第149話
「おやつですよ、フィリップくん」
と、ナイ神父が銀盆に載ったフルーツサンドを持って来たのは、一体どういうつもりなのだろうか。
つい数十秒前まで大真面目な話をしていたはずなのに、「美味しそうですね」とふらふら寄っていくフィリップは……まぁ、普段通りか。フィリップがここでクトゥグア召喚や基本的な魔術理論を教わっていた時には、脳の糖分補給と称して、ナイ神父が買ってきた──手作りの品はフィリップが頑として食べないから──おやつを食べていた。
「レオンハルト先輩も如何ですか? ナイ神父の舌は確かですよ」
意外にも、ナイ神父という化身は人間の味覚を完璧に、しかもかなり高機能に再現しているようで、これまで買ってきたおやつにハズレは無かった。
口の周りに生クリームを付けて、皿に一つ残ったフルーツサンドを指すフィリップ。その安穏とした何も考えていないような態度と口ぶりに気が抜けたのか、フレデリカは苦笑と共に大きく溜息を吐き、やがて諦めたような笑顔でフルーツサンドを取った。
口に入れてまず驚くのは、挟まっている果実の瑞々しさだ。甘い生クリームに覆い尽くされない、甘酸っぱい果汁が口の中に溢れてくる。それに、ぱっと見て取れた柑橘系の何かとイチゴだけではなく他にも種類があるようだが、そのどれもが互いに調和し、引き立て合い、それでいて主張し過ぎない程度に個々の存在感がある。
さぞかし名のある菓子店になる逸品なのだろう。もしかして、一等地まで買いに出たのだろうか。
思えば、朝から何も食べていないし、昼間には散々ゲロを吐いた。使徒に追われて走っていたから忘れていたが、空腹というスパイスも効いている。
喉もカラカラだったから、一緒に出されたオレンジジュースもありがたい。こちらも溶けると薄まってしまう氷ではなく魔術によって冷やされていて、最後まで美味しくなるよう配慮されている。
「美味しいです。あの、差支えなければ、どこの店のものかお聞きしても?」
「何を隠そう、私の手作り──というのは冗談ですからご安心を。これは一等地の『ドゥールセバン』という菓子店で買ったものですよ」
片膝を突いて口に指を突っ込みかけていたフィリップは、笑えない冗談だと憤慨しながら立ち上がる。自分が何を食べたのか分からないとなると、流石のフィリップもビビる。
「……それで、先輩。もし“神を冒涜する書物”が死の法則を覆す法則……死者蘇生に関する知識だったとしたら、やっぱり?」
「あぁ。私はそれで、祖父を生き返らせる。……分かってはいるんだ。人は、いや、生あるものは死ぬ。死ななくてはいけない。それが自然界におけるルールだということくらい」
自分自身に言い聞かせるフレデリカに、フィリップは真面目な顔で──口の端に生クリームを付けて──頷き、言葉の続きを引き取った。
「けれど、人の理から外れた死は惨い。せめて肉親くらいは、寿命か病気か、せめて事故で……人の理の中で死んでほしい。そうですよね?」
「……そう、だね。いや、違う。私は……祖父──お爺ちゃんには、人間らしく生きていてほしい」
何が違うのだろうと思ったフィリップだが、口や態度には出さない。
今優先すべきは彼女の思考や思想ではなく、“神を冒涜する書物”だ。
「なら、行きましょう。今日中にあと二か所、回ってしまうんですよね」
「あぁ。……お世話になりました、神父様。また後日、お礼に伺います」
え? 本気ですか? それは止めた方が。いえなんでもないです。と、フレデリカの挨拶に難色を示しながら、後に続くフィリップ。
その背中に、ナイ神父が慇懃な一礼を送り、マザーが少し寂しそうに手を振る。
「行ってらっしゃいませ、フィリップくん。道中お気をつけて」
「……行ってきます」
「またね、フィリップくん」
「はい。また……春休みはタベールナに戻る予定なので、その時に」
妙な含みのありそうなナイ神父の言葉に不信感を抱きつつ、マザーに手を振り返す。
玄関扉を開けると、そこは真っ赤に染まっていた──なんてことはなく、いつも通りの、小綺麗に整えられた花壇と小道だ。
「大通りまで出たら、馬車を借りよう。まずは……こっちの方が近いから、先にこっちに行こうか」
