猶予刑とし、来る審判の日に信仰心が有るなら神の国へ迎えられるよう取り計らうくらいの配慮はしたが、それでも、善悪の区別なく人を殺した。それは天使としてあるまじき行為だったが、躊躇はとうの昔に捨て去った。


 ありとあらゆる知識を、ありとあらゆるものから守る。

 それがラジエルの機能であり、行動基準だからだ。正しく「学ぶ」こと以外に知識を使おうとする者に、それらを明け渡すことはない。焚書しようとする者など、以ての外だ。


 だから──


 「私は許容しない! 汝、本を焼くという蛮行を犯さんとする者、邪悪なる異形を使役する者よ! 汝の所業は、決して許されるものではない!」


 ラジエルは叫び、何十度目かになる光の剣を投射する魔術を行使する。

 翼の周囲に展開された六本の剣は、その全てが上級魔術の中でも最上位に近い威力と追尾性能を持つ、対人戦闘であれば切り札となるものだ。それを同時に六つも行使できるのは、人間の中では聖痕者と呼ばれる最上位の存在だけだろう。


 彗星のように光の尾を残し、目視不可能な速度で飛翔する光の剣。

 全く無音で、予備動作も余波も無いそれを、異形の触手は苦も無く打ち払う。


 だが、相手は防御している。

 防御するということは、当たればダメージはあるということ。そしてダメージがあるのなら、いつかは斃せる。


 無尽蔵の魔力を持つ天使は、どれだけ魔術を撃ったところで魔力欠乏にはならない。長期戦になった時点で勝ちは確定だ。


 ラジエルとてそれは承知の上だが、もうこれ以上、あれと同じ空間に居たくない。

 その一心で、生み出した光の剣を撃ち出すのではなく周囲に漂わせ、炎の剣を構える。


 「その悍ましい怪物諸共、汝の罪を処断する!」


 ラジエルは空間を震わせるような気迫と共に、六つの光の剣にも勝る圧倒的な速度を以て突撃を敢行した。


 光の剣が、純白の翼から迸る神威が、幾何学的な美しさを持つ光輪が、そして燃え盛る炎剣が、それぞれ色合いの異なる光跡を描く。


 光を束ね、真っ白な彗星と化したラジエルの一撃は、城壁をさえ水面のように打ち破る。かつて街一つを炎の剣で焼却した四大天使が一、ガブリエルの攻撃にすら匹敵する威力だ。

 ゴエティア72柱の悪魔であろうと、500年を生きた古龍であろうと、回避以外の選択肢を与えない一撃だと自負できる。


 そして──




 ◇




 血迷ったのかと怪訝そうに眉根を寄せるフィリップの眼前で、ぱし、と。

 ハスターの触腕が子供の球遊びのような気楽さで、落下する一条の星を捕えていた。


 「……幸いだったろう? 理性を残していれば、ここまで愚かな突撃はしてくれなかったはずだ」


 手足も胴体も首もどす黒い触手で雁字搦めにされ、それでもなお暴れて藻掻くラジエルだが、ハスターの触腕はびくともしない。

 炎剣は消え、光の剣も消え、炎に巻かれた車輪は砕け散り、魔力も封じられたのか物理的抵抗の気配しか見せない天使は、さながら蜘蛛の巣にかかった蝶だ。


 であるなら、後はゆっくりとを溶かされ、じわじわと死に至るだけだった。




 ◇




 何が起こった?

