第143話

 フィリップたちは二等地のあちこちに設置された観光用パンフレットの地図を使い、聖果教会から投石教会を目指していた。

 地図上では、二つの教会は一等地を挟んで反対側。直線距離でも10キロ近くある。実際に移動するとなると、たぶん3時間コースだ。


 流石にそれは不味いということで、お貴族様フレデリカのお財布から、御者付きの貸し馬車を使っている。


 「キミ、動物に苦手意識でもあるのかい?」

 「え? いえ、特には。どうしてですか?」

 「さっき、この馬車を引いている輓馬が、キミのことを避けたように見えたんだ。動物は人間の感情に聡いからね、キミの苦手意識を感じ取ったのかと思ったんだよ」

 「あー……あははは……」


 それは多分邪神たちの気配、月と星々の香りなるものに反応しているだけです。とは言えない。

 適当に誤魔化そうというフィリップの笑いに、フレデリカは怪訝そうに首を傾げたものの、特に追及はしてこなかった。


 馬車に揺られながらの雑談の傍ら、地図を眺めていた彼女は、いいことを思い付いたと指を弾く。


 「カーター君。少し、寄り道しないかい?」

 「構いませんけど、どちらにですか?」


 フレデリカは答える前ににっこりと笑い、御者に馬車を停めさせた。


 「すぐそこだよ。私の祖父の家がある」


 大通りで馬車を降りて数分も歩くと、閑静な住宅街になった。

 フレデリカは遠目に見えてきた一つの家を、「あれが祖父の家だよ」と示す。侯爵といえば大公のような特殊事例を除いた序列二番目の高位貴族だが、その貴族の住まいとしてはかなり小さな家だ。いや、二等地の一軒家なので、王都外にあったなら最高級レベルの建築物なのだが。


 「答えを聞くなんて無粋な真似をするつもりはないけれど、折角近くまで来たんだ。顔くらい見せて行こうと思ってね」

 「……いいですね。僕もお会いしてみたいです。……一緒に遊ばせて貰っている身ですし」


 言い訳がましく付け足したフィリップの言葉は、完全な嘘だ。

 フィリップは「お爺さんが発狂していたら確定だな」とか考えていた。“神を冒涜する書物”が人類圏外産の魔導書だと確定した後は、フレデリカを速やかに説得し、彼女の祖父を投石教会に連行、尋問して魔導書のありかを聞き出したのち、焼却しようと考えている。焼くのは魔導書と、彼女の祖父。場合によってはフレデリカにも死んで貰う。死んだ方がマシな状況、死が救済となる状況になったらの話だが。


 「律儀なんだね。そういうところ、素敵だよ」

 「え、あ、どうも……」


 フレデリカの急襲に、フィリップは思わず口ごもる。

 どう言えばいいのだろうか。女性的魅力に心動かされた、という感じではなく、むしろその逆のような。


 どきどきしているフィリップを余所に、フレデリカは久々に訪れる祖父の家に向かい、歩調を速めた。徐々にフィリップと離れていくことにも気付いていないようだし、本当に祖父のことが好きなのだろう。

 結局、ドアの前に着いたのはフィリップより20秒も早かった。


 「すまない、カーター君。つい気が急いてしまった」

 「いえ、構いません。ノッカーは鳴らしましたか?」

 「いや、鍵は持っているから、このまま入ろう。お爺様を驚かせようじゃないか」


 ぱちりとウインクするフレデリカ。普段は凛として堂々とした彼女の子供っぽい一面に、フィリップは思わずくすりと笑いを溢した。


 「怒られても知りませんよ?」

 「おや、酷いな。キミも共犯だろう?」


 けらけらと笑い合いながら鍵を開け、ドアノブに手を掛ける。

 そっと、なるべく音を立てないようにノブを捻り、扉を引き──


 「うっ!?」

 「カーター君、離れるんだ!」


 激烈な異臭が鼻を突く。

 えづき、口元を覆ったフィリップを、フレデリカが襟元を掴んで乱暴に遠ざける。


 血の匂い。臓物の匂い。腐臭──死の臭い。

 森を歩いていたとしてもそう嗅ぐことのない、友人の家を訪ねて嗅ぐことになるなど思いもしない悪臭に、二人の胃は強烈に痙攣する。医学に精通したフレデリカにも、この不意討ちは効いた。


