第146話

 第三者の介入にこれ幸いと逃げ出したフィリップとフレデリカは、幸運にもフィリップの良く知る大通りに出られた。

 ここまで来れば、後は勝手知ったる道。夜中にベッドを抜け出して走ったことさえある道だ。道沿いの店も、そこで働く人も、そこの客すら顔見知りだったりする。


 「こっちです! あともう少し! あ、こんにちは! お久しぶりです! いま物凄く急いでるので失礼します!」


 奴ら──“使徒”とかいう連中は、追ってくるだろうか。いや、十中八九、追ってくるだろう。


 一瞬しか見えなかったが、乱入した二人はどちらも剣士のようだった。腕に覚えはあるのだろうし、交戦距離なら彼らが有利かもしれないが、相手は魔力障壁をウルミの一撃に間に合わせて展開する、高度に訓練された戦闘魔術師だ。しかも、防ぎ切るだけの強度もあった。


 腕利きの剣士相手でも撤退くらい容易だろうし、最悪、剣士の方が返り討ちに遭っているかもしれない。その場合は何処の誰かは知らないが、首を突っ込んだ自分を恨んでくれ。


 「良かった! 今日は空いてますね!」


 住宅地の片隅にある小さな道は、いつぞやと違って行列で埋まってはいなかった。

 もし「並びなさいよ!」とか言われた所為で追手に捕まったら、間抜け過ぎて笑ってしまう。


 「ここかい? 思っていたより普通の教会だね」

 「あぁ、はい。名前はちょっと変ですけど、教会自体は普通ですよ」


 教会自体は。


 「無事に辿り着けましたね……。もう大丈夫です」


 たぶん。

 事情を話せば、二柱の外神に保護された状態で魔術学院まで戻れるはずだ。何なら既に事情を知っていても可笑しくないし、ナイ神父に「あぁ、あの連中ならもう片付けましたよ」とか言われる可能性だってある。


 いや……本当に大丈夫か?

 ナイ神父はともかく、マザーは「貴女がフィリップくんを巻き込んだのよね? そう。蜂は仲間を呼んで襲うというけれど、その類かしら」とか言って、彼女諸共に攻撃するかもしれない。


 「その、本当に大丈夫だと思うかい? カーター君」

 「な、何がですか!?」


 タイミングの良すぎる質問に、思わず声が裏返る。

 まさか声に出ていただろうかと口を隠したフィリップに、彼女は不思議そうにぎこちない笑顔を向ける。どうやら杞憂だったようだ。


 とはいえフレデリカの顔に浮かんだ不安は本物で、フィリップが考えていた冗談のような危険性──冗談じみているのは言葉の上だけで、外神を知ってしまうと全く笑えない──に触発されたという感じではない。彼女は彼女の思考に基づいて、何か懸念を抱いたようだ。


 「“使徒”は教皇庁の部隊だよ? 教会は如何なる政治的干渉も受けないという建前だけれど、それでも教皇庁が統括する組織、施設だ。“使徒”から私たちを匿ってくれるかどうか、信用しきれない」


 なるほど、とフィリップは頷く。

 フィリップだって、ここが単なる教会であったのなら、そこの神官とどれだけ懇意であったとしても、避難先には選ばないはずだ。たとえそこが次なる目的地であったとしても、正面から入ることはせず、裏口からこっそり侵入するとか、とにかく人目につかないようにしただろう。


 でも、ここは大丈夫だ。

 彼らはフィリップの命令を何でも聞いてくれて、望む未来へ連れて行ってくれるデウス・エクス・マキナではないが、フィリップの味方であることだけは確実だ。


 「大丈夫ですよ。信じてください」


 言って、よく手入れのされた玄関扉を開ける。


 さっき訪ねた聖果教会とは違い、投石教会は小規模なバシリカ型教会だ。

 多くの人が訪れ活気ある教会というわけではなく、さりとて誰も来ない寂れた教会というわけでもない。閑散としていながらも、確かにここを訪れ祈りを捧げた人々の残り香のようなものが感じられる、身近で居心地のいい教会と言った風情がある。


 扉を開けるとすぐに回廊があり、最奥の顔の無い聖女像まで伸びている。

 聖女像の前に据えられた祭壇に向かって祈りを捧げていた神父は、扉の開く音に反応してゆっくりと立ち上がり、その緩慢な動作のままに振り返った。


 「やぁ、フィリップくん。お久しぶりですね」


 


