第142話
数分ほど走った末にフレデリカが足を止めたのは、二等地の大通りに面した酒場の前だった。冒険者や一般市民に人気の大衆酒場ではなく、少し高級志向の洒落た店だ。
「はぁ、はぁ……な、なんですか、ここ」
「酒場『楽園の果実』。祖父の好きな店でね」
フィリップの息切れも収まらないうちに、フレデリカは『準備中』と札のかかった扉を無遠慮に開け、店内に入っていく。
その自信に満ちた足取りは、ここに手がかりがあるという確信を感じさせるものだ。フィリップは一瞬だけ考え、その後を追う。
店内には幾つかのテーブルとカウンター席があるが、テーブル席の椅子は卓上にひっくり返して載っているし、床にはバケツとモップが置いてある。見るからに掃除中だ。
カウンターの中には店主らしき壮年の男性がおり、明らかに開店前であるにも関わらず入ってきた子供二人に唖然としていた。
「見て分かると思うが、準備中だ。それとも何かのトラブルなら、悪いが……ん? 君は確か、レオンハルト侯爵の」
「先代、ジョン・フォン・レオンハルトの孫娘、フレデリカです。以前に祖父と一緒に、こちらにお邪魔したこともあります」
フレデリカが一礼すると、彼は「あぁ」と納得したように頷いた。
「彼に似て無遠慮、いや豪胆だ。……ほら、これを受け取りに来たんだろう? 店を開けてる時間に来て欲しかったがね」
彼はカウンターの下から一通の封筒を取り出すと、卓上をフレデリカのところまで滑らせる。
フレデリカはそれなりのスピードで滑ってきた封筒を上から押さえて受け止めると、やはりそうかと口角を上げた。
「祖父から、ですね? 私が来たら渡してくれと頼まれましたか」
「そうだ。……あぁ、彼に言っておいてくれ。私の店は酒場で、運送屋じゃあないってな」
店主の言葉に笑って手を振り、フレデリカは用は済んだとばかりドアに向かう。
ほんの一分前に入ったばかりで、フィリップの息が漸く落ち着いてきたところなのに。戦闘訓練でかなり体力はついてきたとはいえ、やはり成長期前後では大きな差がある。
「待て、坊主」
「はい?」
今度は走り出す前に目的地を聞くぞ、と対策を立てたフィリップだったが、店を出る間に店主に呼び止められる。もしかして「開店前に入ってくるんじゃねぇ馬鹿が」と怒られるのだろうかという懸念は、幸いにして杞憂に終わった。
店主は冬場だというのに汗をかいて、肩で息をしていたフィリップを見かねたのか、コップ一杯の水を出してくれた。
「飲んでいけ。冬場でも水分補給は大切だ」
「え? あ、ありがとうございます」
フィリップは水を呷り、もう一度頭を下げてからフレデリカを追って店を飛び出す。その背中に、はしゃぐ子供に向けるに相応しい微笑ましそうな一瞥をくれて、店主は掃除に戻った。
──その、十数秒後だ。
もう一度ドアベルが鳴り、店の入り口に二人の人影が立つ。フィリップとフレデリカの学生コンビではなく、真っ黒な修道服風のローブを着た男女だ。
「神官様か? 見ての通り開店前でな。日が沈んでからもう一度──」
「今の二人とどういう関係だ?」
男の方に言葉を遮られ、店主が不機嫌そうに眉根を寄せる。
どんな関係だと問い詰められるような深い関係ではないし、そもそもお前らは誰で、どうしてそんな質問をするのか。彼の脳内でそんな疑問が次々と浮かぶが、それを投げかけることはしなかった。
「お前らと同じ、準備中の札も読めない馬鹿な奴だよ。準備中だって分かったら出て行っただけ、お前らよりマシだったがな」
冬場とはいえ真っ黒なローブで全身を包み、目深にフードまで被った二人組は明らかに怪しい。
店主はカウンターの下で護身用の短剣に手を伸ばすが、しかし、彼の手が柄に触れるより先に、二人組が動く。男は片手を向けて魔術を詠唱し、女は後ろ手に扉の鍵を閉める。
一連の動きはあまりにも早く、荒事慣れはしていても戦闘のプロではない酒場の店主には反応することもできないほどだった。
「正直に答えろ。《ドミネイト》」
男の行使した支配魔術を受け、店主の口が不随意に動きはじめる。
「お……女の子は、知り合いの孫娘だ。お爺さんから……手紙を預かったんで……渡した。男の子の方は……知らない……」
「そうか。情報に感謝する」
「っは! はぁ……はぁ……」
魔術を解除されて息を荒げる店主の答えは、彼らにとって望んだものでは無かったのだろう。男は落胆の溜息を溢し、女の方も首を振っている。
「行きましょう、テネウ。奴らを追わなくては」
「……はぁ。そうですね」
男──“使徒”シメオンの言葉に、女──“使徒”テネウは目を見開く。少しの絶句のあと、彼女は深々と溜息を吐いた。
シメオンは鍵を開け、先程フィリップたちが向かった方へ駆け出す。その足取りに迷いはなく、未だ店内に残っているテネウは、少し遅れてもすぐに追いつくという信頼が窺えた。
