第147話

 投石教会の地下には、フィリップも行ったことが無かった。

 聖堂の奥、居住区の一室にある階段を降りた先は、幾つかの鍵付き鉄格子扉のある、無骨で厳重な警備のされた地下通路だった。石が剥き出しでひんやりとした通路の先には、幅3メートルほどの小さな部屋が一つだけ。光源となるのは幾つかのランタンだけで、薄暗いというか、普通に暗い。


 中には幾つかの書類が収められた書棚があり、部屋の中心には展示用のようなガラスケースに収まった錫杖が横たわっていた。


 「第九代教皇が大洗礼の儀で用いた錫杖です。今から数百年前のものですね」

 「なるほど。うーん……」

 「ふーん……」


 グリッド地図とクリプト内にあった幾つかの書類を睨み付けながら唸るフレデリカと、退屈そうに錫杖を眺めるフィリップ。金や宝石が所々に使われた、絢爛豪華とは言えずとも決して地味ではない逸品はしかし、少年心には刺さらなかったようだ。


 マザーはあまりに暇そうなフィリップを見かねたのか、退屈しのぎに書棚を見ていた彼を背中から抱き締め、耳元で囁く。


 「フィリップくんは魔導書を探しているのよね? そんな面倒なことをしなくても、言ってくれたらなんでも用意してあげるわよ? ナイアーラトテップが狂人に書かせた魔導書も、ハイパーボリアの魔術師が残した手記も、セラエノ図書館にある石碑も、ヨグ=ソトースの写身だって」

 「……どれも要りません」


 特に最初のやつと、最後のやつ。内容次第だが、今のフィリップでさえ持て余しそうだ。というか、フィリップとフレデリカは魔導書や神を冒涜する書物が欲しいわけではなく、彼女の祖父が遺したものを探しているだけに過ぎない。


 それに──


 「貴女がくれた智慧があれば、そんなものは不要でしょう?」

 「フィリップくん……!」


 何も考えずに、正確にはここ最近味わっていなかったせいで耐性の薄れていたマザーの抱擁、本能的幸福感と理性的嫌悪感を混在させ、更には単純な温かさと柔らかさといい匂いで脳を蕩けさせるそれによって、何も考えられなくなっていたフィリップは、本心をぽろりと溢す。


 感極まったように抱き締める力を強めるマザーと、強烈な多幸感と眠気に抗いきれなくなってきたフィリップ。

 ナイ神父はそんな二人に明確な嘲笑を向ける。


 フィリップにとっての人類圏外産の魔導書は、答えを知っているパズルのようなものだ。

 そこに記された知識、特に著者たちが秘奥や禁忌とする邪神たちの名前や性質なんかは、読むまでも無く知っている。むしろ領域外魔術習得という副産物の方がありがたいくらいだ。


 ──なんて、そんなをしてしまうのは、フィリップに与えられた視座が高すぎるが故だろう。

 如何に人外のものが書き記した魔導書、或いは人類以外のものについて書き記した魔導書とはいえ、邪神の名前や性質に主眼を置いた代物はそう多くない。魔導書の中で最も多いのは、神格以下の神話生物──たとえばハスターの眷属であるビヤーキーや、クトゥグアの配下である炎の精といった、フィリップが脅威とも思わないような存在について書かれた、カルト間、或いは人外生命体間で出回る「危険存在リスト」のような代物だ。


 フィリップが「まぁそのレベルが出てきたら諦めて神格招来を使おう」と考えるレベルの神話生物たちだが、それらを一応は人類が独力で対処できる存在にまで貶められる。魔導書には、そういう便利な知識が詰まっているものもあるのだが。


 まぁ、フィリップが自分から「欲しい」と言ったところで、そんなを教えるつもりは、ナイアーラトテップにはないのだけれど。


 「あの、ナイ神父はどう思われますか?」


 フレデリカが頬を赤らめながら、たった一歩分だけ距離を詰める。

 その勇気ある一歩は、結果としてナイ神父に嘲笑を浮かべさせるだけの効果はあった。ただしその宛先は、慌ててマザーの抱擁から抜け出し、頭を振って眠気を追い払いながら、フレデリカとナイ神父の間に割り込もうとするフィリップだったが。


