第141話

 翌日、土曜日。朝。

 いつも通りにルキアとステラと一緒に朝食を摂った後は、珍しく三人ともが別行動だ。フィリップはしばらくゆっくりして準備を整えて、フレデリカと合流して二等地へ。ルキアは一等地の公爵家別邸に寄ってから王宮へ。ステラは王宮に直行だそうだ。


 まぁフィリップは準備と言っても、ルキアのように二人の美しいメイドが迎えに来たり、ステラのように何十人もの親衛隊が馬車までの花道を作っていたりはしない身だ。適当に財布と手帳くらいかなと見繕った荷物を持って、身嗜みを整えたら正門に行くだけだ。勿論、自分の足で。一足先に出た二人は迎えの馬車があったが、フィリップとフレデリカは徒歩か、校外で貸し馬車を使うしかない。


 いや、学院も馬車の貸し出しはやっているけれど。けれど、フィリップに、そして意外なことにフレデリカにも、御者の経験はなかった。白馬の王子様といった風情だったのに。


 だからこうして、二人は魔術学院から二等地までのんびりと歩いていた。

 魔術学院の校則によると、休日の外出は夜九時までに帰寮しなくてはならないことになっている。帰路に2時間使うと考えると、今が11時半くらいだから、捜索に使える時間は8時間。


 二等地はそこそこ広いとはいえ、建物や道のレイアウトはきっちりと整理されて歩きやすい。これならもし暗号がリレー形式でも、今日中にあと何か所かは回れるだろう。


 「二等地までは少し遠いけれど、キミが一緒で良かったよ。一時間の道程もほんの数秒に感じられるからね」

 「分かります。誰かと喋ってると、時間が過ぎるのって早いですよね」


 フレデリカはせっかく写してきた地図を見ることも無く、フィリップとあれこれ駄弁りながら歩く。


 フィリップの方も「神学や歴史の授業中は別だな」とか、益体の無いことを考えながら漫然と歩いていた。あれはルキア達と喋らない方が時間が経つのが早いレアケースである。


 一定のリズムで黒板を鳴らすチョークの音、最前列の生徒と個人的に喋っているのかと勘違いしそうな教師の声量、低い声質。あれはまるで一年生で最も優秀な生徒を集めたはずのAクラスでさえ、半数以上が寝落ちする高威力広範囲型睡眠魔術だ。ルキアとステラだけは絶対に眠らない辺り、本当に魔術なのではないだろうか。


 まあ、それはさておき。


 「先輩、二等地に詳しいんですか?」

 「レオンハルト侯爵家の別邸は、勿論、一等地にあるよ。でも祖父は、父に家督を譲ってからは、二等地に買った家で暮らしているんだ。「先代がいるとやりにくいだろう」って」


 お陰でよく二等地で遊んだものさ、と笑うフレデリカ。

 聞く限りではいい人そうだが、彼女の笑顔には苦笑の成分が濃く含まれていた。


 それに気付いたフィリップの不思議そうな表情を見て、フレデリカは「えっと」と言葉を練る。


 「お父様は一等地の別邸に住んで、そこの管理をしてくれないかって言っていたのだけれどね。研究時間を削るのがどうしても嫌だったらしいよ」

 「なるほど。頻繁に王都外に出るなら、二等地に住んでいた方が楽ですしね」


 王都は中心に聳える王城から外縁の防壁まで約10キロの巨大円形都市だ。

 一等地と二等地、二等地と三等地の間には水路があり、三等地から二等地は8つの、二等地から一等地は4つの跳ね橋で繋がっている。三等地の外周には高さ5メートルほどのカーテンウォールがあり、四方の門だけでなく上部の回廊にも衛士が常駐している。


