第153話

 フィリップ・カーター。

 外なる神々の王にしてこの世全てを夢見る盲目白痴の邪神アザトースの寵愛を受ける、矮小な人間。ナイアーラトテップ、シュブ=ニグラス、ヨグ=ソトースという外神の中でも屈指の強大な神々に守護される稀有な存在であり、全く価値の無い泡沫の一部。


 魔術の才は無く、剣術の才も薄い。

 世界最強の魔術師であり唯一神に認められた聖人でもある、ルキアやステラと仲良くなれた幸運な少年と言えなくも無いが、有害無比なる最大神格に見初められた不運が全てを打ち消す。どころか、マイナス無限大だ。


 何もできない。

 彼は、そういう存在だ。何もできない、何の価値もない、強大無比なる外神が、邪悪の権化たる旧支配者が、身勝手な正義を振り翳す旧神が何をするまでもなく死んでしまう。怪我で、病気で、あまつさえ寿命などという時限自滅機構も備わっている。


 この泡沫にも等しい夢の世界で、殊更に価値の無い劣等種。


 そんなフィリップが、自信を持って出来ること。それは──


 「ルキフェリア・フォン・サークリス聖下。大変なお手間とは存じますが、禁書庫への門を開けて頂けますでしょうか。大変申し訳ございませんが、その後は私どもの方で対応させて頂きますので、中にはお入りにならないようお願い申し上げます。利用するような真似は大変失礼とは存じますが、何卒ご協力をお願い申し上げます」


 ──丁寧な対応である。


 これでも五歳の時から実家の宿を手伝ってきて、去年の春には王都の、それも二等地の宿で丁稚奉公をしていたのだ。

 貴族の基準に照らせば不適格かもしれないが、言葉遣いや所作は丁寧にと幼いころから躾けられてきたし、周りの大人もみんなそうだった。


 サークリス公爵家の使用人たちのような、洗練された技術には程遠いけれど。それでも、相手を不快にすることなく頼みごとをするくらいは造作もない。


 勝った。フィリップはそう確信する。

 誰にと訊かれるとフィリップ自身も答えかねるのだが、強いて言うならルキアにだろうか。


 フィリップは自信に満ちた表情を接客用の笑顔で覆い隠し、綺麗な角度で下げていた頭をゆっくりと上げる。


 ルキアは機嫌良さそうに笑っているか、最悪でも「仕方ないわね」と言いたげな苦笑を浮かべているだろうというフィリップの予想はしかし、甘すぎるものだった。


 「……なに、それ」


 彼女はそこが痛くて堪らないように胸元を抑え、怜悧な容貌を苦痛と悲哀に歪めていた。開いた口に言葉が詰まり、窒息したように、嗚咽を漏らさぬように唇を噛み締めて閉じられる。


 赤い双眸は一瞬だけ微かに潤んでいたが、他人の前で泣き顔を晒すなんて無様を、ルキアの美意識は許さない。たった一度の瞬きで涙の気配を覆い隠したルキアは、さらに一度の深呼吸で感情を完璧に制御した。


 フィリップが何か言うより早く──フィリップが自分の失策に気付くより早く。


 「……誰かに、何か言われたの?」


 完璧な淑女然とした落ち着いた微笑を向けられ、フィリップは見間違いかと首を傾げる。


 しかし、のんびりと自分の言動を振り返っている暇は無かった。彼女の言葉は疑問文で、フィリップはまだそれに答えていない。


 「いえ、特にそういうわけでは。……あの、もしかしてご不快でしたか?」


 恐る恐るといった風情で尋ねたフィリップに、ルキアは少し考え込む。

 頭の回転がフィリップの数倍は速いだろう彼女が即答しかねるというだけで、殆ど答えのようなものだ。


 「いいえ、大丈夫よ。他人行儀に少し驚いただけ」


 彼女の笑顔に曇りは無く、本当に不快感を抱いているようには見えない。

 しかし「彼女がそう言うのならそうなのだろう」と安直に納得することは、ルキアの悲痛に歪んだ表情を一瞬でも目にしたあとでは、出来るはずがなかった。


 「あの……すみませんでした」

 「気にしないで。でも二度としないでね」


 先ほどまでの自信に満ちた態度はどこへやら、すっかり萎縮して謝るフィリップに、ルキアはにこやかに、しかし確固たる意志を滲ませる声色で赦しを与える。

 魔王の寵児だなんだと言われ、外神全ての寵愛と庇護を約束されていて、人間らしい精神性を半ば捨て去ったとはいえ──ルキアを傷付けるのは望むところではないし、何より。


 「今の、すごく失礼でしたよね」


 ルキアはフィリップのことを良く知っている。

 フィリップの価値観も概ねは、特に、人間社会の身分制度に価値を感じないということには気付いているはずだ。もしかしたら、フィリップがルキアを同等どころか格下ですらなく、何の価値も無いと冷笑していることすら分かっているかもしれない。