 「な、何か分かったんですか?」

 「え? あ、あぁ。ここの資料によると、第九代教皇イナウディトゥム1世は破戒妻帯者で、第十六代教皇の父親でもあったらしい。その錫杖が使われたのは大洗礼の儀が定着し始めたばかりの頃で、第六回目のことだそうだよ。……ぱっと抜き出せる数字は、このくらいなんだ」

 「数字が三つ、組み合わせは六通りですか。いま……三時くらいなので、六ケ所も回れませんよ」


 午後七時くらいには帰路についておきたいから、残り探索時間は四時間くらいだ。移動時間も考えると、残り二か所と言ったところか。

 まぁ、今日中に回り切れなくても、明日はまだ日曜日だ。“使徒”がいなくなったのなら焦る必要もないだろう。


 「そうだね。今日はあと二つくらいにして……また、今度にしようか。奴らが追ってくることは、もう無いのだし」 

 「そうですね」


 と、今後の予定を立てた二人に、「少しよろしいですか」とナイ神父が口を挟む。


 彼はフレデリカが向ける熱の籠った視線を完全に無視し、フィリップの向ける胡乱な視線に嘲笑を返してから言葉を続ける。


 「私が思うに、君たちの推理には無駄が多いです」

 「無駄、ですか?」


 間違っている、とか、惜しい、とかではなく、無駄が多い?

 ナイアーラトテップのことだ。暗号の解き方も答えも、“宝物”の在りかも、その正体さえ知っていても不思議はない。だから、そう言われたこと自体に不思議は無いが──内容は、少し不思議だった。


 「……どうしてそう思うのか、と聞く前に、もう一つ質問があります。僕たちの探している“宝物”が何なのか、どこにあるのか。それを聞いたら、答えてくれますか?」


 フレデリカが“神を冒涜する書物”を探していると聞いた時点で、ナイ教授に聞こうと思わなかったと言えば嘘になる。


 それは人類圏外産の魔導書ではないのか。

 彼女の祖父は発狂してはいないか。

 これは──ナイアーラトテップおまえの差し金か。と。


 しかし、ナイアーラトテップがフィリップに対して試練を課すときは、必ず事前の通告がある。一部分だけしか教えてくれないこともあるが、悪魔の時は「狙われるから自衛能力を身に付けろ」と、ステラが巻き込まれた試験空間の時は「対応力を見る試験をします」と、説明があった。


 ならば今回のこれは、少なくともナイアーラトテップの絡まない事件──迷宮で遭遇したアイホートの雛のような──だと、そう判断した。


 では手伝ってくれるかというと、それも怪しい。

 基本的に、彼ら二柱の行動基準はフィリップを守ることにある。脆弱極まる人間の身であるフィリップを、白痴の魔王の意図なき命令によって守護する。それが、彼らが宇宙の中でも辺境にあるこの星に化身を送り込んだ理由だ。


 フィリップが現代魔術実技で赤点を取りそうになっていても、靴紐を踏んで昼食の乗ったトレーをひっくり返しそうになっていても、体育の授業で数人を巻き込むレベルの大転倒をしても、何ら介入は無かった。交流戦の時だって、脱臼、骨亀裂、脳震盪と小さくない怪我をしてきたが、ナイ神父は寝ているフィリップを煽りに来ただけだ。


 根本的に、彼らはフィリップの護衛であって、配下ではない。

 フィリップの望みを叶える便利要員ではなく、融通の利かない敵対存在迎撃装置だ。しかもおそらく、迎撃対象になるのは最低でも旧支配者クラスから。


 「おや。君はパズルが解けないからと、親に泣きつくタイプの子供でしたか?」


 ナイ神父の嘲笑と返答は、予想に違わないものだった。


 「聞いてみただけです。それで、無駄とは? わざわざ言ったからには、ヒントくらいはくれるんですよね?」


 ただの煽りとか意地悪ではないだろう。そう確信を持てる程度には、フィリップはナイアーラトテップという存在を信頼している。

 