 跳ね橋と門は直線ではなく、約20度ほどずれている。王都を出るのに要する道のりは、単純に10キロの直線ではない。

 もし衛士団の不定期検問などで時間を取られてしまうと、最悪、王都から出るのに3時間かかるなんてことも有り得る。


 3時間のずれは大ごとだ。行き先次第では出発を取りやめることだってあるのだから。


 「でも、時間を削るのが嫌なほど研究が好きなのに、先輩とは遊んでくれるなんて、いいお爺さんじゃないですか」

 「あぁ。愛されていると、自信を持って言えるよ」


 照れつつも嬉しそうに、祖父への信頼を語るフレデリカ。よほど楽しい幼少期を過ごしたようだ。


 そうなると、フィリップの懸念は単なる杞憂に終わりそうだ。

 愛する孫娘に「神を冒涜する書物」なんて代物を──大陸全土で強い信仰を持つ一神教に背くような本も、人類圏外産の魔導書も──探させるとは考えにくい。


 まぁ、それならそれでいいというか、それこそがフィリップの望む終わり方だ。叶うなら、邪神とは二度と関わりたくないし。


 「先輩、「神を冒涜する書物」って何だと思いますか?」

 「そうだね……例えば、日曜のミサを忘れてしまうほど面白い本、とか?」


 なるほど。ガラスのペーパーナイフを「虹の刃」なんて称する人なら、そういう表現をするかもしれない。何なら、この文字の羅列だって何かの符丁、全く違う意味になる暗号という可能性だってある。

 

 一等地とは違って絢爛な装飾は無い、しかし錬金術製の建材が使われた綺麗な建物の並ぶ二等地を歩きながら、とりとめのない話をする二人。

 

 さらに十数分ほど歩いて、漸く目的の教会に到着した。


 聖果教会は二等地の中で五指に入る大きな教会で、大通りを彩る石造りのロマネスク型建築だ。

 日曜ミサには何十人もの人が集まり、平日でも礼拝に来る信徒は十人を決して下らないという。投石教会とは規模も立地もまるで違う教会だ。


 木製ながら大きく重厚な玄関ドアを開けると、その建築様式に特有の薄暗いホールがある。

 ドアから最奥部の聖女像まで一直線に伸びるカーペットの左右には、信者用の長椅子が投石教会の倍以上の数も並んでいる。壁や柱に施された教会に特有の宗教的な彫刻が、ステンドグラスの光を浴びて荘厳な雰囲気を引き立てていた。


 明るくはなく、むしろ薄暗い空間ながら、荘厳な温かさを纏う場所だ。

 土曜日の昼間だというのに、或いはだからこそ、信徒用の椅子に数人、聖女像の祭壇前に数人の信者がいる。

 

 地元の小さな教会と、あとは邪神が二柱いる投石教会しか知らないフィリップは、初めて訪れた大聖堂の威容に視線を彷徨わせる。目を瞠る、とか、気圧される、ではない辺りがフィリップらしい。


 「大きな建物ですね……」

 「そうだね。でも、もっとこう、「厳かな空気ですね」とか「神聖な雰囲気ですね」とか、そういう感想が出るべき場面だよ」


 呆れ交じりの苦笑を浮かべたフレデリカに照れ笑いを返していると、奥から白髪頭の老神父がゆっくりと歩いてくる。彼は温和な笑顔を浮かべていたが、その所作には信仰に捧げた時間と信念の深さが表れており、言い知れぬ存在感のようなものを感じさせた。


 「こんにちは。礼拝であれば、どうぞ奥へお進みください。それ以外の御用であれば、私がお伺いします」

 「こんにちは、神父様。」


 フレデリカに続いて挨拶を返したフィリップは、ふらふらと祭壇に向かう。──ふりをして、周囲をじっくりと観察していた。

 書物というからには、本や書類、羊皮紙のスクロールといった形状のはずだが、そういったものは見受けられない。祭壇の上には聖典が置いてあるが、まさかアレでは無いだろうし。


 自然な振る舞いをしていると自分では思っているフィリップの背中に、フレデリカの苦笑が向けられる。客観的に見ると、フィリップは明らかに挙動不審だった。

 