 ようこそ投石教会へ。そう言って慇懃に一礼する、長身痩躯の神父。

 先ほど会った聖果教会の老神父とは違い、まだ年若い。二十代だろう。だというのに、その所作は彼より、いや、これまでに見たどんな神官や騎士よりも洗練されて美しかった。一礼して、顔を上げて、微笑を浮かべてこちらに歩いてくる。その一歩ごと、一挙動ごとが、老成という表現が不足するほどの歳月と研鑽を感じさせる。


 浅黒い肌と漆黒の髪、同色の双眸は、王国人ではないことを明らかに示している。

 この世のものとは思えないほどに整った顔立ち。すらりと長い手足。光を呑むような漆黒のカソックに、胸元で揺れる金色の十字架。


 ──完成している。


 フレデリカ・フォン・レオンハルトは、そう思った。


 フレデリカですら憧れる美しさの化身、ルキアにも劣らない──有り得ないことだが、単純な容姿の美しさだけなら勝っているとすら思える。そのうえ、フレデリカが見たどんな演劇より所作の一つ一つが洗練されている。

 彼の容姿、振る舞い、雰囲気。その全てに一片の粗もなく、ほんの少しの改善点も見つからず、見ているだけで放心してしまうような趣がある。目に入る全ての要素、彼を構成する全ての要素が、フレデリカの心を強烈に揺さぶっていた。


 「あ、あの!」


 声が上ずる。鼓動が高鳴る。顔が熱い。


 「どうされましたか? お祈りなら、どうぞ奥へ。それ以外でしたら、私がお伺いします」


 低く、それでいて穏やかな声は、とても耳触りが良い。

 こちらを萎縮させないようにという心遣いの窺える少し深めの微笑からは、彼の優しい性格が読み取れる。


 あぁ、私はいま、とても見てはいられない顔になっているだろう。

 そう自覚したフレデリカはしかし、赤らんだ頬を冷ますことも、早鐘を打つ心臓を抑えることもできず、ただただ茫然と彼を見つめていた。


 「ナイ神父、マザーはどちらに?」

 「おや、恋しいですか」

 「笑えない冗談ですね。姿が見えなかったので、気になっただけです」

 「先程、君の……いえ、モニカちゃんが来て、一緒に出掛けました。服飾店辺りに居ると思いますよ」


 二人の会話も、フィリップの愕然とした顔も、その後の慌てふためく様も、見ているのに、聞こえているのに、何も感じられない。視覚と聴覚で情報が終わって、理解や感情に繋がらない。


 「モニカと!? きょ、今日が初めてだったりしませんよね?」

 「ご安心を。今では休日のルーティン、週に一度のお出かけは日常ですよ」

 「そ、そうですか。それなら、まぁ……」

 「君の帰還には気付いているでしょうし、そろそろ帰ってくる頃合いでしょう」


 二人の会話が一段落するまでの時間を放心に費やして、フレデリカは漸く、多少の理性を取り戻す。


 彼女が落ち着きを取り戻して真っ先にしたことは、軽く咳払いして喉の調子を確かめることだった。その一挙動は図らずも、絶対安全圏に入ったことで気の抜けたフィリップに、いま置かれている状況を思い出させる効果があった。


 「あ、先に紹介するべきでしたね。先輩、こちらは投石教会のナイ神父です。ナイ神父、魔術学院の先輩、フレデリカ・フォン・ラインハルトさんです」


 フィリップの仲立ちに従って挨拶を交わす二人。フレデリカにしては珍しくガチガチに緊張していて、自然体のナイ神父と対照的だった。


 普段の凛とした彼女を良く知るフィリップだが、驚きはない。なんせ、相手はナイ神父──ナイアーラトテップの化身だ。その身に纏う美は同性でさえ魅了する人外のもの。鏡を見れば人類最高の美貌がいつでもそこにあるルキアだって、マザーの容姿には瞠目する。……ナイ神父に対しては、どうやら恐怖の方が勝るようだけれど。


