第129話

 攻撃が来て、それを避けて。こっちが攻撃して、それが当たって。また攻撃が来て、それを避けて。

 そんな動作を繰り返して、何分が経っただろう。さっきちらりと視線を投げた砂時計は、四分の一くらいしか砂が残っていなかった。つまり経過時間は──何分だ? 駄目だ、思考が空転している。


 避けて、打って、避けて、打って。

 半ば自動的に動く身体に、フィリップは「手加減しろ」とだけ言い聞かせる。ショートソードはロングソードに比べて軽いとはいえ、人間の骨を折るには十分な硬さと重さを持っている。


 攻撃が来る。

 大振りの横薙ぎだ。焦りと怒りを宿した顔、硬く強張った肩、隆起した腕の筋肉、固まった肘関節、柄を握りしめて白くなった指。ダメダメだ、全くなっていない。ウォードもソフィーもマリーも、そんなガチガチに固い動きをしたことは無い。

 

 避けるまでもなく、模擬剣の先端がフィリップの少し前を素通りする。

 その軌道、剣身、鈍く潰された刃までがはっきりと見える。遅い。遅すぎる。こんなの、二十本同時に飛んで来たって避けられる。


 ──いや、そもそも、マルクはフィリップを目掛けて剣を振っているつもりで、その周辺にしか狙いを定められていない。『拍奪』の歩法で動いている限り、殊更に攻撃を避けようとする必要も無く、勝手に外れる。


 「──はは」


 楽しい。


 相手の攻撃は当たらず、こちらの攻撃は当たる。一方的に攻撃しているという優越感。

 今まで誰にも当てられなかった攻撃が当たるという達成感。

 目の前を剣が通り抜け、掻い潜って疾走する爽快感。


 呼吸が浅く、早くなる。ドーパミンとアドレナリンで溺死しそうだ。


 楽しい。楽しい。楽しい。


 剣を振るごとに、剣が眼前を通り過ぎるごとに、地面を踏み締めるごとに、一挙手一投足のたびに、血沸き肉躍る。


 刃を殺した剣で、相手を傷付けずに戦っている──ある種のスポーツだから?

 そうかもしれないし、もしかしたら本物の殺し合いでも同じように笑うかもしれない。


 「──ははは!」


 でも、そんなのはどうだっていいじゃないか。人間の命に然したる価値は無い。模擬戦フォールド命懸けの戦闘オールインも、何ら変わりないんだ。


 野原を駆けまわるような、或いは捕えた虫の翅を捥いで遊ぶ子供のような、無邪気な笑いを溢すフィリップ。

 その表情と奇妙な動きは、相対しているマルクだけでなく、観戦者たちにも怖気を催させるものだった。ウォードを始めとする、心底楽しそうだった訓練風景を見ていた者は例外だ。そしてフィリップに限らず、誰かの教導をよく観察したことのある人間であれば、もうそろそろかと予想が付く。


 強度の高い集中状態と負荷の大きい運動は神経を高ぶらせ、ハイにさせることがある。衝動的な笑いの発作に襲われることも、体質や体調などに左右されるが、稀にある。


 笑う、延いては息を吐くという動作は、筋肉の硬直を緩和する。過分な力を排し、最適なだけの力を籠めるのは、運動に於いて重要な技術だ。

 しかし、呼吸はある程度は制御できるが、笑うという動作は違う。今のフィリップのように、湧き上がる衝動のままに笑っているような状態では特に。


 「──はぁ……はぁ……はは」


 フィリップの変調に真っ先に気付いたのは、当然ながらフィリップ自身だった。


 大腿部をはじめとした両脚のほぼ全体と、剣を握った右手、空の左手──四肢に微かながら震えがある。

 気付けば息が上がっており、脇腹には鈍痛があった。


 端的に言って、フィリップはバテ始めていた。


 『拍奪』は技術としては歩法だが、その体力消費は歩行の比ではない。流石に全力疾走ほどではないものの、ジョギングペースよりは格段に負荷が大きく、会話などで呼吸を無駄に使ってしまうとすぐに限界が来る。笑って、息を無駄遣いすればこの様だ。


 「はぁ……はぁ……」


 疲れを自覚したからか、先ほどまで胸の裡で沸き立っていた血潮は鳴りを潜め、今や鈍重な疲労感だけが残っていた。


 いつの間にか顎まで流れていた汗を拭い、砂時計を見遣る。

 視線の先では、ちょうど最後の砂が落ちたところだった。


 「終了! 次、四番目のグループ!」


 砂時計の傍にいた生徒が叫び、まばらな拍手が起こる。


 フィリップは興奮の残滓と激しい運動によって早鐘を打つ心臓を撫で付け、ショートソードを持った右手をだらりと下げる。さっきまで軽々と振り回していた模擬剣が、いやに重く感じられた。

