第155話

 天使。

 神が遣わす伝令使にして、悪魔との戦争における兵士。人の行く末を見守り導く守護者たちであり、同時に人を罰し断罪する処刑執行者でもある。


 その姿は性別を持たぬがゆえに万人を魅了する美しさであり、手を触れることすら畏れ多い荘厳さと神聖さを持つ。階級に応じて数の増える純白の翼を持ち、頭上には輝ける光輪を冠する。


 ……と、フィリップは今までそう聞いていたのだけれど、目の前のラジエルを名乗る人物は、知識とはそぐわない平凡な外見だ。

 顔の造形は整っているように見えるものの、ナイ神父やマザーとは比較にもならないし、好みの問題か、或いは変に中性的だからか、ルキアやステラの方が綺麗だと思う。


 「えーっと……天使と言うと、もっとこう、羽があって、光の輪っかを被っていて、それで……煌びやかな感じなのでは?」


 確か聖典には天使のことを「星」と形容する一節もあったはずだ。もう少し敬虔な信徒なら、どの章のどの節かまで覚えているのだろうが、それはフィリップに求めることではない。


 フィリップが内心で抱いていた「本当に天使なのか?」という疑問を見透かしたように、ラジエルは重々しく首を振る。

 その所作にはフィリップにも分かるほどの重厚な威厳があったが、若々しく中性的な容姿ということもあって、似合っていないなという身も蓋もない感想が浮かんだ。


 「嘆かわしい。目に見えるものでしか神の威光を感じられぬ、即物的で、信じる心のない者よ」

 「はぁ、すみません……」


 会釈程度に頭を下げつつ、内心では「だって神威とか感じないし」としょんぼり──怒られたから──するフィリップだが、背後でがたがた震えているフレデリカのことを考えれば、一瞬で答えに辿り着けるだろう。


 眼前のラジエルから、神威は確かに放たれている。

 常人であれば気絶しかねないほどの、超越存在としての存在感と、神格に連なるものの気配だ。


 ……それで、まぁ、その、残念ながらというべきか。

 神格と言っても、唯一神は精々が旧神中位程度の劣等存在。フィリップの召喚するクトゥグアやハスターは歯牙にもかけない、外神なら洟も引っかけないような相手だ。こうしてフィリップという現地の生態系の中でもそれなりに下位の存在を護衛するという状況でもなければ、認知すらしなかっただろう。


 そして相手の悪いことに、フィリップは過去、アザトースの宮殿に接続している。

 この世の中心にあり、この世全ての宮殿よりも絢爛で、この世全ての砦よりも堅牢で、この世全ての聖堂より荘厳な場所。そこで歌い奏で踊り狂う蕃神たちを見て、その神威を浴びたのだ。


 普段から傍にいる、ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスだけではない。

 真なる闇。無名の霧。音そのもの。腐敗と死の概念。美しいもの。輝いているもの。生きているもの。死んでいるもの。どっちつかずなものたち。それらを覆い隠すもの。それらを暴くもの。名前も無い歌い手と、踊り子、奏者たち。


 フィリップに与えられた外なる神々の知識、幾百幾千では足りない彼らの名前と照らし合わせて、その場にいなかったのはたったの一柱だけ。


 外神最強の一角である副王ヨグ=ソトースに謁見し、あまつさえ──あの美しい世界の中でさえ醜悪だった、盲目白痴の魔王アザトースにも拝謁したのだ。


 今更、旧神中位程度の存在どころか、その配下の放つ神威に気付けと? 無理に決まっているだろう。一光年を測る定規では一ミリは測れない。


 「宣告する。汝らはこれより処断される。しかし、安心してよい。煉獄にて改心し審判の刻限に至りて信仰心が有らば、汝の魂は救済され、その後千年の安息が約束される」

 「どうしてですか? 僕たちは天使に断罪されるような行いは、何一つしていませんでした」


 少なくともさっきは、ルキアに教わった通りの手順で本を探していただけだ。

 そりゃあ、それ以前の行いについての問題は自覚しているし、そもそも存在自体が神への冒涜みたいなフィリップだ。「自分は善良で敬虔な信徒である」なんて口が裂けても言えないけれど。


 「全知全能である神が、罪なき者を冤罪で裁くんですか?」


 フィリップの問い掛けに冷笑が混じったことに目敏く気付き、ラジエルが心底不愉快そうに眉根を寄せる。


 「忠告しよう。汝、神を試すこと勿れ。そして答え、詫びよう。今回の処断に我が父は関与しておられない。汝らの処断は我が契約に拠るものである」

 「契約……?」


 天使も悪魔同様、魔術師が召喚魔術によって使役することは可能らしいが……それも天使級から大天使級、つまり天使の階級で最下位か下から二番目の位までだ。悪魔で言うゴエティア72柱の悪魔のように、座天使・智天使・熾天使といった上位階級天使は人間では使役不可能なはず。

