第144話

 ほぼ自虐の説明もそこそこに、フィリップは「さて」と気持ちを切り替えて、倒れ伏した男を見遣る。


 ステラではないが、合理的に考えるなら、いま殺しておくべきだ。

 この男は、どういう訳か“神を冒涜する書物”について知っていた。カルトがそれを求めることに違和感はないが、どうやって知ったのかには多少の疑問が浮かぶ。


 まぁ、それは単なる好奇心だ。いま重要なのは、こいつが人を拷問し、殺してでもそれを手に入れようとしていること。フィリップとフレデリカの前に、敵として立っていることだ。もう寝ているが。


 今なら抵抗も受けず、何なら領域外魔術を使うまでも無く殺すことが出来る。


 「先輩、こいつ──」

 「……先を急ごう、カーター君」

 「今のうちに……え? 続けるんですか?」


 フレデリカの発した意外な言葉に、フィリップは思わず聞き返す。

 「衛士を呼んできて」とか「魔術学院に帰ろう」とかなら、従うかは別にしても納得はできる。だがまさか、祖父を殺された彼女が率先して進もうとするなんて。


 「……あぁ、すまない。気が回らなかったよ。一先ずは衛士団の詰所に寄ろうか。神を冒涜する書物はその後、私一人で探すよ」

 「あ、いえ、そうじゃなくて」


 この状況でフィリップの心配をする余裕があるのは頼もしいが、些か異常とも言える。

 その双眸に狂気の色が混ざってはいないかと観察するような視線を投げたフィリップに、彼女は誤魔化すような笑顔を返す。


 「私なら大丈夫だよ。むしろ──」


 フレデリカが言葉を言い終える前に、玄関のドアノッカーが硬質に響く。

 こんこんこんと三度鳴っただけのそれは日常にありふれた音のはずなのに、二人は同時に、そして明確に「不味い」と感じた。


 このタイミングでの来客。

 いや、もちろんご近所さんとか手紙の配達とかかもしれないけれど、どうしてか直感的に感じたのだ。開けてはならない。ドアの前には敵がいる、と。


 「先輩」

 「あぁ、話は後だ。裏口から出よう」


 迅速な、そして齟齬の無い意思疎通を終えた二人は裏口を飛び出す。

 フィリップは最後に「殺すべきかな?」と男を一瞥したが、結局止めた。理由は単純かつ感情的なもので、昏睡状態のまま死ぬなんて甘い死に方は、カルトの最期には相応しくないと思ったからだ。もっと苦しんで死ね、と、そういうことである。


 家と家の隙間を通り抜け、裏路地を走る。目指す先は、一先ずは人通りの多い大通りだ。


 路地と比べて明るく、休日ということもあって活気のある大通りまで出た二人は、大きく深呼吸する。

 全力疾走は一分そこらだったけれど、腐臭漂う家から出てきたのだ。ただの町中の空気でさえ美味しく感じる。


 しばらく息を整えて、二人は通常のペースで歩き始めた。


 「はぁ、はぁ……二人目も昏倒してくれてると嬉しいんですけどね」

 「そうだね。でも、あれは即効性重視で持続性は薄いんだ。十分もすれば目が覚めてしまうよ」

 「そうなんですか。なら、今のうちに投石教会に逃げましょう」

 

 フィリップの言葉は、ナイ神父が聞けば嘲笑を、マザーが聞けば愛玩の冷笑を浮かべるものだ。

 投石教会に逃げるという言葉の裏には、「あそこは安全だ」という強固な認識がある。ナイ神父とマザー──ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスへの信頼が、その認識の根幹だ。フィリップは「そんなことはない」と言うだろうが。


 「あぁ、いや……どうだろう。ここから離れることには大賛成なのだけれど……」

 「え? さっきの暗号は投石教会を指していたのでは?」


 真剣に悩んでいる様子のフレデリカに、フィリップは首を傾げる。

 投石教会がゴールなのか、それともただの経由地点なのかは不明だけれど、先に進むのなら次はそこのはずだ。


 「それは、そうなのだけれど。……さっきの男、あれは多分、“使徒”と呼ばれる教皇庁の秘密組織の一員だ」

 「…………え?」


 なにそれ、とか。何でそう思うの、とか。秘密組織なのに何で知ってるの、とか。色々と思い浮かんだ疑問の出力が間に合わず、たっぷり五秒は絶句してから、たった一文字を捻り出したフィリップ。


 言葉不足に過ぎる疑問文にしかし、フレデリカはそこに込められたすべての疑問をしっかりと汲み取っていた。


 「一神教の教えに対する重篤な違反──たとえば棄教や冒涜のような大罪を犯した者を秘密裏に殺す、教皇庁の刃。枢機卿の指先。大陸中でカルトを拷問して殺している、なんて噂もあるよ」