 深呼吸の一つでもしたいところだが、荒くなった呼吸が未だ戻っていない。


 見るとは無しに、先ほどまで剣を交えていたマルクの方に視線を投げ──眼前で、マルクがロングソードを振り上げていた。


 「え?」


 怒りで真っ赤に染まった顔と、憎悪にも近い光を湛えた双眸が見て取れる。その大上段には、鈍い光を纏う鉄の塊。

 この十分間一方的に殴られ続けたことや、それを衆目に晒されたことによる、怒りや恥辱を滲ませる表情を浮かべたマルクの耳に、「終了」という言葉は聞こえていないようだった。


 「──ッ!」


 ぎぃん、と、重い金属音と火花を上げ、振り下ろされた剣が弾かれる。

 防御したのは当然ながらフィリップではなく、二人の間に滑り込んだウォードだ。フィリップは不意の攻撃に晒されて防御や回避をすっぽりと忘れ、魔術を照準していた。何なら「ブレス・オブ」くらいまで詠唱している。


 痛みへの忌避感も、「避けなくてはいけない」という刷り込みも、この一週間で培ったもの。フィリップの本質である外神の視座──眼前の存在は自分を傷付ける敵足り得ず、その命にも、その命を奪うという行為にも何ら価値は無いという認識の強さには敵わない。こういった咄嗟の場面で表出するのは、より強い方だ。


 「マクスウェル様、試合終了ですよ!?」 

 「どけ、ウィレット! そいつは俺を馬鹿にして笑いやがったんだぞ! ブチ殺してやる!」


 その言葉だけで、マルクを突き動かす怒りの原因は分かった。

 要はフィリップがハイになって笑っていたのは、少なくともあの一方的に攻撃している場面では失敗だったということだ。単なる興奮のそれを、彼は嘲弄と受け取ってしまったのだろう。


 尤も、フィリップの心中にはいつだって眼前へ──目に映る全て、この悍ましく、それでいて泡沫のような世界への冷笑が渦巻いているのだけれど。


 言葉だけでなく本気の殺意を窺わせるように、マルクはもう一度剣を振り下ろす。

 ウォードはそれを正面から受け止め、ぎりぎりと音を立てて鍔競り合いながら、顔を少しだけ後ろに向ける。


 「撃たないでよ、フィリップ君!?」

 「えっと、殺さないかもしれませんけど……?」


 領域外魔術『深淵の息』の致死率は100パーセントではない。カリストはこれを喰らってもちゃんと生きていた。

 肺を海水で満たされた人間の──重度の窒息状態に陥った人間の致死率は、たぶん物凄く高いだろうけれど、内臓を含めた全身が炭化するよりはマシなはずだ。『萎縮』こっちは確実に死ぬ。


 「落ち着いてください! フィリップ君はちょっとハイになってただけですから! よくあることでしょう!?」

 

 マルクの怒りが込められた乱撃を危なげなく躱し、弾き、受け流しながら、制止の言葉を叫ぶウォード。

 周囲では攻撃範囲の短いロングソードに対して強気に出られる長柄武器、主に槍を使う生徒と、盾を持った生徒が、マルク制圧の為に動き始めていた。


 「黙れ! 殺すぞ!」

 「…………」


 殆ど意味の無い言葉を怒鳴り、全く通じない攻撃未満の棒振りを続けるマルクに、ウォードは交流戦初日にフィリップが言ったことを思い出した。フィリップの言葉を聞かなかった自分に言われた、「同じ理性を持つ人間とは思えない」という言葉だ。

 軋むほどに歯を食い縛り、蟀谷の血管が浮き出るほど怒り狂った様子は、まさしく獣だ。


 「おい、マクスウェル!? うわっ!?」


 背後から羽交い絞めにして制止しようとした上級生が、マルクがめちゃくちゃに振り回すロングソードを間一髪で避ける。


 「やめろ、マクスウェル!」


 その生徒もロングソードを構え、ウォードと挟み込む位置に陣取る。その周囲は他の軍学校生によって包囲されており、その外では魔術学院生たちがどうすべきかと慌てていた。何人かは先生を呼びに走っていて、何人かは魔術を照準している。


 たぶん、彼らの魔術は拘束用のものだろう。マルクを殺すことなく、的確に動きを制限するような、フィリップでは100年かかっても修得できないような魔術だ。

 