 そんな彼女に向かって慇懃に話しかけたら、どう思われるか。


 フィリップは似たようなモデルを知っているというか、何なら日頃は逆の立場に置かれている。


 「今の僕、すごくナイ神父みたいで……最悪でした」


 ナイ神父はまるきり今のフィリップのよう──いや、今のフィリップこそが、まるきりナイ神父のようだったと表現すべきか。


 嘲笑われている。ルキアがそう受け取っても不思議はない。

 「自分がされて嫌なことは、他人にしてはいけません」。両親にそう教わってきた善良な少年としては、今のは怒られる、怒られるべき行為だった。


 フィリップは自分の所業を思い返して頭を抱え、「精神汚染されてるんじゃないのか」と本人としては大真面目に絶対に有り得ない可能性を検討している。

 当然ながらルキアの心に重大なダメージを負わせたのは、そんなことではないのだが。


 「言ったでしょう? 気にしないで。いつも通りの貴方で居てくれたら、それでいいから」

 「……はい。それで、その……改めて、お願いがあるんですけど」


 いつも通りでいろと言われても、たった今傷付けて、怒られた相手に物を頼むことがどれだけ図々しいかを考えると、どうしても声が沈んでしまう。


 その程度の人間性──年相応の繊細さは残していた。


 「禁書庫の門を開ければいいのよね? でも、私は中には入ってはいけない」

 「……その通りです」


 他人の口から言われると、本当に図々しい頼みだと改めて実感する。

 だがしかし、この条件を譲るわけにはいかない。


 自分を入れるなら開けてもいいという条件を付けられたら、交渉能力に欠けるフィリップはどうしようもない。その場合は大人しく引き下がり、ナイ教授に頭を下げる。多少の煽りは甘んじて受けよう。


 そう覚悟したフィリップだが、ルキアは「いいわよ」と軽く肯定する。

 フィリップは目を輝かせるが、しかし、彼女の言葉はそれだけでは終わらず、「けれど」と続いた。


 「いいわよ。けれど、一つだけ聞かせて。……その、こんなことを聞くのは、凄く怖いのだけれど」


 ルキアは一度言葉を切り、心底からの恐怖を告白するように、大きく深呼吸してから先を続ける。


 「私に隔意が──私のことが嫌いになったから、じゃないわよね?」


 血でも吐きそうな様子での問いに、フィリップは思わず瞠目する。

 彼女がここまで動揺するというか、心情を曝け出すのは珍しい。以前にこのレベルの動揺を見たのは、軍学校との交流戦の最中、ある一夜に、フィリップが脳震盪と低体温症で倒れていた──らしい──時か。


 あの時フィリップは四分の一くらい死んでいたらしいけれど、今回は全くの無傷だ。これほど動揺するようなことなのか?


 第一──


 「当たり前じゃないですか。僕がルキアを嫌いになるなんて、あるわけないでしょう」


 そんなことは有り得ない。

 ルキアを安心させよう、なんて配慮が頭から抜け落ち、それこそ「何を言っているんだ」と冷笑するような色が声に混じってしまうほど。


 より正確に言えば、フィリップが殊更に誰かを嫌うなんてこと自体が有り得ない。

 フィリップの人──他人という意味もあるが、何より生物種としてのヒト──に対する感情は、殆ど無だ。悪感情という意味ではなく、何のウェイトもない完全なる中立ニュートラル