 ラジエルは意識すら置き去りにするような超加速・超速度の突撃を防御され、白く染まった思考の中で、ただその疑問だけを延々とリフレインしていた。


 何十回もの問いに、答えが返されることは一度もない。


 だが、明白だ。

 城塞であろうと崩すはずの一撃は、皮革製のボールのように無造作に受け止められた。誤解の余地はなく、思考を巡らせるまでもなく、厳然にして明快なる答えは、たったそれだけ。


 十秒近い思考を経て漸くその結論に辿り着いたラジエルは、改めて眼前の異形に目を凝らす。視界に収めるだけで不愉快極まる、悍ましい外見のそれに。


 天使という高次の存在ということもあり、また武闘派というわけではないラジエルには、ハスターを視界に入れた時に起こる身体の異常は未知のものだ。

 たとえば、手足の震え。たとえば、悪寒。たとえば、呼吸の加速。


 それら様々な身体の部位が必死に叫ぶ声を、ラジエルは聞くことができない。なんせ、初めてのことだ。


 ──本能が恐怖と絶望の叫びを上げるなど。


 見ては駄目だ。聞いては駄目だ。触れては駄目だ。考えては駄目だ。感じては駄目だ。

 駄目だ。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ──眼前の存在を認識しては、駄目だ。


 目を閉じて、耳を塞いで、思考を止めろ。 

 

 でなければ、ラジエルという存在の根幹を成すものが、どろどろに溶けて、溶け出して、流れ出て、ぐちゃぐちゃの残骸になってしまう。


 絶叫する本能に気付かないまま、ラジエルは自分を捕まえたハスターの威容ならぬ異容を観察する。

 そりゃあ、そうだ。未知の敵に相対するのなら、まず観察と分析から入るのは鉄則と言える。そういう意味では遅すぎると言ってもいいが、残念ながら、その合理的で理性的な判断は間違いでしかない。


 この場に於ける最適解は、ラジエルに相対した時のフレデリカのように、頭を抱えて蹲ることだ。

 勿論、ハスターは清廉にして高潔たる騎士道の徒というわけではない。無防備だからと言って攻撃を躊躇ったりしないし、何のつもりかと問いかけるほど天使に関心を持ってもいない。だからこそ、ほんの一瞬で、何も見ることなく、何も知ることなく、幸せに死ねる。


 それを選ばなかった時点で、ラジエルの末路はたった一つだ。


 目を凝らすごとに、膨大な情報が頭に流れ込んでくる。

 の魔力を感じるごとに、目で感じる以上の威圧感と神威が押し付けられる。

 一秒考えるごとに、積もり積もったそれらの情報が整理され、理解へと向かっていく。


 そして、ほんの十数秒の後。

 ラジエルは、ふと理解した。

 

 あぁ、眼前のこれは神なのだと。

 であるなら、全ては根底から覆る。


 この世は全て、神がお創りになられ、神のご意思によって存在している。

 光が昼で、闇が夜。上が天で、下が地。全てのものは天より降り、神の似姿たる人々は地上に、神の使いたる天使は天上に生きる。善き行いをせよ、悪しきは罰せよ。相応しき罰以外を与えてはならない。


 神がそう定められたすべてのことが、今ある世界の全てである。

 そう信じていた──いや、信じるという言葉すら不正確なほど、純然たる知識として「知っていた」のに。


 違った。

 今まで信じていたもの、今まで知っていたこと、今までやってきたことの全てが否定される。いや、否定という言葉すら生温い。肯定も否定も善も悪も、判断基準となる何もかもが崩れ去る。


 今立っている地面はどうだ? 背中にある翼は? 与えられた智慧は?

 神がお創りになられたもの、神がお与えになったものは、果たして本当にそうなのか?


 自分のルーツ。世界のルーツ。

 過去と現在と、神のみぞ知るという未来。


 これが神であるのなら父たる神は存在せず被造物である自分もまた存在しない? 神がお創りになられた世界とは欺瞞であり本当は眼前の神たるものの如く悍ましい?


 過去は嘘で、現在は虚構で、未来なんて在りもしない?


 神は、神が、神の、神、神、神神神神神カミ────?


 ばつん、と、意識がブラックアウトする。

 それはラジエルにとってはこの上ない幸いであり、フィリップにとっては羨望の的。そしてこの場に於いては面倒極まる、精神の死だった。

 


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