 「もっと離れて!」

 「待って──おぇ……」


 その場に嘔吐しそうになり、膝から力の抜けたフィリップの襟首を掴み、強引に引き離すフレデリカ。その強制的な揺れと首元への圧迫感が、胃の痙攣に止めを刺した。

 彼女は慌てて手を放して背中を擦ってくれるが、何かに中てられて吐くのには慣れている。


 「先輩、これ、この臭いって」

 「……あ、あぁ、嫌な臭いだね。何かの薬品だと思うから、近付かない方がいい」


 フィリップの歳を気にしてだろう、フレデリカは懸命に涙をこらえながら、警告に相応しい声を取り繕って言う。


 だが、そんな気遣いは無用だ。

 フィリップは半年前にダンジョンで同じ臭気に中てられて、吐いて、その発生源まで見たことがある。今更人間の死体に恐怖心を抱いたりはしない。まぁ、への忌避感はあるけれど。


 「あ……えっと」


 でも、それはフィリップが異常だからだ。

 フレデリカは知識もあるし、頭の回転も速い。この家の中に何があるのか、どういう状態なのか、フィリップ以上にはっきりと分かっていることだろう。そんな彼女への気遣いはあるべきだ。


 「……先輩、涙が出てます。催涙効果のある薬品ですか?」

 「あ、あぁ……そうかも……しれないね……」


 遂に堪えきれなくなり、嗚咽を漏らすフレデリカにハンカチを渡す。

 彼女は暫くそれで目元を拭っていたが、やがて心を決めたような顔になった。渡したハンカチを口元に巻き、シャツの袖を捲ると、自然と閉じた扉のノブをもう一度握る。


 「カーター君はここで待っていて。吐き気が治まったら、衛士を呼んできてくれると嬉しい。絶対に中には入らないで」

 「……はい」


 フレデリカは扉をギリギリまで狭く開けて入っていくが、その隙間から漏れてくる臭気だけで吐き気がぶり返す。

 フィリップが再び、けぷけぷとろとろと道端に胃の内容物を垂れ流しはじめた、その途端のことだった。


 「君も家の中に入って貰えるか」


 内容のわりに落ち着いて、苛立ちや不快感の籠らない声ではあったが、言葉は明確にフィリップを誘導していた。


 道端でゲロゲロやっていればそりゃあ不快だろうと、フィリップは息を整えながら声の方を見遣る。

 声の主は、周囲に漂う死臭や胃液の臭いなどより何倍も、何十倍も、フィリップの神経を逆撫でするような装いだった。


 真っ黒なローブ姿。

 頭の先から足元までを黒一色に覆い尽くすその服は、どこか神官服にも似たデザインだ。宗教的でありながら、その素性を秘匿するような服装には覚えがある。


 あの地下祭祀場にいたゴミクズ共と同じだ。あの試験空間にいた人間モドキと同じだ。

 

 ──いや、いや、落ち着け。

 見た目が不快だなんて理由で人を殺すのはいけない。それは非人間的なことだ。


 「す、すみません。でも吐き気の原因が家の中なので──」

 「ここ、静かな場所だろう? 騒ぎは困るんだ」

 「は、はぁ……。じゃあ、僕はこれで……」


 可笑しな言い回しだと首を傾げつつ、微かな痛みを訴える腹部を擦り、立ち上がった。


 パンフレットを確認し、衛士団の詰所に足を向ける。

 家に入るのではなく衛士を呼んで来いと、フレデリカはそう言っていた。これ以上吐くのも嫌だし言いつけ通りにしようと思ったのも束の間、身体に鎖が巻き付くような、嫌な感覚に襲われた。


