第139話
およそ300年か、400年くらい前の話だ。
今も用いられる○○から西へ何キロ、という相対的な位置把握では、正確性や認識の速度に問題があるとされ、かつて王国全土地図を1キロ四方の
それが、グリッド座標だ。
しかし、計画そのものの有用性は当時の王や文官も認めるところではあったものの、測量技術的に方眼紙レベルで精密な地図など書けるはずもないし、何より当時は王国・帝国・聖王国の三国による領土戦争の真っ最中。昨日は王国領だったところが、今日には帝国領に変わり、明日には聖王国領になっているような時代だった。
戦争では地属性の聖痕者が山脈を生み出し、砂漠を作る。水属性の聖痕者が川を生み、湖を作る。風属性の聖痕者は都市を風化させ、火と光は焼き払う。
端的に言って、地図がさほど重要ではなくなるレベルの戦争だった。
それから幾らかの月日が流れ、平和になり、王国は王都を築いて技術の隔離と独占を始めた。その性質上、王都は一定以上に拡大しない。
ここでなら使えるのではないか、と、王都内を800メートル四方のグリッドに区画し、絶対性のある座標を用いようという計画がなされた。同心円状に一等地、二等地、三等地の区画を持つ半径10キロの巨大円形都市を、さらに25×25の方眼で区画するのだ。
……そして、なんとなく「町の整備に使えるんじゃね?」くらいの、ふんわりした意図で進められていた計画は、当時の王の小さな疑問によって終結した。
王、曰く。「この数字による座標の制定は、何の意味があるのだ?」
王に、その計画を止めようという意図はなかった。
王に、その計画を進めようという意図はなかった。
ただ、王は心中の疑問を呈しただけだ。これは何に使うのだろうと。
一人の文官が答えた。
「王よ。荷物や手紙を届ける手助けになります」と。
王は首を傾げた。
手紙や荷物はお互いの居所が分かっている相手に預けるのが普通だし、稀に運送業者を頼ることがあっても、彼らは「どこに何があって誰がいるのか」という情報を商売道具の一つにしている。グリッド座標を制定して周知して、「これは助かるぞ!」と民が喜ぶ姿が、どうにも想像できなかった。むしろ、今の王のように「なにこれ」と首を傾げるのではないだろうか。
また一人の文官が答えた。
「王よ。どの座標に誰が住んでいるのかという情報、仮に“住所”としましょう。その“住所”を以て、民を管理することができます」と。
王は首を傾げた。
王国の民は臣民管理局によって、ほぼ全員が出生時に登記されている。これは王都外の人間も例外ではない。
そして王国が最優先して管理すべき王都の民、魔術的素養が高くなる傾向にある彼らは、特に厳重に管理されている。成長や老化で変質することの無い魔力を計測して記録している以上、本人確認と管理という意味ではこれ以上の精度は無いだろう。
一人の文官が答えた。
「王よ。その意味を確かめるために、まずは実験的導入をされては如何か」と。
王は頷いた。
ステラが読んだ百年以上前の謁見記録は、ここで終わっている。
これ以降の執政記録にグリッド座標計画の話題が挙がらず、そして現代に於いてグリッド座標が定着していないということは、つまり、そういうことである。
「まぁ、あれだな。よくある「微妙だった政策」という奴だよ。当時の資料や試作地図なんかは、図書館にあるんじゃないか?」
「なるほど。……じゃあこの「2,13,4,3」っていう座標を探せばいいんですね」
フィリップの出した答えが100点中50点くらいのものだったからか、ステラはどこか呆れたような笑いを溢す。
「いいや、グリッドは25かける25だと言っただろう? グリッド座標は二組の数字なんだ。頭の2は二等地を示すものだとしても、最後の3は余計だ。おそらく、私の推理は間違いだろう」
