第156話

 天使の真の姿。

 それは天使が神の御前に並ぶときと、悪魔の軍勢と戦うときだけに見せるものであり、全力の解放と同義であった。


 人間風情に、それも戦闘能力に欠ける子供相手には過剰に過ぎるそれは、ラジエルの言葉通り、手向けという意味が大きい。


 「再度、称賛しよう。汝の技、見事であった」


 ラジエルの背中から四枚の翼が生え出で、頭上には幾何学的に組み合わされた複数層の光輪が冠される。その体躯は5メートルほどにまで巨大化し、それよりも更に大きい炎の輪が二つ、身体を守るように交差していた。中性的な若者といった感じだった顔は、もやがかかったように見えづらくなっていた。

 右手には炎の剣が、左腕には光の盾が、それぞれ装備されている。


 身に纏う純白の衣よりなおも白く輝く翼も、一時として同じ形にはならない幾何学模様の光輪も、確かにイメージ通りではあるけれど……やはり、神威は感じない。


 「故に、我が全力を以て葬送する。内密の契約故、周囲の情報を無制限に記録するセファーは置いて来たが、この炎剣であれば苦痛なく処断できよう」


 背が高くなったからか、妙に聞き取りづらい──声にすら神威が乗り、空気どころか魔力をさえ揺らしている──言葉に、そうだろうな、とフィリップは苦笑する。

 今までの普通の長剣サイズでさえ、近くにいるだけで熱かったのだ。五メートルの巨人が持つサイズともなれば、十メートル離れていても熱気に肌を打たれ、息苦しいほどだ。


 「すみません、向こう五分ぐらいでいいので、彼女の視界をマスクできたりしませんか?」

 「ほう。……三度、称賛しよう。自らの死を前にしてさえ、女性への配慮を忘れぬとは。汝は不信心な輩ではあるが、善良でもあるようだ。その在り様に免じて、《スリープ》《シールド・エリア》」

 「ありがとうございます」


 フレデリカはずっと伏せて──いや、頭を抱えて蹲っているから要らぬ心配かもしれないが、万が一ということもある。

 いやあ本当にすみませんねははは、と空虚な笑いを向けるフィリップに、ラジエルは怪訝そうな声を上げる。


 「ふむ。問おう。汝は未だ生を諦めていないように見受けられるが、私に抗する術があるのか。であれば、提言する。全てを出し切ってから逝くとよい」

 「ありがとうございます、そうします」


 フィリップは的外れな言葉と笑うことはせず、浮かんだ嘲笑を頭を下げて隠す。


 自分が絶対的強者であると信じて疑わない者ほど驕り、足を掬い易い。相手を油断させ、その隙を逃さず攻撃するのが弱者の戦い方だ。


 以前に読んだ冒険譚で、強大な敵と戦う勇者が言った言葉だ。いや、仲間の賢者に言われた言葉だったか?

 まぁ、とにかく、フィリップはそれを思い出して実行していた。


 ラジエルは現れてからずっと、フィリップは自分には勝てないと確信して、子供と遊ぶときのような取り繕った真剣さを漂わせていた。要は、フィリップは適当にあしらわれていたということだ。嘲笑われていたというよりは、上位存在が下位の存在に対して向ける冷笑──大人が子供に向ける愛着混じりのそれが近いか。


 それに、ラジエルの言う「契約」による処断──本来は善人を守護し、悪人を罰する存在である天使の職務に反する行為であるからか、罪悪感のようなものも感じられる。ラジエルが妙に優しいのはそれが原因だろう。


 であるならば、甘えさせてもらおう。

 そして、申し訳ないが、遠慮はしない。その代わり殺しもしないから許してくれ。


 「いあ いあ はすたあ はすたあ──」


 かつて軍学校生のマリー・フォン・エーザーは、フィリップを指して「騎士の誇りも男の矜持も全て無視して遠距離から毒ナイフを投げるタイプ」だと言ったが、それは紛れもない事実だった。


 親か教師のように優しく「全力を出しなさい」と言った相手に召喚魔術を使うのもそうだが、フィリップのそれは旧支配者最強の一角であり、ヨグ=ソトースの落とし仔であるハスターの招来だ。過剰火力も甚だしいというか、もっとこう、手心と言うか、相手への敬意と言うか、色々と思い出してほしいところだ。