 これも覚えのある不快感だ。いや、こちらに関しては吐き気以上に慣れていると言っていい。

 ステラとの戦闘訓練で散々喰らって──もとい、お世話になっている便利系魔術禁術。支配魔術の感覚だ。


 「家に入れ、と言ったはずだ。《ドミネイト》」

 「な、ぁ……!?」


 そんなに道端でゲロを吐くのが許せないのか、なんて、甘い勘違いはしない。

 もともと服装だけでカルトを連想していたのだ。あの地下祭祀場で喰らったものと同じ魔術を受けて、そんな悠長な思考をしている余裕は消え失せた。


 殺す。

 なるべく苦しめて、殺す。


 ──と、そう内心で息巻くものの、フィリップの魔力抵抗では支配魔術にレジストできない。

 ぎちりぎちりと軋むほどに奥歯を噛み締めて、しかし命令に忠実に、腐臭の充満した家の扉に手を掛ける。


 ほんのわずかに隙間が空いただけで漏れだしてくる腐臭に耐えながら、自動的に動く身体が家の中へ踏み入る。その少し後ろには、攻撃魔術を照準した黒ローブの男が付いて来ていた。

 扉を開けた瞬間から聞こえていたフレデリカの泣き声は、廊下を一歩進むごとに大きくなる。


 「二つ目の扉に入れ。吐くんじゃないぞ、汚れが


 憎悪も殺意も無視して、主ではなく敵対者に従順なフィリップの身体が扉をくぐる。

 瞬間、部屋の内装より先に目に入る、赤、黒、赤、黒。鼻を突く腐臭、鉄臭、異臭──死臭。蠅の羽音が耳に障り、心を掻きむしるようなフレデリカの泣き声を少しだけ掻き消した。


 フレデリカはどうやら別室──時折吐き戻す音も聞こえてくるから、トイレにいるようだ。


 リビングにはソファや暖炉、飾り棚などがあり、家の主が研究の中で集めたのだろう、歴史の本で見たような太古の調度品が飾られている。


 床には赤紫色の──赤紫色だったカーペットが敷かれ、本が散乱し、その上から糞尿と、吐瀉物と、血と、臓物と、人体の何かが散らばっていた。

 靴の下で、ぐちょりと湿った感触がある。


 部屋の中央にはアンティーク調の椅子が置かれ、誰かが座っている。

 フレデリカではない。彼女の祖父だろう。


 顔が無い。──鈍い刃物で削ぎ落されている。

 両手足の指が無い。──ちょうどそのくらいの肉片が、椅子の周りに落ちている。

 腕と足が腐っている。──傷が化膿したというわけではなく、魔術か薬品による拷問のせいだろう。

 腹が無い。──肋骨が見えるほど大きく切り開かれた腹部には肺と心臓くらいしか残っておらず、他の内容物は床にぶちまけられて蛆の餌になっていた。


 ──彼女は、これを見たのか。

 今のフィリップですら残酷だと思うほどの、およそ人の所業ではない凄惨な拷問を受けた、彼女の祖父の残骸を。それはまた随分と惨いことをする。女性でなくてもトイレで吐き戻したくなるだろう。


 フィリップに感じられるのは、そこまでだ。

 フレデリカの為に怒り、彼女の悲哀に共感し、正義感や道徳心で男を責めるような人間性は残っていない。


 フィリップの心中を埋め尽くすのは、自分自身の憎悪と殺意だけだ。それもこの男個人に対するものではなく、カルトという記号に対する希薄なもの。


 ほんの少しだけ、罪悪感がある。

 この男がフレデリカのお爺さんを殺したのは確定だろう。フレデリカは心をぐちゃぐちゃにされて、泣きながらトイレで吐いている。なら──この男を殺すのは、フレデリカであるべきではないのか?