 「へぇ、それはまた」


 カルト殺し、それも苦しめて殺す集団とは。それは何とも、フィリップ好みの性質だ。残念ながら、フィリップも討伐の対象になりそうだが。


 フィリップがまともな人間だったのなら、仲間にしてくれと頼んでいたかもしれないけれど、その場合はそもそもカルトに対する憎悪が無い状態だ。カルト狩りに対するモチベーションも無い。どうあっても仲良くできそうにない相手だ。


 ……いや、今はフィリップの個人的感想なんてどうでもよくて。

 

 重要なのは、そのカルト狩りがフレデリカの祖父を殺したこと。そして、フィリップとフレデリカをも敵視しているらしいことだ。


 「つまり、僕たちもカルトだと思われてるってことですか? 先輩のお爺さんも?」

 「あぁ。そして恐らく、“神を冒涜する書物”は……だ」


 重々しく言ったフレデリカに、フィリップは頭を抱える。


 教皇庁が「神を冒涜する書物」と定義したからといって、それが人類圏外産の魔導書だという証拠にはならない。単なるカルトの教典だとか、聖典に対する批判文だとか、率先して焼く必要も無いような紙切れである可能性の方が高いくらいだ。


 だが依然としてゼロではない。それが人間社会を汚染する智慧を記した本物の禁書である可能性は、決してゼロではないのだ。


 フィリップがそれを探し続ける理由は、未だ消えていない。

 事前に危惧していた「神官に怒られる」なんて甘いレベルではなく、教皇庁の秘密組織まで出張ってくる事態になってはいるが、投石教会まで逃げればフィリップの勝ちだ。


 問題は──


 「カーター君。キミは学院に戻るべきだ。衛士団の詰所に行って、事情を話して護衛して貰うといい」


 善意と道徳心でフィリップを遠ざけようとする、フレデリカへの対処だ。

 “宝物”を独占しようとか、意地悪してやろうとか、そんな邪念が一切籠らない、純然たる配慮なのは分かる。フィリップが教皇庁に睨まれたり、破門されることの無いようにと、心配してくれているのは分かる。


 だが、何故フィリップだけなのだ。


 「先輩こそ、学院に帰ってください。僕は最悪の場合でもルキアと殿下に頼れますけど、先輩には何の後ろ盾も無いでしょう?」


 奴はフレデリカのことを知っていたが、フィリップのことは知らなかった。単なる連れだと、そしてすぐに殺す相手だからと、名前さえ訊かなかったほど興味を持っていなかった。


 いま狙われているのは「神を冒涜する書物」であり、それを見つけられるフレデリカだ。


 奴らが彼女がそれを見つける前に殺すのか、見つけた後で諸共に焼くつもりなのかは不明だが、フィリップとしてはどちらも御免だ。……もし“宝物”が人類圏外産の魔導書で、読んだ彼女が発狂した場合は別だが。後始末をしてくれるというのなら、任せることに抵抗はない。


 まぁ、それはさておき。

 フレデリカを帰したあと、彼女抜きで暗号を解読できるかという問題は残るものの、それも最悪、ナイ神父に頼れば一瞬で解決する。


 さてどうやって説得するかとフィリップの脳細胞が過熱し始めた、その直後だった。


 「見つけましたよ、お二方」


 首筋に刃が触れたような、底冷えのする声。

 休日の大通りの賑わいを縫って、二人の耳を刺すような女の声だった。


 慌てて振り向いた二人の前に、先程の男と、同じく黒いローブを着た女の二人組が立っている。


 「……お、驚いたな。薬剤に耐性があるのか」


 フレデリカは声と身体を震わせながら、フィリップを庇うような位置に立とうと動く。しかし、彼女は医学的な意味で人の生死に触れてきたのかもしれないが、戦闘に、次の瞬間には自分が死んでいるかもしれないという状況には不慣れだ。


 恐怖に塗れた緩慢な動き。逃げ場を探したいのに、敵に焦点が合い続けるせいで彷徨い続ける視線。一刻も早くこの場から逃げ出したいのに、震えて思い通りにならない手足。

 

 何ともまぁ、無様なことだ。普段の貴公子然とした──演劇の登場人物のような立ち振る舞いはどこへやら、これでは普通の人間だ。

 

 けれど、まぁ──に立たれると、どうにも弱い。

 被って見えるのだ。フィリップを守って死地に赴いた衛士たちに、あの美しい人間性を見せてくれたルキアに。


 時と共に薄れつつあった憧れが、強烈に想起される。

 こんな時、彼らなら、彼女ならと、そう考えさせられる。──いや、考えるまでもない。


 「……先輩、下がってください」

 

 ベルトに巻いていたウルミを抜き放ち、威嚇を兼ねて調子を確かめるために振るう。ひゅん、ぱしん、と鋭い音の連続に、道行く人が何事かと顔を向け──迷惑な子供だと顔を顰めて歩き去る。