「了解です。そこは……えーっと?」
グリッド地図に描かれた逆五芒星の頂点の一つを指差し、今後の行動方針を語るフレデリカ。
観光用パンフレットの地図と見比べるフィリップに先んじて、フレデリカが答えをくれる。
「図書館だね。以前は……魔術学院に入学する前は、よく通っていたよ」
「へぇ、じゃあ、難しい本がいっぱいあるんですね」
フレデリカはあまり物語は読まないと言っていたし、学術書の類が多くあるのだろう。
そんなフィリップの予想通り、彼女は軽く首肯する。
「そうだね。確か、二等地で一番古くて大きい図書館だったはずだよ」
二人は通りがかった貸し馬車を使い、二十分ほどかけて図書館に着く。
外観は少し大きめの屋敷といった感じだが、中に入ると、意外に感じる程度には多くの本棚と蔵書が出迎えてくれた。とはいえ、流石に国内最高と謳われる魔術学院の図書館ほどではない。1時間もあれば、全ての本のタイトルを確認できるだろう。
しばらく本棚を物色しながら歩き回ってみたものの、「これは」と思うような本は見当たらなかった。
「……ここじゃなかったか、順番を間違えたのでは?」
「うーん……そうかもしれないね……」
と、他の場所を探すべきかという方向に話が進みかけた時だった。
二人を引き留めるように、貸し出しカウンターに座っていたおじさんが声をかけてくる。
「レオンハルトの嬢ちゃん? 久しぶり!」
「あぁ、司書さん。ご無沙汰しています」
大きくなったねぇ、などと話し始めた司書に、フレデリカは困ったように応じる。
「すみません、急いでいるので、話はまたの機会に」
「おっと、それはすまん。……あ! でもちょっと待っててくれな!」
フィリップはがさごそとカウンター下を漁り出した司書には興味を失い、カウンターの近くに置かれていた新着図書の棚から児童書を取って読み始めた。もう少しかかるだろうな、という考えは外れていなかったが、司書が何を取り出すのかくらいは見ておくべきだろう。
何故なら、彼が取り出したのは一冊の本だったからだ。それが魔導書ではないことを確認する一瞥くらいはするべきだ。
「これ、レオンハルト侯爵……じゃなくて、前侯爵が予約してた奴ね。君に渡せばいいんだったよね?」
「祖父が? あ、いえ、はい。確かに」
「あいよ。貸し出し期限は今日から二週間だからね」
表紙にも背表紙にもタイトルの書かれていない、革装丁の古めかしい本だ。ぱっと見ではそのくらいの情報しか得られないはずだが、フレデリカはどこか落胆にも近い表情を浮かべていた。
前見返しの部分は白紙で、次のページに漸くタイトルが書いてある。タイトルは『錬金術原論』。筆者は錬金術の祖ゾシモス。数百年では足りないほど古い時代の学者だ。
フレデリカは細かい文字がびっしりと書かれたページをぱらぱらと繰り、つまらなそうな表情を浮かべる。
「何かヒントはありましたか?」
「いや、どうだろう。私はこの本を何十回と読んだし、主要な章の内容はほぼ暗記しているけれど……ん?」
速読にしてもまだ早いペースでページをめくっていたフレデリカがふと手を止め、少し戻る。
そして記憶と照らし合わせるように視線を彷徨わせ、後ろ見返しを開く。
「いや……気のせい? 思い違いかな? ……司書さん、これと同じ版の本はありますか?」
「え? いや、どうだろうなぁ……棚になければ、ないんじゃないか?」
何か分かったのだろうかと、フィリップは期待も露わに児童書を棚に戻し、フレデリカの傍に近寄る。
しかしフレデリカは答えず、「だ、そうだ。先に棚を探しに行こう」とフィリップを誘導する。一日ずっと一緒にいれば腰に手を添えるエスコートにも慣れるかと思っていたが、全然そんなことは無いらしい。ドキドキしながら、フィリップはきちんと言葉にして問う。
「その本に何か仕掛けがあったんですよね? 次の場所の座標ですか?」
「いや、そういうわけではない……と思う。多分だけれどね」
多分、という曖昧な言葉のはずなのに、フレデリカは確信があるように自信満々だ。それが普段通りの振る舞いなのか、本当に確証があるのかは分からないが。
「あった、これだ。カーター君、何版か確認してくれるかい?」
「あ、はい」