 フレデリカは訥々と、二人の置かれた状況を語る。

 「神を冒涜する書物」を探していたこと。初めは単なる土産物だと思っていたそれは、どうやら“使徒”が狙う本物らしいこと。祖父が殺され、自分たちも追われていること。ここには単に避難してきたわけではなく、次の暗号か、或いは「神を冒涜する書物」そのものがあること。


 教会の安全性に不信感を持っていた彼女と同一人物とは思えないほど、正直に、詳らかに語り終えて漸く、フィリップの向ける生温かい視線に気が付いた。


 「……彼は信用できると思ったんだ」

 「……そうですか」


 別に責めてはいない。貴公子然として、そこらの男が霞むほどカッコいい彼女の、珍しい一面が見られたのだ。喜びこそすれ、怒ることはない。


 フィリップとフレデリカの会話が一段落するまで待っていたのか、少し空いた言葉の空隙に、ナイ神父が蛇のように滑り込んでくる。

 普段は何とも思わないことだが、今は、そしてについては、割り込んででも教えてほしかったことを、自然な調子で告げた。


 「“使徒”というと、彼らのことですね?」


 ナイ神父が挨拶と変わらない穏やかな調子で示した先の玄関扉が、ゆっくりと開いていく。ちょうど日の差し込む時間帯で逆光だったが、カソックにも似たローブのシルエットははっきりと判別できた。


 間違いない。さっきの二人だ。もう追い付いたのか。

 そう身構えるべき場面ではあったが、フィリップも、フレデリカも、およそ警戒と呼ぶべき動作を何一つとして取らなかった。ウルミも抜かない、魔術照準もしない、錬金術製道具も構えない。ただそこに立って、ナイ神父を見ているだけだ。


 「……我々は教皇庁外務局諜報課、“使徒”だ。そこの二人には暫定カルトの容疑がかかっている。こちらに引き渡して貰おう」


 神父といえば一神教でもそれなりに高位の神官のはず。王都で教会一つを任されるほどの相手ともなれば、尚更。

 ナイ神父個人がどうこうではなく、神父を相手に居丈高に命令できるということは、“使徒”は教会内部ではそれなり以上の権力と知名度を持っているということだろう。


 だから


 「お断りします」


 と、ナイ神父が彼らの命令を端的に切り捨てたことは、青天の霹靂だったに違いない。

 その衝撃には眼前の神父の顔をまじまじと見つめ、どこのどいつだと確認させる程度の効果はあった。


 そして、使徒の二人は同時に膝を折った。

 頽れたという意味ではない。ローブを翻し、フードを取って跪いたのだ。


 「失礼いたしました、。まさか、王都の教会にいらっしゃるとは」

 「使徒テネウ。そして使徒シメオン。まずは、任務に忠実な貴方達を労いましょう」


 怪訝そうな視線を向けるフィリップに一瞬だけ嘲笑を向け、すぐに聖職者らしい微笑に切り替えたナイ神父は、使徒二人の頭に触れる。

 洗礼を授けるような仕草を受け容れた二人に、彼は穏やかに、迷える子羊を導く聖人のように語り掛ける。


 「此度の任務はそれそのものが間違っています。レオンハルト教授は確かに幾度となく神を貶めるような研究を発表してきましたが、それでも、家族を思い遣る心を持った人でした。たった一人の孫娘に研究を託すような悪人ではありませんでしたよ」

 「……はい、神父様」


 ここを訪れた瞬間とは打って変わり、しおらしくなった二人が異口同音に答える。


 「フィリップくんは、私が特に大切にしている子です。魔術だけでなく、私しか知らないようなことも教えています。そんな彼が、カルトであると思いますか?」

 「……いいえ、神父様」


 二人は深々と、反省を示すように項垂れる。

 ナイ神父は、その頭をまるで幼子にするようにぽんぽんと撫でて立ち上がった。


 「撤収を。後のことは私に任せて、貴方達は後詰めの部隊を引かせてください。それと、もし今後また何らかの勘違いでフィリップくんが襲われたら──」


 そんなに離れていないはずなのに、ナイ神父の言葉の最後が聞き取れなかった。

 跪いて頭に手を当てた状態で話していたことまで聞こえる距離なのに。口は動いていたし、何より使徒の二人が顔を蒼褪めさせている。何か言ったのは間違いないはずだが。


 「か、畏まりました」

 「直ちに命を実行します」


 言って、二人は淀みの無い動作で立ち上がり、ナイ神父に一礼する。そしてフィリップとフレデリカの方にも深々と謝意の籠った礼をしたあと、たったいま入ってきた玄関扉に向かった。