 

 「誰と、どんな契約をしたのかは知りませんけど、僕たちはただ──」

 「教えよう。私に与えられた命令は、この先、大罪書庫に入ろうと試みるあらゆる者を排除すること。それが仮令、聖人に愛される子であろうとも」


 フィリップは顔を引き攣らせ、思わず漏れそうになった舌打ちをぐっと堪えた。

 相手が天使であるのなら、ルキアとステラの威を借りてどうにかならないものかと思っていたのだけれど、先に無理だと明言されてしまった。


 こうなると、フィリップの弁舌では天使を煙に巻くことなど出来ないので、言葉による交渉という選択肢は消える。

 じゃあ、まあ、後は。


 「なら、武力交渉しかないわけなんですが……天使って死ぬんですか?」

 「問いを返そう。私の答えは、汝の行動を変え得るのか?」


 そりゃあ勿論。

 死ぬなら多少の様子見としてウルミと領域外魔術からスタートするし、死なないのなら諦めて初手から召喚魔術をぶっ放す。……おっと、そういえばフレデリカが居たか。


 「先輩! 僕が肩を叩くまで、その場に伏せて耳を塞いでてくれますか! あと目も閉じててください!」


 フレデリカが少し遠くにいて、さらには恐怖で固まっているようなので、少し大きめに声を張り上げる。彼女が緩慢な動作で言われた通りにするのを見て「これでヨシ」と頷いてなどいるが、果たして本当に大丈夫なのだろうか。


 そんな緊張感の無い様子のフィリップに、ラジエルは不思議そうに、そして微かな不快感を滲ませて問いを投げる。


 「問おう。汝は何故、私を恐れない。何故、父の神威を畏れない」

 「……僕、そういうのには鈍感みたいで」

 

 へらりと笑うフィリップと、不愉快そうなラジエルは一瞬とも数秒とも感じられる時間だけ見つめ合い──フィリップが先んじて動いた。


 身体が地面と水平になるほど極端な前傾姿勢を取り、同時にベルトに手を添える。

 そこに巻かれたウルミを抜き放つと同時に足に力を籠め、地面すれすれを飛ぶ燕のようにも、地上を滑る蛇のようにも感じられる動きで突撃を敢行。


 攪乱の歩法『拍奪』によって相対位置認識を前と右に欺瞞しながら、やや曲線を描く軌道で走る。これはステラに教わった、対魔術師用の動きだ。


 相手が無手だからと安直に考えてのことだったが、残念ながら、ラジエルは右手を空へと伸ばし、


 「炎剣よ在れ」


 と唱え、炎で形作られた長剣を握った。紅蓮に輝くそれはフィリップの目にも美しく映るが、それ以上に、十メートル以上離れていても、肌や目がぴりぴりと危険を訴えかけてくるほどの熱を感じる。触れれば骨まで焼けそうだ。


 便利なことで、と悪態の一つも吐きたいところだが、話した分だけ呼吸を無駄に使うことになる。


 対剣士用の直線軌道に切り替えるまでもなく距離を詰め終え、ウルミと炎剣の間合いにそれぞれが入り──フィリップの予想を数倍する速度で炎剣が振られ、轟々と音を立てて大気を焼き切りながら、フィリップのやや右側の空間を空振った。


 一応は両目で位置を認識しているらしく、『拍奪』の相対位置欺瞞が機能している。

 それは朗報だが、それ以上に。


 「あっつ!?」


 フィリップより人一人分は離れたところを通っただけの炎剣が、右半身に強烈な熱波をぶつけていった。辛うじて火傷にはなっていないようだが、慌てて距離を取った後でも感覚が残っている。


 やばい。

 これはやばい。触るどころか、その近くに数分もいれば炙り焼きになりそうだ。


 フィリップに熱中症やその他の高温環境下で起こる身体異常に関する知識は無かったが、本能的に危険を感じるほど熱い。


 「《ウォーター・ランス》」


 自分の頭上で『魔法の水差し』を使い、頭から水を被っておく。焼け石に水だろうが、体感的には多少マシになるはずだと信じて。


 攻撃魔術を詠唱しておきながら、しかし魔術戦に於いては何の役にも立たない初級魔術を選んだことに首を傾げていたラジエルは、フィリップの熱対策を見て納得したように頷く。