 価値の無いものに、それ以上追加で何かを感じることがない。泡は、泡だ。


 まあ勿論、例外はある。

 カルトは嫌い、いや大嫌いだが──これも「カルト」という記号に対するもので、カルトに所属する個人に然したる興味はない。


 そしてマイナス方向、「嫌い」という属性の中での例外があるように、「好き」というプラス方向での例外もある。


 ルキアは、その例外の最たるものだ。彼女も、衛士たちも、ライウス伯爵も、フィリップがヒトという劣等種を完全に見限らずにいられる理由だから。

 彼女が居なければ。彼女があの森で、フィリップの目蓋に焼き付くほど美しく、魂を焼き焦がすほどに鮮烈な人間性を魅せていなければ。今のフィリップは存在しない。


 ルキアも、ステラも、下手をすれば王都の住民全てが、「まあいいか」と全てを投げ出したフィリップの軽挙妄動で死んでいた。


 そんなフィリップの思考、外神の視座と人間の思考が混じり合ったロジックなど知るはずもなく、ルキアは「でも」と言い募る。


 いや、言い募ろうとした。


 「でも──……いえ、なんでもないわ。気にしないで」


 ルキアは完璧な笑顔を浮かべ、自分の言葉を撤回する。

 これ以上の質問は美意識に反するし、フィリップを困らせてしまう。そんなルキアの考えこそ読み取れなかったものの、不自然な間はフィリップに思考を促すのには十分だった。


 フィリップはルキアのお陰で、今ここにいる。──だがそれにしては、フィリップの態度は、彼女への尊重を欠いていたのではないか?

 そう自覚してしまうと、人間性の残滓は当然の権利として騒ぎ立てる。このままではよくない、謝って、改善すべきだと。


 「……ごめんなさい。僕は少し、ルキアに甘え過ぎていたみたいです」

 「そんなこと──」


 またしても悲哀に満ちた声で言い募ろうとしたルキアに一本指を立て、話はまだ終わっていないと示す。

 直後、今の所作もなんだかナイ神父みたいだったぞと自省したのは、今は関係の無い話だ。


 「いえ、そうなんです。僕は、ルキアが何も聞かないでいてくれることに甘え切っていました」


 彼女はあの森でのことも、それ以降のことも、フィリップが話したがらない──話したくないという態度を見せるだけでも──ことは、尋ねようとも、調べようともしなかった。フィリップの望む通りに。

 それは彼女の生得的気質ロリータが大きく寄与しているのだが、それでも、知りたいという思いはあったはずだ。ロリータの一要素である盲目的愛情と服従は、好奇心を掻き消すわけではない。


 どうして何も語ってくれないのか。どうして何も教えてくれないのか。そんな不満を抱く権利が、彼女にはある。


 今回の一件だって、そうだ。

 普通は“使徒”が介入したと確定した時点で手を引くだろう。ではフィリップはどうしてそうしないのか。どうしてそこまで“神を冒涜する書物”を探し求めるのか。それはもしかして、シュブ=ニグラスにまつわるものではないのか。そういうことを、訊きたかったはずだ。


 「でも、ごめんなさい。シュブ=ニグラスのことも、ダンジョンにいた奴のことも、ナイ神父のことも、殿下とのことも、何も話せないんです。話したくないんです。僕は、ルキアに──貴女に、幸せに死んでほしいから」


 フィリップは深々と頭を下げ、滔々と語る。今度は打算も何もかも抜きにして、心の底からの謝意を込めて。


 「僕は今回の一件、“神を冒涜する書物”が人間の正気を損なうような代物ではないかと思って動いています。ルキアには間違ってもそれを読んで欲しくないし、発狂した貴女を殺すような真似もしたくないんです。だからお願いです。身勝手な僕の甘えを受け容れて、何も知らずに、ただ僕に守られてくれませんか?」


 それは辛うじて懇願の体を為してはいたが、もはや説得では無かった。

 それは、ただの我儘だ。しかも真摯で一生懸命な声色で語っているくせに、。無自覚な嘘であるだけ、なお性質が悪い。


 フィリップは彼女を守るために動いていた。それは本当だ。

 彼女を、ステラを、衛士を、その他少数のフィリップが守りたいと思う人々と、フィリップが住まう社会を汚染させないために、“神を冒涜する書物”を探していた。


 ルキアを殺したくない。これもまぁ、概ね本当だ。

 フィリップの精神はもはや死者を悼む機能を失っているが、まだ生きている命──ただし美しい人間性の持ち主に限る──を守ろうという思いはある。死んだらそれまでだが。

 

 だが、しかし。

 フィリップは確かに喜んだのだ。彼女がシュブ=ニグラスの名を読み解き、その存在の強大さを知り、その蒙が啓かれたことを。彼女が人道を踏み外す、その確かなる第一歩目を。