 フィリップが、カルトは死ねと条件反射的に、害虫を踏み潰すような気軽さで殺すべきではない。

 フレデリカが、家族を殺された憎悪と殺意をぶちまけて、彼女の感情で殺すべきなのではないだろうか。


 「お前たちが“神を冒涜する書物”を探していることは知っている。在りかを言えば、そうはならないぞ」


 そう、とは、拷問の末に殺されたフレデリカの祖父の死に様を指しているのだろう。それは人間らしさ、人らしい生と死に拘る相手には特に有効な脅しかもしれないが、フィリップには効かない。

 フィリップは自分の口が勝手に動かないことを確認して、ほっと一息つく。支配魔術が解けているのなら、人間の脅し──脅威ではない存在の脅迫なんて、音の羅列だ。


 ステラが言っていた。

 支配魔術が一度に命令できるのは、連続性のある動作だけだと。「現れたモノを讃える」「母なる神を讃える」「術者の動きを再現する」などだ。


 その限定性のわりに、消費魔力はとんでもなく多いとも言っていた。並の魔術師なら連続で3回、宮廷魔術師のようなトップクラスでも連続10回以下だそうだ。しかも、行使には特殊な適性が必要で、ルキアですら支配魔術は使えないのだとか。


 男は質問に答えろという命令を乗せた支配魔術を使っていない。

 それは恐らく、詠唱に必要な量の魔力が残っていないか、詠唱すると魔術戦に支障が出る程度の残量しかないからだ。


 家に入り、この部屋に入ったことで目的達成と見做したのか、支配魔術の効果は解けている。依然として後頭部には攻撃魔術が照準されているが、脅威ではない。


 とはいえ、相手に隙が無いのも事実だ。さて、どうするか。

 

 「僕たちも探している途中なので、言いたくても言えません。……次の暗号は、二等地の──」


 ……男の脅し文句は、フィリップには効いていない。これは本当だ。さっき受けた支配魔術も、部屋に入った時点で効果が終了している。


 ただそれはそれとして、フィリップには自分から教えるに足る理由があった。言うまでも無く、このカルトがなるべく惨たらしく、苦しんで死ぬことを望んでいるからだ。


 投石教会にはナイ神父とマザーが──今のフィリップでさえ手に負えない最強格の邪神が二柱もいる。彼らがフィリップの希望に沿って動くかどうかは未知数だが、外敵を見逃すことはないだろう。


 心の中で中指を立てたフィリップが投石教会の名を出そうとした、その寸前だった。


 「言っちゃ駄目だ!」


 いつの間にトイレから出ていたのか、リビングの前にいたフレデリカが叫ぶ。

 大声で制止されたフィリップが口を噤むと、男は深々と溜息を吐き、左手でフレデリカにも魔術照準を向ける。


 そしてその時点で、フレデリカの攻撃は既に終わっていた。


 「ッ!?」


 がくん、と、男の膝から力が抜ける。

 突然のことにも関わらず、男が浮かべているのは驚愕ではなく苦々しい表情で、一瞬で攻撃の正体に見当が付いたのだと分かった。


 「対魔物鎮静ガス──シュヴァイグナハト……か……」

 「……博識な外道も居たものだ」


 どさりと頽れた男に憎悪の籠った一瞥をくれ、しかし、フレデリカは何もせずにフィリップの下へ駆け寄る。そして震える手で一本の試験管を取り出すと、何が起こったのか分からず立ち尽くすフィリップに差し出した。


 「さぁ、解毒剤だよ。ごめんね、一定以上の魔力を持つ相手には覿面に──あれ?」

 「……大丈夫です」


 ピンピンしているフィリップとぐったりと斃れ伏した男を交互に見遣る、困惑も露わなフレデリカに手を振る。


 錬金術製対魔物鎮静ガス、シュヴァイグナハト。

 睡眠効果のある薬草を主原料とするそれは、主に王都外の村で魔物避けに使われる。保有魔力が特定の範囲内にある対象に効果を発揮し、概ね下は下級魔物のゴブリン、上は中級魔物のメタルファーウルフまでである。


 つまり、スライムなどの弱い魔物と、ドラゴンなどの強い魔物には効かない。


 フレデリカは一人で「流石Aクラスだね!」などと納得しているが、それは違う。

 保有魔力が特定の範囲内にないという意味ではその通りだが、はみ出る方向は上ではなく、下だ。


 「僕、一般人並みの魔力量しかないので」


 これに関しては世界最高の魔術師二人からのお墨付きだ。

 「一定以上の魔力を持つ相手を害する」ガスになんて、影響を受けるはずが無かった。




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