「申し訳ありません。あれでも珍しい支配魔術の使い手なので、現場では重宝するのです」
喉を痛めたのかしきりに首元を擦っている店主に、テネウは深々と頭を下げる。
丁寧な仕草で、丁寧な言葉遣いではあったが、彼女の言葉は背筋を刺すほどに冷え切っていた。
殺される。
そう確信した店主はしかし、カウンター下の短剣に手を伸ばそうとは思わなかった。いや、思えなかった。抵抗は無意味だと、フードの奥から僅かに覗く冷酷な光を湛えた双眸が物語っていたからだ。
「このような場でポロリと名前を明かし、口封じもせずに立ち去る間抜けではありますが、まぁ、口を封じるくらいは私にも出来ますから」
「ま、待て。誰にも話さないと約束する。だから──」
「それを信じられるほど、人のことを知らないわけではありませんので」
テネウは右手を掲げ、その中に氷の槍を作り出す。その突端は、人の喉笛を引き裂くのに十分な鋭利さを持っているように見えた。
「主よ、我が罪業を見届け給え」
彼女はそう呟き、胸元から十字架を取り出して握り締める。
ただの十字架ではない。銀色に輝くそれは末端が尖り、縁が鋭く研ぎ上げられた、十字に交差した小さな剣だ。
握り締めた左掌には突端が刺さり、刃が深々と食い込む。
指の間から滴り落ちる血の雫は如何にも痛々しく、肉を裂く湿った音に混じり、骨と刃が擦れる、きり、という音までもが聞こえて、店主すら呆然とそれを眺めていた。
そして。
空気を裂いて撃ち出された氷の槍が、店主の頭蓋を貫通し、背後にあった酒の並んだ壁棚に突き刺さった。
幾つかの酒瓶が直撃を喰らって粉々になり、幾つかは倒れ、床に落ちて砕ける。
壁棚に倒れた酒瓶から流れる酒を左手で受けながら、テネウは床に広がる酒だまりに血が混じるのを眺める。
この血、この痛みは、罰だ。
人を殺めた罰ではない。この殺人が神の意に沿うものなのかと疑問を抱いたことへの罰、そして神に問い、神がこの殺人を過ちとして止めるかどうかを試したことへの罰だ。
神を試すこと勿れ。ただ信じよ。
それが一神教の教えだ。
だが彼女たち使徒は、必要とあらば教義に背き信徒でも殺す。
その都度、その行いが正しいものかを神へと問うているのだ。それは教義に背く上での必要行為であり、自身が必要悪であることを確認する絶対不可欠な行為だった。
今回、神は御止めにならなかった。何の邪魔も入らず、何の抵抗も無く、殺せた。神は御認めになったのだ。
何も憂うことはない。
テネウは左手に包帯を巻いて止血すると、フードを確認してから店を出る。
店主の死体が衛士に発見されるのは、その少し後のことだ。
◇
フィリップが店を出ると、フレデリカは少し離れたところで手紙を開けていた。
よかった、流石にフィリップを置いて駆け出すほど没頭していないようだ。
「次の場所でも書いてありましたか?」
手紙そのものが目的の品だという可能性もあるにはあるけれど、その文面を半笑い、いや苦笑いと共に追っているフレデリカの表情を見るに、確率は低そうだ。
「多分、そうだね」
「見てもいいですか? ……え?」
覗き込むと、手紙には三行の文章が書かれているだけだった。
内容はこうだ。
『問1。ベックベルの仮説に反証として挙げられる実験のうち、錬金素材にΣa因子を含むものは幾つか』
『問2。中級風属性中和剤の素材数を最低限に収める場合、それは幾つか』
『問1の答え-問2の答え』
「……テスト問題?」
「ふふふ……。あぁ、そう見えるね。けれど、これはかなりの初級問題だよ。錬金術に携わる者なら、どちらも指折り数えるだけで答えられる問題さ」
フレデリカは本当に簡単そうに笑って、鞄からグリッド地図の写しを取り出す。
えーっと、と脳内に浮かぶ答えと地図のマス目を数えながら、彼女は地図の一点に記しを付ける。フィリップもそれを覗き込み、一つの確信を得た。
「あ、次がゴールです。間違いないです」
「え? どうしてだい?」
何かを諦めたように投げやりな、しかし絶対的な確信を窺わせる声で言った、言い捨てたフィリップに、フレデリカは怪訝そうに笑う。フィリップの冗談だとでも思ったのだろうが、違う。
次がゴールだ。たとえフレデリカのお爺さんがそれを想定していないとしても、次がゴールだと言ったらそうなのだ。
フレデリカがマークした位置には、覚えがある。
二等地、聖果教会から一等地を挟んで南西方向。懐かしの宿屋タベールナ近辺にある、微妙な立地の教会。
ナイ神父とマザー。ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスが拠点とする、神の家。
──投石教会が、次の目的地だった。
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