 「鉄鞭、いや、ウルミか。妙な武器を使うな」

 「僕の体格で敵を殺すなら、これで首を叩き折るのが早いですからね。それに、体力も使わなくていい」


 言葉と行動の二つによる威嚇は、フィリップらしからぬ行為だ。

 威嚇というのは、圧倒的格下に向けるには不似合いな行為だから。狼は兎相手に唸ったりしないし、ドラゴンはゴブリン相手に翼を広げたりしない。人間だって害虫相手に威嚇したりせず、速やかに踏み潰す。


 普段のフィリップだってそうする。

 人間も、悪魔も、旧支配者も、外神の落とし仔も、一様に無価値なものだ。わざわざ「殺すぞ」なんて恫喝をしたり、どう殺すかを話して恐怖を煽る必要はない。


 今のフィリップの彼らしからぬ言動の裏には、ウルミを用いた近接戦闘能力に対する不信感があった。

 要は、殺し切れる自信が無かったのだ。あわよくば退いてくれないかな、なんて期待さえ抱いている。


 「おじさん達がカルトじゃないなら、僕も苦しめて殺す理由はありません。ただ──」

 「だが、俺たちはカルトを殺す。たとえ貴様のような子供でも」


 ──この腹立たしい勘違いさえ解けるなら、今の殺意の希薄な状況を維持できるのだけれど。


 「一応、言葉にして訂正しておきます。僕たちはカルトではありません。僕たちはただ、彼女のお爺さんの土産物──おじさんの所為で形見になってしまった本を探しているだけです」


 まぁ、これで、人間的道徳への義理立ては済んだだろう。次に僕をカルトだと言ったら殺そう。


 離れたところを飛ぶ羽虫を見るような目で二人を見つめながら、後ろ手にフレデリカに向けて手を振る。「下がれ」と受け取れるボディランゲージには、正確には「逃げろ」という意図を籠めていたのだけれど、フレデリカは数歩だけ下がって動きを止めた。


 フィリップからは見えないが、彼女も彼女で複数の試験管を、いつでも投擲できる姿勢で構えている。その手足は戦闘と殺人、そして死の恐怖によって震えていたが、双眸に灯る憎悪の炎を原動力に、この場から逃げようとはしていなかった。


 「言いたいことはそれだけか?」


 眼前の二人が同時に右手を上げ、フィリップに魔術の照準を合わせる。

 殺気を感じ取れるほど武道に精通しているわけでも、人間に脅威を感じるわけでもないフィリップには分からないことだが、二人は本気でフィリップを──11歳の子供を殺すつもりだった。


 別に、それが不道徳だなんて怒るつもりはない。女子供も関係なく殺すという点ではフィリップだって同じだし、何ならフィリップは殺すという目的も無しに、巻き込んだという自覚すら無しに人を殺すかもしれない。邪悪さで言えばフィリップの方が上だ。


 男の安い恫喝──最後通牒に肩を竦め、無言のうちに「話すことはない」と返す。


 「レオンハルトは殺さないように。訊くべきことが残っています」

 「分かっています」


 二人の魔力が掌に収束し、雷の槍と氷の槍を形作る。

 無詠唱ではあったが、大きさと形状から見て初級魔術の『サンダー・スピア』と『アイス・スピア』だ。非魔術師の子供を殺すには十分かもしれないが──


 「では死──何ッ!?」


 ──こっちは、同じ魔術を光属性最強の魔術師に撃たれて鍛えられたんだ。止まって見えるとまでは言わないが、余裕で避けられる。


 「ふッ──!!」


 雷の槍を避けて振り抜いたウルミは、予備動作無しにしては十分な速度で男の顔面を襲う。


 獲った、とは思わない。

 ルキアなら魔力障壁を展開して難なく防ぐだろうし、ステラならおまけでカウンターまで飛んでくる。彼女は一人でそれが出来て、今の相手は二人組だ。同じことをしてくる可能性は十分にある。


 左手を少し動かし、女の方を照準しておく。

 

 ひゅん、と鋭い風切り音と──魔力障壁に衝突する擦過音。やはり防がれた。


 魔力障壁を展開したのは、どうやら女の方だ。

 男の方は大きくバックステップして距離を取っていた。さっきは支配魔術まで使っていたのだし、魔力残量が心許ないのだろう。


 だがしっかりと、フィリップの攻撃を見切っている。……流石に、ウルミ一本では厳しい相手か。

 

 「……どうやら、貴方を侮っていたようです」


 苦々しい口調で、女が言う。

 言葉は全く足りていないが、それはフィリップへの称賛と、自分たちの観察眼への落胆を表すものだ。


 「子供とはいえ、飛び級で魔術学院に入学するだけの才覚はあるようですね」


 相手二人の纏う空気が一変する。

 フィリップにも感じられたということは、それは戦意や殺気と言った抽象的なものではなく、活性化した魔力によるものだ。


 次は、初級魔術では済まない。そう確信できた。




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