 「えぇ、勿論です。まずは出題者の意図を考えてください。ラインハルト氏は、どうして暗号を使い、その隠し場所を秘匿したのか」

 「それは……“使徒”に追われていたから、ですか。初めはレクリエーションかと思っていましたけど」


 フィリップの答えに、フレデリカも頷く。

 彼女の祖父の死体と、カルト狩りの“使徒”の存在を知るまでは、二人はずっと遊びの一環だと思っていた。フレデリカは「昔こうやって遊んだな」と懐古に浸っていたし、多少の懸念を抱いていたフィリップも、心の何処かでは「お土産なんだろうな」という甘い考えを持っていた。


 しかし、事ここに至り、そんな悠長なことは言っていられない。

 「それ」は少なくとも、教皇庁がカルト狩りの部隊を派遣し、人一人を拷問して殺し、子供二人を殺すほどの何かだ。


 カルト由来の何かか。或いは。


 「では次に、妥当性を考えましょう。教皇庁に追われていることを知った彼は宝物を隠し、暗号を遺しました。教皇庁に追われている彼が、果たして、教会にそれを隠すと思いますか?」

 「確かに……いや、そもそも」


 そもそも、教皇庁が手出しを控える魔術学院構内から、フレデリカを出させるだろうか。そこに居れば、風属性聖痕者である学院長の結界魔術と、他二人に迷惑をかけるかもしれないという懸念が、彼らの足を止めるはずだ。

 わざわざフレデリカを校外に出し、危険に晒すような隠し場所、暗号を用意するとは考えにくい。


 「はい。本来、この暗号は魔術学院内に居ながら完結する、させられるように組まれているはずです。しかし、君が解き損ねた場合、或いは君以外の誰かが解こうと試みた場合のために、安全弁を組み込んだ遠回りルートも用意されている。君たちはそちらを通って、ここまで来たというワケですね」

 「無駄の多い、遠回りルート……。安全弁というのは、私の顔を知っている酒場の店主のことですね」


 信頼のおける知人に「孫娘が来たら渡してくれ」と手紙を託すのは、悪い手ではないだろう。


 ただ、相手はカルト狩りのプロだ。

 カルトを庇う奴は、イコール、カルトだ。そう見做して全員殺す。手紙は殺した後で探せばいい。少なくともフィリップならそう考えて行動するし、“使徒”のあの感じを見るに、彼らも同じだ。


 「……あの人、殺されてないといいですけどね」


 コップ一杯の水を貰った程度の恩だし、もう顔も思い出せない程度の関心しか無いが──それでも、善人がポコポコ死ぬのは気分が悪い。


 誰にも聞こえないように呟いたつもりのフィリップに、ナイ神父の嘲笑が向けられる。

 それに目敏く気付いた次の瞬間には店主の末路にも察しが付くが、特に何の感情も湧いてこなかった。


 これはよくないぞと頭を抱えるフィリップと、それを愛おしそうに背後から抱き締めるマザーを置いて、ナイ神父とフレデリカの会話は続く。


 「地図があれば、魔術学院の中にいても隠し場所に見当が付く、ということですか?」

 「微妙に違いますね。正確には、この暗号自体が遠回りです」

 「暗号自体が? 暗号を解かなくてもよいと?」

 「えぇ、そうです。少し考えれば──おっと、フィリップ君! お昼寝なら上の階でしてくださいね?」


 ナイ神父が一割増に張り上げた声が地下空間に木霊して、立ったまま、マザーに抱き締められた状態でうたた寝しそうになっていたフィリップを飛び起きさせる。


 「……一度、上に戻りましょうか。ここは暗いですからね」




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