 老神父は穏やかに、子供に向けるに相応しい笑みを浮かべて話しかける。


 「何かお探しですか。トイレならあの扉の向こうですよ」

 「あ、いえ……書斎とか、本が置いてある場所ってありますか?」


 フィリップの質問に、彼は感心したように頷く。


 「えぇ勿論。聖典だけでなく、歴史の本や絵本もありますよ。ここは神様の家、皆に開かれた家ですからね」


 神父の案内に従って、壁の一面に様々な本が収められた本棚のある部屋に通される。

 彼の言葉通り、児童書から教科書、学術書から聖典まで幅広い層の本があるようだ。


 何かあるとしたらここか、あとは神官の居住区だが、そこは関係者以外立ち入り禁止だ。フレデリカの祖父もそちらには入れないはずだし、まずはここを探すべきだろう。


 「読書が好きなんて、小さいのに感心な弟さんですね」

 「あー……ははは。はい、私の自慢ですよ」


 説明に時間を取られるのを嫌ったのか、フレデリカは老神父の誤解を解かなかった。

 どうぞ寛いでください、と言って立ち去った神父の背ににこやかな会釈を送り、フレデリカの表情がすっと冷える。


 「カーター君。見て分かると思うけれど、壁一面の本棚を埋める量の本を、全て確認するのは時間を食い過ぎる。「3」のつく本か「3」にまつわる本を探そう」

 「あっ! 暗号にあった最後の「3」ですね!」


 なるほどこれが天才かと頷きながら本棚の左端に向かうフィリップ。

 フレデリカにしてみれば当然の発想だったので、彼女は「何に感心されたのだろう」と首を傾げつつ本棚の右端に向かう。


 小さな部屋ではあるが、壁一面を埋める量の本だ。

 背表紙を見て「3」と絡みそうなタイトルか、或いはナンバリングが「3」の本を探すのにもひと手間かかる。


 フレデリカは20分ほどかけて、本棚の右半分から「3」のつく本を選び出し、その全てにざっと目を通した。


 「……ふぅ。駄目だね、手掛かりになりそうな本は無かった。印の類も無いよ」


 取った本を元通りの場所に仕舞いながら、落胆と徒労感を見せるフレデリカ。しかし、フィリップからの返事はない。


 フレデリカが目を向けると、フィリップはまだ本棚の4分の1ほどしか進んでいないような場所の本を取って読んでいた。まあ字を追うペースにはかなり個人差があるからな、と納得しかけたフレデリカだったが、フィリップが持っている本の表紙には「3」が関係していなかった。タイトルは「図解 教会のひみつ」。子供用の、教会の構造や神官の仕事について書かれた絵本のようだ。もう一冊脇に抱えているようだが、そちらのタイトルは見えない。


 「カーター君? ちゃんと探してるかい?」


 まぁ、所詮は身内の遊びだ。

 フィリップが真面目に探さなかったからといって、フレデリカが怒ることはない。しかし捜索に対して意欲的だったフィリップが、ここに来て本の誘惑に負けているのは面白かった。


 そんな内心を反映した揶揄、文字上だけで咎める言葉を耳にして、フィリップが視線を上げる。


 「……カーター君?」


 フィリップの目は、子供向け絵本を読んでいるとは思えないほど鋭く、真剣なものだった。

 手にした本と表情のギャップに思わず半笑いで呼び掛けたフレデリカを、フィリップは「ちょっと見てください」と逆に呼ぶ。


 「教会の地下にはクリプトという聖遺物保管室があるらしいんですけど……ちょっと持っててください」

 「あ、あぁ、構わないよ」 


 フレデリカが受け取った絵本には教会の構造を簡略化して描かれており、地下部分にはキラキラしたクエスチョン・マークのある部屋が描かれていた。天使をデフォルメしたキャラクターが「これは大陸の教会、全てにあるんだ!」と注釈を入れている。


 「それで、こっちの本なんですけど」


 フィリップが脇に挟んでいた本を開き、目的のページを探す。

 一瞬だけフレデリカに見せた表紙には、「残留聖性を利用した楔型広域結界構築魔術」とある。


 「聖性云々は極めて宗教的な仮説未満の妄言らしいので無視してください。殿下が言うにはですけど。見てほしいのは……ここです」


 難解な魔術理論や魔術式の書かれた本をぱらぱらとめくり、目当てのページを向ける。

 そこには大陸にあるほぼ全ての教会の名前と地名、そして保管されている聖遺物の名称が表になって記されていた。


 「アヴェロワーニュ王国、王都、聖果教会。保管聖遺物、『聖典原書分頁第三章』。……「3」か」


 顎に手を遣り、微かに口角を上げて、確かな手応えに頷くフレデリカ。

 驚き方までかっこいいなこの人、と苦笑しつつ、フィリップは手早く本を片付ける。


 「神父様に、見せて貰えるかどうか聞いてみましょう」

 「あぁ!」

 

 ──と、これは正解に違いないと喜び勇んで老神父を探しに行く二人だったが、そもそも聖典は信仰の導であり、信仰の歴史であり、信仰の具現だ。冒涜とは正反対にあると言えるだろう。

