第131話

 交流戦六日目、夜。

 マルクは入学して以来──否、或いは生まれて初めてかもしれない、大人3人以上から同時に怒られる体験をした。


 多忙で殆ど家に居なかった父と母に叱られた回数も片手で収まるほどだし、使用人はマルクに何も言わなかった。初めから何も言わなかったのか、言っても無駄だと悟ったからなのかは、然したる問題ではない。

 いま重要なのは、マルクには一方的な説教を受ける機会が無く、またその性格ゆえに、ストレス耐性が著しく低いということだ。


 彼は数時間に及ぶ説教と、それが原因で夕食を食べ損ねたことで、非常に機嫌が悪かった。フィリップに殴られた箇所が微かながら確かな痛みを訴えるのも、大きな要因だろう。

 肩を怒らせて貴族用宿舎に帰ってきたあとも、部屋に戻って明日の撤収準備をしているときも、ベッドに入ってからも、ずっと激しい苛立ちを抱えていた。


 「クソ!」

 

 どん、と自分が横たわるベッドを殴り付ける。

 柔らかなマットレスはその衝撃を柔らかく受け止めるが、その感触すら腹立たしく思えた。


 「なんで俺が怒られて、あいつはお咎めなしなんだ! おかしいだろうが!」


 マルクの煮立った頭の中で、フィリップの嘲るような笑顔がリフレインする。

 貴族である自分以上にルキアやステラと仲良さそうにしているのも、大変気に食わないが──それ以上に、自分を一方的に、それも笑いながら殴り回したことが何より許せない。


 許せない。腹立たしい。認められない。

 あんなチビの、それも血統に劣る屑が、自分より強いなどと。断じて。


 空っぽの胃がくうくうと哀しく鳴いて微かに痛むごとに、苛立ちが段々と増してくる。


 「……ッ!」


 何度目かのベッドへの殴打は、ストレス解消の一助にもならなかった。


 マルクはシーツを蹴立てて立ち上がり、靴を履く。

 つい先ほどパッキングしたばかりのトランクを乱雑に開け、短剣を取り出す。両刃のそれはダガーと呼ばれる形状のもので、サバイバルツールではなく純粋な武器としての用途を想定されている。サバイバルナイフより薄く、鋭利ではあるが、耐久性に欠けるという性質を持っていた。


 マルクがそれを持っているのは、単に護身用としてだった。貴族・平民を問わず、この程度の武器なら誰が携帯していてもおかしくない。尤も、今マルクが手にしている物のように、柄や鞘の各部に彫刻や宝石の装飾がある代物は稀だろうけれど。


 彼はそれを鞘から抜き放つと、今まで自分が寝ていたベッドに向かって振り下ろす。

 鏡面のように砥ぎ上げられた刃は薄布を易々と裂き、内側から灰色の綿を引き摺り出す。何度も、何度も、罵倒未満の咆哮と共に繰り返し、暴力衝動の対象はベッドから枕に、カーテンに、木の壁に移る。

 

 深夜に差し掛かった時間帯にそんなことをしていれば、周囲の部屋から総出で怒鳴り込まれそうなものだが、その気配は無かった。

 そのことを不思議に思えるほど今のマルクは冷静ではないが、もしかしたら、石と木の壁が音を遮っているのか、或いはマルクの家名に遠慮しているのかもしれない。


 部屋をあらかた破壊して、肩で息をしていてもなお、マルクの苛立ちは収まらない。いや、むしろ悪化していると言ってもいい。

 無形の憎悪は、今や破壊衝動として顕出している。それがモノからヒトに向くのに、そう時間はかからなかった。


 「……殺すか」


 ぼそり、自分で呟いた言葉が、自分の脳を犯す。

 自分で吐いた一言が、じわりじわりと自分の思考をそれ一色に染め上げていく。


 マルクはダガーナイフを握り締め、部屋を出る。先ほどの荒ぶりが嘘のように、しかし獣性はそのままであることを示すように、可能な限りひっそりと。


 等間隔に燭台の並ぶ廊下を進み、平民用の宿舎に入る。

 足元にカーペットは無く石が剥き出しで、しかもなんだか砂っぽいざらりとした感触がある。


 こんなところで寝泊まりしているゴミクズに負けたのかと思うと、ナイフを握る手に力が籠る。燭台の明かりを反射して妖しく光る短剣と、夜の冷気が、辛うじて冷静さを保たせていた。


 うろうろと徘徊し、部屋割りの書かれた表を見つける。

 フィリップ・カーターとウォード・ウィレットの名前を見るだけで血管が千切れそうだが、おかげで部屋の場所は分かった。苛立ち紛れに部屋割り表を斬り付けて、部屋に向かう。