「そうですか? すごくそれっぽい推理ですけど……放課後にレオンハルト先輩に話してみるくらいは、してもいいですか?」
ステラは宝探しには左程の興味が無いのか、「好きにしろ」と適当に手を振る。
しかし、フィリップの出した名前に心当たりがあり、動きを止めた。
「待て、レオンハルトと言ったか? もしかして、フレデリカ・フォン・レオンハルトか?」
「あ、はい。もしかして、殿下のお知り合いですか?」
何と言うか、少し意外だ。
ルキアがステラ以外の人間に興味や関心を向けないように、ステラもまたそうだと思っていたから。
「殿下、ルキア以外にも興味があったんですね。意外です」
「そういうお前は私に対する興味が薄いな? お前やルキアと違って、人脈は広いぞ?」
揶揄うような笑みを浮かべたステラに、フィリップは「あはは、すみません」と笑いながら謝る。
だが冗談交じりだったとはいえ、意外なのは本当だ。ステラが人脈を作っておくだけの価値を見出しているのか、或いは気にしていなくても耳に入るほどの有名人なのか。
フレデリカはまるで舞台俳優、いや女優のような人だ。有名になっていても不思議は無い。むしろ、あのレベルで存在感のある人を今の今まで、もう一年ほども見落としていたフィリップがおかしいのではないだろうか。魔術学院の生徒数は相当なものだと、言い訳しておこう。
「……まぁいい。フレデリカ・フォン・レオンハルトは錬金術分野における最年少博士号取得者だ。ついでに言うと、医学分野では歴代二位。国内の全分野総合でも歴代五位だか六位だかの、所謂天才という奴だよ」
「あら、貴女がそう評するということは、相当ね」
他人の話題はどうでもよさそうにメモを見ていたルキアが、ステラの言葉につられて顔を上げる。
フィリップが知る中で、ステラが「天才」と評するのは彼女だけだった。つまり、ルキアと同等の才能──魔術の才では及ばずとも、錬金術に於いては世界最高峰の才能を持っているということだろうか。
「そうだな。肩書に見合った──いや、能力に見合った肩書を持つ学者だよ。先日、レオンハルトがある錬金術製道具の試作機と設計図を、お父様に献上した。何のだと思う?」
去年はまだ地元に居たフィリップは首を傾げ、王都に居た筈のルキアも首を傾げる。彼女は完全に、興味の無い対象には時間を費やさないタイプだ。
二人が正解を知らないことを確認して、ステラは先を続ける。演出の為に妙な間を空けないところは、彼女の美点だろう。
「魔力隔離装置だよ。古龍の心臓を使った逸品で……王城の宝物庫にあった、一個しか無かったサンプルを使った、失敗作ならその首を刎ねるような代物でな……」
ステラは思い出すだけで頭が痛いというように眉間を押さえる。
「あの馬鹿、「研究に使うので」とサンプルの持ち出しを申請してきたから許可してやれば、三日後には「出来ました」と頭くらいの大きさの機械を持って来たんだぞ? しかも二言目には「これから本番なのでもう一個下さい」と来た」
「えぇ……?」
古龍の心臓、という言葉は、フィリップが珍しく知っているものの一つだ。
冒険譚の中でも超のつく希少品として扱われるそれは、死してなお拍動し無限の魔力を生み出す素材であり、500歳以上1000歳以下の古龍と呼ばれるドラゴンからしか採取できない。
ちなみに、帝国が実験的導入を開始しているドラゴンっぽい騎乗生物、
ワイバーンは肉の身体を持ち、老化し、死ねば骸を晒す生き物。
対して、ドラゴンは魔力で構成された肉体を持ち、老化はせず、しかし成長はする不思議な魔物だ。その寿命は1000年を優に超え、その肉体的・魔術的機能は年月と共に良性の変化しかしない。他の生物のように、筋肉や内臓機能、五感の衰え──老化という機能を持たないのだ。