 「……暗示とかですか? 洗脳?」

 「いえ、純然たる地位と権力です」


 フィリップはひそひそと問いかけるが、彼の目は依然として光を呑むような漆黒で、極彩色に輝いていたりはしない。尤も、彼が権能を使う時に瞳が輝くのは単なる演出で、その気になれば無挙動で世界だって滅ぼせるのだが。


 どちらがより悪辣なのかと考えたくなることを、にっこり笑って言うナイ神父。

 この場凌ぎの認識改竄ではなく、本当に彼らより高位の神官の地位を持つ化身らしい。

 

 「あぁ、君には話していませんでしたね。私は教皇庁外務局諜報課長“使徒”第一席、聖ペトロの名を戴く、彼らの指揮官です」


 ナイ神父は堂々とそう言って、フィリップに感情の読めない微笑を向ける。

 そんな、と、驚愕の声を漏らしたのはフレデリカだけだ。フィリップは「ふーん」と興味も無さそうに適当な相槌を打つ。


 それも当然だろう。

 ナイアーラトテップの化身に付随する情報なんて、ヤツの気分次第で書き換わる。普通の人間の歴史──どこで生まれ、何をして育ったのかという情報が石に刻むものだとしたら、化身のそれは黒板にチョークで書いたような、加筆も削除も訂正も自由の薄っぺらいものだ。


 「それで──」

 

 どぐちゃっ、と。無理に擬音にすればそんな感じの、柔らかいものが何かにぶつかって潰れたような、大きな湿った音が耳に障る。思わず言葉を切ったフィリップは、身を竦ませたフレデリカと共に音源の方──ついさっき、“使徒”の二人が出て行ったばかりの玄関扉の方を見た。正確には、その奥、見通せもしない外側を見ようとして。


 こつ、こつ、と、硬質な靴音が微かに聞こえて、玄関扉が開く。


 一瞬の逆光は不自然に赤みがかっていて、向こう側の惨状を否応なく想起させる。そして一瞬の後に、闇を切り出した色の喪服に身を包み、顔をヴェールで覆い隠した女性が姿を見せた。


 「……マザー」

 

 熱に浮かされたように、或いは自然に、フィリップの足が動く。

 フィリップにとっては業腹なことかもしれないが、足早になっていることにすら気付かず彼女の下に向かう様は、久々に母親に会った子供の仕草そのものだった。


 「フィリップくん。久しぶりね」


 しばらくの間されるがままに愛玩されたフィリップは、多幸感と眠気に覆われた頭を振りながらフレデリカのところに戻る。しかし、戻ってきた時には、既に二人の間で話がかなり進んでいた。

 よく観察するとフレデリカの目が腫れていて、ナイ神父の胸元が微かに濡れていることが分かるが、睡魔と戦うフィリップにそんな余裕は無かった。


 尤も、フィリップが万全の状態だったとしても、死した祖父と、使徒が撤退したことで最早叶わぬ復讐を思って泣く彼女を見て「ああそうだった」と、失くした人間性を想って悲しむだけだが。


 「──なるほど、クリプトの聖遺物ですか。確かに、この教会にもありますよ」

 「それを見せて頂けますか? 或いは、どういうものかを教えていただきたいのですが」


 いまどういう話をしているのだろうと黙って聞いていた──殆ど頭が回っていないのも理由の一つだが──フィリップに、ナイ神父が確認するような一瞥をくれる。


 フィリップが答え代わりにこくこくと頷くと、ナイ神父は仮面のような微笑をフレデリカに向けた。


 「フィリップくんのためとあらば、是非もありません。ご案内しましょう」


 どうぞこちらへ、と先導して歩き出したナイ神父に続きながら、後ろを歩くフィリップと、そのさらに後ろを歩くマザーを順番に見るフレデリカ。彼女の視線を受けたフィリップは「なんですか?」と首を傾げるが、この状況でなんですかも何もあったものではない。


 「キミのためならとか、お二人の反応とか、……そもそもサークリス聖下の対応とか、キミって本当は」

 「違います」


 何を言われるのか分かったフィリップは、彼女の言葉を食い気味に否定した。



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