 その歓喜と称賛がある限り、フィリップの言葉は突き詰めてしまえば欺瞞だった。


 誰が言い出したのか「巧妙な嘘とは樽一杯の真実の中に一滴だけ潜ませるもの」という言説があるが、今のフィリップはこれを悍ましいほど自然に、無意識に実行していた。いや、結果としてそうなっただけだが。


 無自覚な嘘は厄介だ。自分はそれを真実だと思っているのだから、嘘という言葉すら不正確か。

 公爵家次女として教育を受け、権謀術数渦巻く社交界にも慣れたルキアですら、それを見抜くには知識が要る。普遍的な真実と合致するか否かという、照合を要する。相手の内心を高い確度で推察できるステラでさえそうだ。


 「ルキアに隔意なんてありません。僕は貴女が好きで、守りたいから言っているんです」


 フィリップの言う「好き」に、異性愛や性愛の要素は無い。

 とはいえ全く意味の無い虚言というわけでもない。むしろ、含まれる要素だけで言えば、そこいらの学院生が口にする異性愛と性愛だけの「好き」よりも余程多い。


 羨望。嫉妬。憧憬。尊敬。冷笑。嘲笑。優越感と劣等感。そして期待と諦観。

 そんな多様な感情を坩堝で融かし合わせたような、複雑で、面倒で、どうでもいい情動。


 それがフィリップの言う、フィリップ自身も無自覚な「好き」の正体だ。


 そんなことはある程度の価値観を共有するルキアは百も承知のはずだが、彼女が微動だにしない硬直から再起動したのは、たっぷり十秒は経ったあとのことだった。

 尋常ならざる思考速度を持つルキアだ。その彼女の十数秒もの沈黙の間に何の思考も無ければいいが、もし平時の速度で思考していたとしたら、その密度は常人に換算して何分間の黙考に当たるのだろう。


 フィリップがそのことに気付いていれば、恐る恐るといった風情で声を掛けていただろうが──生憎、フィリップは前述の通り、今の台詞に然したる思い入れはない。必殺の一撃を放っておきながら、「どんな反論が来るのだろう」と身構えてさえいた。


 さておき。

 ルキアは十数秒の思考──正確には十秒の放心と数秒の思考だが──によって、漸くフィリップの精神状態と、「好き」という言葉の軽さを思い出した。


 そうなれば、後は何ら詰まるところのない流れだ。

 元よりフィリップの行動に口を挟むつもりなどなく、ただ「フィリップに隔意を持たれてはいないだろうか」という一点のみが気掛かりだったルキアだ。その心配が晴れた今、これ以上無粋に、不細工に、うだうだと言い募ることはない。


 「……分かったわ。禁書庫の門を開けてあげる。その後は外で待っているから、助けが必要になったら呼んで頂戴」


 自分に任せろと胸を張って言うルキアに、フィリップは笑顔で頷きを返す。


 「じゃあ行きましょう。先輩が待ってます」


 一時はどうなることかと思ったけれど、よかった、何とかなった。

 そう気が抜けそうになるところだが、むしろここからが本番だ。フィリップは自分の頬をぺちぺちと叩いて気合を入れ直し、本棚の森越しにでも見える禁書庫の門へと戻る。


 少し後ろを歩いていたルキアは、ふと思い出したように「そういえば」と声を上げた。


 「そういえば、フィリップ。あまり「好き」って言葉を軽々に使わない方がいいわよ」

 「え? あ、はい」

 

 ルキアの言葉を受け、なんでだろうと考えたフィリップは、一つの結論を弾き出す。

 しかし、絶対的に人間とは相容れない外神の視座の持ち主にして、人外の美を魅せつけられた、未だ恋を知らない年頃の少年。そんなフィリップが他人の心を、特に女心と恋心なんて普通の人でも図りかねるようなものを、推察できるはずがない。


 結論から言って、フィリップの答えは全く的外れなものどころか、追撃ですらあった。


 「軽々にってことは無いですけどね。ルキアくらいにしか言いませんし」


 またも硬直したルキアを余所に、フィリップは考える。

 あと自信を持って「好きだ」と言えるのは、衛士団と、ステラと、ライウス伯爵と……勿論、家族と、モニカ一家くらいか。もう少し多い方が、やはり人間としては健常なのだろうか。

 



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