加えて、極めて優れた体躯、身体能力、魔術能力を備え、100歳から500歳の成龍ともなると、その戦闘能力は勇者や聖痕者を凌ぐこともあるとか。
つまり、古龍とは概ね聖痕者に匹敵するレベルの存在。その心臓ともなれば、高価では済まない価値だろう。
「魔力隔離って、まさか空間から魔力を完全に取り除くってこと?」
「いや、完全に中性の魔力で空間を埋め尽くす、飽和型だな。というか、真空型は理論上不可能だろう」
魔術師、非魔術師を問わず、人間は常にごく微量の魔力を発散している。
それは呼吸や心拍のような、いわゆる生理現象の一つだ。魔力感知能力に長けた魔術師であれば、この微細な発散を感じ取ることも出来る。
発散量は当然ながら内包する魔力量によって上下し、フィリップが一日に発散する量がコップ一杯分くらいだとしたら、ルキアやステラはプール一杯分くらいはある。並の魔術師でも、バスタブ一つ分くらいはあるはずだ。
つまり、人間がいる空間には、その場にいる人間の発散した魔力が充満しているということだ。
たとえばこの教室内なら、空間中の魔力の99パーセントがルキアとステラの魔力になっている。
それらを誰かの魔力で押し流すのは、簡単だ。適当に魔力をばら撒けばいい。
しかし、誰のものでもない、何の性質も持たない魔力で埋め尽くすのは不可能だ。誰がやっても、その人物の魔力が残るのだから。
別に空間中に魔力があって困る場面は、日常生活や魔術戦の範疇では、無い。
しかし、魔力を扱う精密な実験の場面などでは、「誰がいたか」「どんな魔術に適した魔力か」「その日のコンディション」のような情報までもが空間情報化して組み込まれてしまう。誰かが魔力で押し流してそれを避けるにしても、誰かの魔力が影響することは避けられない。
「魔力隔離装置も、まあ学術的には物凄い発明なんだが……古龍の心臓に見合う価値があるかと言われると、肯定しかねる」
常に誰かの魔力がそこに、そこかしこにある。
そんなのは、人類誕生以来から当たり前のことだ。それが嫌なら全人類を殺すしかない。
だから、「全く無極性の中性魔力で空間を埋め尽くす」ことは、すごい。とてもすごいのだが──それを完璧に活用できるほど、人類のレベルは高くなかった。
「すまない。愚痴になった。まあ研究以外のことならマトモな人間だし、家柄も素行も問題ない。適当に遊んでもらえ」
どうでもよさそうに言ったステラにフィリップが頷く──その前に、ステラが言葉を重ねる。
「と言いたいところだが、戦闘訓練と試験勉強が優先だ」
「も、勿論覚えてますよ」
「目が泳いでるわよ。……明日は私もステラも王城に行かなくちゃいけないから、宝探しは明日にしたら? ちょうど土曜日だし」
呆れたように笑ったルキアの提案に、ステラも「そうだな」と頷く。
二人とも厳しい先生だし、本人たちの能力が著しく高いせいで「なんで分からないのか分からない」状態になることもあるが、その才能故に、休暇の必要性を良く分かっている。
とはいえ、宝探しそれ自体はフィリップ発案のレクリエーションでもなければ、主導権があるわけでもない。
フィリップはあくまで「人類圏外産の魔導書だったら焼かなきゃ」という勝手な使命感の下、フレデリカにくっついているだけの部外者だ。
「うーん、僕も一緒にやらせて貰ってるだけなので……まあ、言うだけ言ってみます」
フィリップが答えたタイミングでからからと教室の扉が開き、ナイ教授が入ってくる。
「お伝えしていた通り、授業変更ですよー。教科書を忘れた人はー、今のうちに寮まで取りに行ってくださいねー。フィリップくん」
名指しで警告され、そういえばそうだったと慌てて席を立つフィリップ。
授業開始まであと五分。走ってもギリギリ駄目そうだった。
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