 「と、問う。なんだ、その魔術は……?」

 「くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」


 震え声のラジエルを無視して、フィリップは淡々と詠唱を続ける。

 それが終わったら最期だと、ラジエルはそれだけは理解した。


 それだけで済んだのは、ラジエルという天使の性質に依るところが大きい。天使は一般的に全知であるとされ──諸説あるが──自分の知らない事象に直面すると、酷く狼狽する傾向にある。元は高位の天使であり、欲や罪を知り天国より追放された存在である、魔物ではない本物の悪魔などもそうだったように。


 しかし、座天使長ラジエルは数少ない例外の一つだ。

 それの持つ神秘の本『セファー・ラジエル』は、周囲の情報を無制限に記録する情報収集装置であると同時に、ラジエルの記憶や知識を保管し補完する、いわば外付け記憶装置でもあった。


 その存在ゆえにラジエル本体は、自分が全知ではないと確信した上で、自分は全知になれると確信している。

 知らないこと、知らないものは、セファーを読めば全て載っているのだから。


 だからこそ、ラジエルの恐怖は未知のものに対してではなく、それそのものに対しての恐怖であり、正しい恐怖だった。


 尤も、正しいからこそより強烈に精神を蝕む、抱くべきではない、抱いた時点で半ば詰みとすら言える恐怖でもあるのだが。


 「や、やめ──」


 言葉による制止と同時に炎剣を振り上げ、強制的に黙らせようとするのは正解だ。

 相手を見限ったフィリップを止めるなら、その半ば死んでいる心を動かすだけの価値を示すか、殺すしかない。


 だが遅い。

 ラジエルの持つ炎剣は、触れるより先に肉を焼き焦がすような熱を持っているが、それでも──それを振り下ろすよりは、フィリップが残りの三節を口にする方が早い。


 「あい あい はすたあ」


 風属性の王を讃える言葉は、本来は「風属性の王」などというちゃちな存在ではないハスターにとっては、己を呼ぶ祝詞としては不適格なものだろう。


 だが、ハスターはもう、知っている。

 その誤謬に満ちた愚かな祝詞を使う者が、その路傍の石のような存在格に応じた無視していい存在などでは、決してないことを。

 

 いつも照準補助をしている癖で突き出した右手の先で、幾何学的な模様と図形、そして見るだけで気分を害し、読み解けば精神を蝕む邪悪な文字で構成された魔法陣が展開される。

 そこから滲み出るように立ち込める、光を呑む色の雲がラジエルの炎剣を掻き消した。


 驚愕の声を漏らしそうになるラジエルだが、それは口を突く頃には苦痛の呻きに変わっていた。

 暗黒の雲から耳障りな音と共に飛び出した、のたうち蠢く黒い触手が複雑に絡み合いながら伸び、ラジエルの喉元を締め上げたからだ。


 詠唱終了からほんの1秒か2秒しか経っていないというのに、ラジエルは触手によって首を絞められ、足をばたつかせて藻掻ている。五メートルの体躯と翼を持つ天使が、醜くも、無様にも。


 当然ながら、現れる触手はその一束だけではない。

 先を見通せない漆黒の雲からは、それより黒い触手の濁流が絶え間なく続き、手のような形を、顔のような形を、胴のような形を、外套のような形を象っていく。その表面を擬態する蛸のような極彩色に変え、最後には黄色い外套と、それに覆われた黒い身体、そしてクエスチョン・マークを三つ合わせたような模様の描かれた白い仮面をつけた、ラジエルと同サイズ程度のヒトガタになった。


 無数の触手の集合体である首が骨格を持たない動きでうねり、仮面で隠された伽藍洞の顔がフィリップを見下ろす。


 その威容ならぬ異容だけでなく、大小さまざまな無数の触手の一本一本、その末端部からでさえ、神威にも似た悍ましい気配が感じ取れる。

 視界に入れるだけで──否、同じ空間にいるだけでも精神を蝕みかねないほどの、圧倒的な存在感。


 それをもろに浴びて、フィリップは思う。

 「うんうん、神威ってこういうのだよね」と。


 「……召喚時の命令は、敵の撃退だったと記憶しているのだけれどね、魔王の寵児よ。私を羽虫と見比べて、辱め、貶め、嘲ることが目的だったのかい?」


 いつぞやと同じく大陸共通語で、ハスターは至って真剣な様子で問いかける。

 召喚時に「敵排除」という意識を強く持っていたし、召喚物と召喚者はある程度、意思や意識を共有する──当然ながらハスター側の意識も伝わってくるので、フィリップのような特異体質か、人類最高峰に屈強な精神の持ち主でも無ければ一瞬で発狂する──仕組みになっているから、そうではないと分かるはずだ。