 確か、昼はサボり防止、夜は悪戯や脱走防止で巡回している二年・三年生チームがいるという話だったのだが、幸いにして、マルクが誰かと遭遇することは無かった。

 神の思し召し、という奴か。神は言っているのだ。あのクソ野郎をブチ殺せと。


 マルクはそう思い、身体の力を僅かに抜く。

 そうだ、これは復讐などではなく、神に導かれた正当な行為だ。そう思うと、激情がマスクしていた一片の良心すら消え失せる。


 ぶつぶつと呪詛を呟きながら階段を昇り、二人が居る203号室に向かう。

 鍵もかからないような扉を開けて中に入ると、中には暖炉も燭台も無く、窓から差し込む微かな星と月の明かりだけが頼りだった。


 入って左側のベッドでは、フィリップが口を半開きにしたアホ面で寝息を立てている。

 右側のベッドにはウォードがいたはずだが、シーツが丁寧にめくられた状態で空いている。トイレにでも行ったのだろうか。


 まぁ、いないならそれでいい。

 邪魔をするならウォードもブチ殺すが、いま殺したいのはフィリップだけだ。いないのなら、邪魔をしないのならそれでいい。


 マルクは足早にフィリップの傍に近寄ると、仰向けに晒されている胸元に狙いを定めた。

 筋肉の無い、骨格すら発達途中の薄い胸元だ。先ほどの暴走で多少の疵があるとはいえ、よく研がれたダガーナイフはその皮を、肉を、心臓を、容易く貫くことだろう。


 振り上げたナイフは躊躇の無い心情を表すように、一瞬の停滞も無く、淀みの無い動作で振り下ろされる。

 狙いは過たず、フィリップの心臓へと吸い込まれ──ぞぷ、と、肉を裂く柔らかな感触が返ってきた。




 ──ぼこ、と、ナイフの突き刺さった箇所が泡立つ。

 はじめ、マルクはそれを心臓から溢れ出た血液だと思った。暗い部屋の中で、手元がはっきりとは見えなかったからだ。


 ぼこ、ぼこ、ぼこ。

 繰り返し、ナイフに微かな振動が伝わる。手元の肌感覚だけでなく、何かが泡立ち弾ける音を耳でも捉えた。


 ぼこりごぼりと泡立つ音は、すぐに怖気を催すような悍ましい音に変わる。

 思わずナイフから手を放して後退ったマルクは、音の発生源であるフィリップの胸元、傷から血が溢れているはずの箇所に目を遣り──を見た。


 蠢き泡立つ極彩色の力場。マルクはそれが自分であることを、およそ知識や理性とはかけ離れた動物的本能によって理解した。


 それはマルクであり、フィリップであり、ウォードだった。

 それは人間であり、非人間であり、脊椎動物であり、無脊椎動物であり、動物であり植物だった。

 それは貴方で、私で、彼で、あれで、これで、あそこで、ここで、過去で、現在で、未来だった。


 彼はそこにいるのに、そこには何も存在せず、全てがそこに在った。そこは全ての原点であり、彼は全ての原型であり、また天地万物そのものであり、そして世界の終わりだった。

 小さく埃っぽい部屋になど到底収まるはずのない、無限大のスケール。それでいて、大きさと言う概念を持ち合わせないもの。

 

 「あ」と。マルクは理解の声を上げた。それの虹色の表面と無限に広がる奥行きから、マルクは全てを理解していた。


 口から出た筈の声は、虹色の泡だった。

 泡の中には誰のものともつかない唇があって、マルクに向かって嘲笑を投げかける。

 

 「ああ」と。マルクは絶望の声、虹色の泡を溢す。

 その中には特徴の無い目が一つだけあって、嘲弄の形に細められた。


 フィリップの胸元から湧き出て増殖した無数の泡は、怖気を催す、地球はおろか太陽系において知られざるものの囀りや呟きに似た音を立てながら、負の時間をかけて部屋中を覆い尽くした。絶対的な正の時間、不可逆のそれしか知らない人間の脳では理解できない現象を前に、マルクはただ茫然としていた。逃走、抵抗、反逆、あらゆる自発的行為に繋がる自我が崩壊していく。


 虹色の泡に覆われた部屋の中では、東西南北、上下左右、その他のありとあらゆる絶対性と相対性の座標が消え失せる。

 そこは、そこではなく、しかしそこを含む、ありとあらゆる場所だった。


 ぶちり、何かの千切れる音を聞く。

 許容量を超える情景と情報を流し込まれた脳の神経が次々に破断し、過熱した脳の血管が千切れた音か。


 そして──




 部屋の扉が開いた。


 寝惚け眼でトイレから帰ってきたウォードは、シーツを肌蹴る豪快な寝相で、口を半開きにして寝息を立てているフィリップを見遣る。いつもの半分くらいしか開いていない目で。


 「仕方ないな」と、或いは「またか」と言いたげに鼻を鳴らしてシーツをかけ直すと、自分のベッドに潜り込んで、すぐに寝息を立て始めた。



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