 それが「神を冒涜する書物」であるとは考えにくい。有り得るとしても、精々が第三の暗号、中継地点といったところだ。そう言う意味での「3」なのだとしたら、何番目まであるのかと今から膝が痛むような気がする。


 正解か、不正解か。

 二人はホールにいた神父を見つけるまでの間、その二択で考えていた。しかし、神父の答えはそれ以前のものだった。


 「申し訳ありません。聖遺物には月に一度の大祭儀の日にしか拝謁できない決まりなのです。来週の日曜日が大ミサですから、是非その時にまたお越しください」


 二人のことを熱心な信者だとでも思ったのか、彼はにこにこと笑って、しかし明確な拒絶を口にする。

 そこをなんとかなりませんか、と言い募るフレデリカの声を聞き流しながら、フィリップは考える。


 殺すか?


 “宝物”が人類圏外産の魔導書であり、フィリップの住む人間社会を汚染する可能性があるものだと確定しているのなら、それも致し方ないことだ。たかだか人間一人、それも今さっき会ったばかりの他人、残り十数年生きられるかどうかという老人だ。直接殺したところで残念だとも思わないし、骨の一片まで炭化させて、暖炉にでも放り込んでおけば、すぐには露見しないはず。


 だが確定ではないのだ。“宝物”はフィリップの懸念するようなものではなく、単なる「祖父から孫娘への贈り物」である可能性の方が高い。

 そんなものの為に人を殺すのは、流石に非人間的だ。殺すか、なんて考えている時点で大概だが。


 「……聖典の第三章って、どんな内容なんですか?」


 自分自身に苦笑しながら、フィリップは宛先も無く問いかける。

 こんなのは大陸に住んでいれば自然と覚えるような、所謂一般教養の類だ。神父なら確実に答えられるし、貴族の子女もそうだ。フィリップぐらいの年なら、まぁ知らない子もいるかな、くらいのものである。


 「第三章は原罪の章。悪魔に唆され神の言葉に背いた罪人と、咎人をすら愛する神の慈悲深さを描いた章です。話に出てくる蛇は魔王サタンと同一視されることもありますね」


 老神父の答えに、フレデリカは頷く。


 「知恵の果実を食べ恥を知りながらも自らの罪を認めず、男は女に、女は蛇に責任を押し付ける。恥知らずにも全知たる神の御前で。そういう皮肉に満ちた章ですね」

 「そういう解釈もされますね。他にも知恵の実、或いは楽園の果実はリンゴやイチジク、レモンといった──」


 聞きようによっては聖典批判とも取れるフレデリカの言葉にも、老神父は温和な微笑のままに頷きを返す。


 そのまま聖典談議が続くのかと思われたが、しかし、フィリップの口から「帰りませんか?」という空気を読まない言葉が飛び出る前に、フレデリカが指を弾く。


 「……そうだ」


 老神父は、ぱちりという乾いた音に驚いたようだったが、言葉を遮られたことに対して怒ってはいないようだった。


 「何か掴めましたか。では、お行きなさい。貴方たちに神のご加護がありますように」


 神父の言葉に目を瞠る二人。彼はフィリップたちが何かを求めてここに来たことに気付いていたようだ。

 邪神の気配はしないので、これも年の功、なのだろうか。


 「ありがとうございます、神父様!」


 胸に手を当てた優雅な一礼を見せるフレデリカと、「神の加護」という何らおかしいところのない言葉に引っかかるフィリップ。

 二人は老神父と握手を交わし、聖果教会を後にした。


 荘厳なホールを抜け、神聖な雰囲気のある玄関アーチをくぐるまでは、フレデリカは場所に見合った風格を湛えて歩いていた。しかし教会の敷地から出るや否や、彼女は目的地の定まった確固たる足取りで駆け出す。


 「どうしたんですか、突然?」

 「“楽園の果実”だ!」


 フィリップより足も長ければ年も上で基礎体力も違うフレデリカに必死について行きながら訊ねるも、彼女は要領を得ない答えだけを返す。

 それは何なのか。さっきの話に出た知恵の実のことなら、それがどうしたのか。もしかして、「それ」に心当たりがあるのか? なら世紀のというか、人類史上最大の発見とも言える。


 「ついてきて、カーター君!」

 「は、はい!」


 考えるのは後回しだ。でないとフレデリカの健脚に置いて行かれる。

 フィリップは慌てて視線を前に固定し、足をもつれさせないように集中することにした。




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