 だからこれは、所謂軽口、冗談なのだろう。

 おいおい旧支配者に冗談を言われてしまったぞと、正気を失ったカルトでさえ正気を疑うような状況に苦笑する。


 「それで」と、ハスターは仕切り直すように言いながら、持ち上げていたラジエルを適当に放る。

 まだ殺してはいなかったのか、ラジエルは地べた──なのかは不明だが、とにかく白い雲のような床を転がりながら苦痛の声を上げた。


 「それで、魔王の寵児よ。私が倒すべき敵は、一体どこにいるのかな。まさかとは思うけれど、こちらを見ている外神どもや、尖鋭時空の大君主を排除しろとは言わないでくれよ?」


 何を言っているのだろうと、フィリップは二つの点に首を傾げる。


 まず第一に、ハスターは三次元存在だ。外神とは存在の格が違う。戦って勝てるかどうかという以前の問題、言うなれば、冒険譚に描かれた勇者──文字の羅列は、本物のドラゴンを倒せるかというレベルだ。

 言うまでもなく、不可能。戦いにすらならない。戦局が一方的とかそういう意味ではなく、本当に、「戦闘が発生しない」という意味で。


 だから外神を相手取るのにハスターなんて呼ばないし、そもそも外神はフィリップの味方だ。ヨグ=ソトースにも匹敵する存在である尖鋭時空の大君主、外神陣営には属さないミゼーアがこちらを見ているというのは、フィリップをしてぞっとさせる話だが……それも、「怖い夢」程度のものでしかない。


 で、第二に。


 「いま投げ捨てた天使が、僕の意図していた「敵」なんですけど」

 

 地面に転がった状態から、無様にも四肢を使って起き上がろうとしているラジエルを一瞥したハスターは、ふむ、と小さく頷く。

 そして生物的に湿った不快な音を立てながら身体を動かし、フィリップの顔を覗き込む。


 胴体が横方向に90度以上も曲がりくねる骨格の無い動きは、逆にそれがヒトガタであることを意識させる。尤も、フィリップにとっては「だから何」という話ではあるが。


 「正直、意外だよ。君はもう少し、繊細な性格だと思っていた」

 

 言いたいことは分かる。

 さっき、ハスターは天使を指して「羽虫」と言った。それは恐らく何の比喩でもなく、本当にただの大きな羽虫とでも思っているのだろう。


 羽虫を払うのに旧支配者を使うなど、過剰攻撃にもほどがある。

 それは、フィリップだってその通りだと思うけれど──残念ながら、フィリップの持つ手札ではこれが最も破壊半径の小さい有効打だ。


 「いいよ。いいとも。羽虫の駆除でも、火の番でも、畑仕事でも、好きに使えばいいさ。私のような劣等存在に、君の命令を拒む資格は無いのだから」


 自嘲するような言葉を、しかし一貫した無感動な態度で言うハスター。

 彼にとってもフィリップにとっても、ここにいるのは泡沫の中でも塵芥の如き下等存在だけ。殊更に否定しようという気も起こらない。


 軽く肩を竦めたフィリップの視界の端で赤い炎が吹き上がり、強烈に目を惹く。

 それは立ち上がったラジエルが再び顕現させて構えた、あの巨大な炎の剣だ。


 「排除……する」


 翼を使わず四肢の力で起き上がったラジエルは、その末端を震わせながらも気丈に戦闘態勢を取る。


 右手には炎剣、左腕には光盾。そしてフィリップの知らない魔術を行使して、自身の周囲に6本の光の剣を作り出した。


 「貴様らのような邪悪な存在は、人類にとって害でしかない! 故に、ここで排除する!」


 その顔は霞がかったように見えないが、フィリップには強靭な決意の漲った鋭い双眸と、死の覚悟に強張った表情が見えた気がした。


 或いは、狂気に溺れて見るに堪えない、単なる絶望の表情かもしれないが。





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