先ほどカウンターで受け取ったものと同じ本を本棚から取り上げ、そのままフィリップに渡す。
渡されたフィリップは素直に裏表紙から開き、最後のページを確認した。
「55版です」
「よし、同じだ。じゃあ次は26ページの3行目を読んでみて」
なんなんだと思いつつも朗読すると、フレデリカは頻りに頷き、じゃあ次ねと先に進める。
「102ページの11行目は、なんて書いてる?」
「そこは……」
フィリップが答えると、フレデリカは喜びと呆れが混ざったような苦笑を浮かべて首を振る。
「最後だ。302ページ、24行目」
「『故にマクロコスモスは多層次元由来の剛性を持ち、最下層の物質界と第二層の魔力界からの影響を』……あの、なんですか、これ?」
「いいから、続けて?」
「はぁ。……『影響を受けない。秘匿された上位領域へ干渉するには、大前提としてミクロコスモスを──』……ここまでが24行目ですけど、続けますか?」
「いや、そこまでで大丈夫だよ。ありがとう」
お礼を言われたフィリップだが、その表情は疑問一色だ。
ここまでの暗号とは違って、フィリップには何が起こっているのか全く分からない。しかも、フレデリカは納得と疑問を綯交ぜにしたような微妙な表情だ。ここまで説明も無しにやらせるなら、せめて何か掴んでくれ。
「あの……先輩? 何か、いえ、何が分かったんですか?」
フィリップが問いかけると、フレデリカは「ここを見てくれ」と本の一部、先程フィリップが読んだ一節を指す。
『故にマクロコスモスは多層次元由来の剛性を持ち、最下層の物質界と第二層の魔力界からの影響を受けない。隔離された上位領域へ干渉するには、大前提としてミクロコスモスを──』
「ここが違うんだ。分かるよね?」
「え? いえ、全然……」
錬金術に関しては素人と言うか、こと外神関係以外には疎いフィリップが、勉強を始めたばかりの錬金術について知っていることは非常に少ない。フレデリカの示した一節が基礎なのか発展なのかも分からないレベルだ。違うよね、とか言われても、分かるはずがない。
それはフレデリカも承知のはずだが、彼女は「ここだよ? よく見て」と同じ場所を指すばかりだ。
フィリップは言われるがままにもう一度フレデリカの持っている本を凝視して、「そう言われてもなぁ」と自分の持っている本のページに目を落とし──ようやく気付いた。
単語が違う。
フィリップの持っている本では『秘匿された』となっている部分が、フレデリカの持っている本では『隔離された』となっている。
え? そういう「違い」? と怪訝そうな顔になったフィリップに、フレデリカは真面目な顔で頷きを返す。
「誤植ではないよ。30番台以降の版は手書きによる複写ではなく、錬金術による複製だ。誤植なんて起こりようがない。それで……そう、26ページのここも、102ページのここも違う。もしかしたら他にもあるかもしれないけど……まぁ、それは寮に戻ってからじっくり探そう」
「今のところは『隔離』と『秘匿』、『過去』と『歴史』、そして『叛逆』と『冒涜』ですか」
それらを含む文章が似たような意味になる単語同士ではあるものの、明確に違う単語に書き換えられている。
これは流石に、フレデリカのように同じ本を何十回と読み込んで、殆ど暗記しているような状態の人間でなければ気付けないだろう。
「私の記憶が正しければ、君の持っている方、そっちが本物だ。私が持っているこちらは、祖父が書き換えたものだろう」
「書き換えた部分を繋げると意味のある文章になるとか、何かのキーワードとか……でしょうか」
「だろうね。今日中に終わるかな……」
そこそこ分厚い本を二冊見比べながら呟くフレデリカに、フィリップはどうでしょうねと苦笑する。彼女は速読できるようだが、単語の一つ一つ、一字一句を確認しながらでは限界もあるだろう。
二人は貸し出しの手続きをして、図書館を出る。
その時に司書に「同じ本を二つ借りるのかい? なんでまた?」と訊かれていたが、彼は勝手に「あぁ、そっちの子が読むのか」と納得していた。というのは、どうでもいい話か。
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