 そして自分の右頬を撫で、一言。


 「称賛しよう。今の動き、今の技は素晴らしいものだ」

 「そりゃどうも。あんな苦し紛れの攻撃に当たってくれてありがとう、と付け加えるべきですか?」


 煽るように言うフィリップだが、その表情は苦々しい。


 炎剣が放つ甚大な熱から逃げながら振った、いわば回避のついでのような攻撃だったが、ラジエルには躱されなかった。


 いや、より正確には、フィリップの見た限り攻撃は見切られてさえいなかった。

 ルキアやステラ、或いは昨日の使徒もそうだが、攻撃に対して完璧な防御ができる手合いでも、攻撃に対して何らかの反応を示す。警戒の眼差しを向けるとか、無感動な一瞥をくれるとか、とにかく「攻撃を認識する」という行為があるのだ。


 しかし、さっきのラジエルにその気配は無かった。奴は完全にフィリップを攻撃することだけに注力して、フィリップの攻撃には全く無頓着だった。


 「……なるほどね」


 どうして、と考える前に、似たような手合いを思い出す。

 それはクトゥグア召喚やハスター召喚の練習をしていた時のナイアーラトテップと、普段のフィリップ自身だ。


 その化身を幾度となくクトゥグアに焼き払われ、ハスターの毛先という風属性上級魔術にも匹敵するものを向けられて、ただの一度もフィリップを注意しないどころか、一貫して嘲笑を向けていたナイ神父とナイ教授。

 悪魔や黒山羊、アイホートの眷属と戦闘してきて、その攻撃に対しては一貫して無関心だったフィリップ。


 その振る舞いの根幹にあるのは、相手が自分を傷付けることなど出来ないという絶対的な自信だ。──フィリップのそれはヨグ=ソトースへの信頼感によるものだが。


 「銀の武器か、魔力付与のされた武器でしか傷付かないとか、そういう感じか。吸血鬼みたいな」

 「肯定し、教授しよう。我々天使は、悪魔の手になる武器か、一定以上の魔力を付与された武器でなければ傷を負わない」


 何でもないことのように、しかし微かな自信を滲ませて言うラジエルに、フィリップは顔を引き攣らせて舌打ちを漏らす。


 フィリップが持ち合わせる武器は、この何の変哲もない鉄製のウルミだけだ。当然ながら付与魔術の心得なんて無いし、恐らくは付与したところで「一定以上」にはならない。


 元々手加減のために貰って練習していたウルミだが、こうなると何の役にも立たない。精々が相手の顔を殴りつけて視線を逸らさせるくらいだが、悲しいことに、『拍奪』は相手が狙い澄ました攻撃に対してこそ真価を発揮する。何も見えていない状態で適当に振った攻撃の方が、却って当たりやすい──事故りやすいのだ。


 「便利なことで。……《萎縮シューヴリング》!」

 「光盾よ在れ。……?」


 では魔術ならどうか。

 その判断は、ラジエルが対応したところを見るに、間違ってはいないようだ。不意討ち気味の攻撃にもラグ無く対応してくる辺り、それなり以上に戦闘慣れしているらしい。


 ラジエルは今度は左手を振り、下腕部に光のラウンドシールドを作り出して構えた。

 それは恐らく魔術を跳ね返すような効果があったのだろうが、直接干渉魔術である『萎縮』には無意味な対策だ。……尤も、フィリップの放った『萎縮』それ自体も、ラジエルの魔力抵抗によって弾かれてしまい、何の効果も齎さなかったのだが。


 「……レジストしたか。『シューヴリング』なる魔術に聞き覚えは無いが、ふむ。覚えておこう。天国に戻り次第、セファーに尋ねなければならないと」


 独り言ちるラジエルまでの距離は、およそ10メートル。ステラが言う、一般の魔術師の魔力抵抗なら貫通できる距離だ。

 この距離で無効化されるとなると、やはり人間以上の魔力抵抗力を有していると見て間違いないだろう。恐らくは、どれだけ近付いても関係なくレジストされる。それに何より、あの炎剣が熱すぎて近寄りたくなかった。


 「質問しよう。抵抗は終わりか。であれば、提言しよう。そこで跪き首を差し出せば、苦痛なき処断を約束すると」


 物理攻撃も、魔術攻撃も、フィリップはそのどちらでも、ラジエルに有効打を与えられる水準に達していない。


 言うまで無く、それは詰みを意味する。

 相手は自分を殺せて、自分は相手を殺せない。そんな状況で戦闘を続けるのは愚かの極みだし、そもそもそれは戦闘ではなく、一方的な殺害だ。


 いや──最初から、か。

 ラジエルには、フィリップが、眼前の人間が自分を殺し得ないと分かっていただろう。


 だからこそ、これだけ無意味な抵抗を許していたのだ。せめてもの情けに、だろうか。或いは、矮小な存在の無意味な行為を嘲笑っていたのかもしれないが。


 「手向けを与えよう。最期に、私の真の姿を見て逝くといい」


 





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