 「邪魔をするな! 俺を誰だと思っている? マクスウェル侯爵家次男、マルク・フォン・マクスウェルだぞ!」


 唾を飛ばしながらの恫喝に、学生たちが怯む。

 マルクに、ではなく、その言葉に含まれたマクスウェル侯爵家──近衛騎士団長が当主を務める家の名前に、だ。


 状況を考えれば、ここでマルクを止めるために多少の怪我をさせたところで、そう責められることは無いだろう。良識を弁えた大人が叱りつけるべきはどちらなのか、子供にだって分かる。しかし、普段のマルクの振る舞いや、軍学校教師陣に一定数いる血統主義思想に染まった輩の振る舞いを思い返すと、一抹の不安が過る。


 果たして近衛騎士団長、レオナルド・フォン・マクスウェル卿は、良識を備えた人物なのだろうか、と。


 「お前も退け、ウィレット。でないと──!」

 「いえ──ですから──まずは──落ち着いてください」


 ウォードは背後からひしひしと感じるフィリップの視線、そこに込められた無邪気で純粋な殺意に冷や汗を流しつつ、マルクの攻撃を捌き続ける。笑うだけでバテたフィリップとは違い、ウォードは言葉の合間に防御を挟んでいて、基礎体力の大切さが窺えた。

 

 いや、そもそもフィリップとウォードでは技量が段違いだ。

 一見して防戦一方なウォードはしかし、このまま30分以上は凌ぎ切ることができるし、今すぐにマルクを制圧することもできた。ただ残念ながら、それでは角が立つ身分であり、それを理解する頭もある。ウォードにできるのは、この場を丸く収める人物が現れるのを待つことだけだ。


 マルクを殴り倒せる平民では駄目だ。マルクを殺せる平民はもっと駄目だ。マルクを制圧したとしても問題にならないのは侯爵級の家格を持つ貴族か、同等の領地や貢献度を誇る辺境伯、伯爵位までだ。それより家格が下の貴族は、万が一にも近衛騎士団長に睨まれてはいけない。


 では、それより上の人物ではどうだろう。

 たとえば──火属性の聖痕者にして、既に次期女王として指名されている第一王女などは。


 「おっと、もう始まっているのか? 早いな」


 ステラの意外そうな声を聞いて振り返るフィリップ。その数メートル先では、もはや周囲のことなどまるで見えていないほどに怒り狂った男が、自分を殺すと息巻いて、鉄の棒を振り回してさえいるのだが。危機管理能力が死んでいるのか、危機認識能力が死んでいるのか。その両方だろう。


 「おいおい、こっちを見てる場合じゃ……ん? 待て、どういう状況だ?」


 フィールド上に四人以上いることに疑問を覚えたステラが、近場にいた生徒に尋ねる。近場に居ると言っても、5歩以上離れたところで跪いているのだが。


 「えっ!? は、え、あ、えと、その」

 「……過剰攻撃か? それとも時間を忘れているのか?」


 聖人にしてほぼ最高位権力者に話しかけられ、しどろもどろになった生徒に頼らず、自分の観察眼と推理力である程度の仮説を立てるステラ。

 

 「後者です。あと、ごめんなさい。順番を最後にするの、忘れてました」

 「……構わないさ」


 フィリップの言葉に含まれた「嘘」──忘れていたのではなく、出来なかったのだということを正確に読み取り、ステラは軽く頷いた。


 「殿下! そのような無礼者をお傍に置くのはおやめください! そのクソガキは私を愚弄したのですよ!?」

 「お前!? 王女殿下に直接提言するな! 馬鹿か!?」

 

 マルクを止めようとしていた上級生の一人が血相を変え、その口を塞ぐ。これ以上は日和っていられないと再起動した他の生徒が続き、マルクの姿はフィリップから見えなくなった。


 「愚弄、愚弄ね……」


 ですよ!? とか言われても、いま来たばかりのステラは何も知らないのだが。それでも、たぶん100パーセントの冤罪ではないのだろうな、と、ステラは軽く苦笑する。

 彼女にとっても、そして彼女と価値観をある程度共有するフィリップにとっても、この世界の全ては悲観すべき脆いもの。心の奥底には紛う事無き冷笑と嘲笑が渦巻いている。今更人間一人を尊重するなど、そちらの方が難しい。


 「剣と魔術だけじゃなく、演技の練習もしような、カーター」


 必要性をひしひしと感じていたことを指摘され、フィリップは素直に頷くほかに無い。

 

 言葉を完全に無視されたマルクは深い憎悪を滾らせた視線をフィリップに向け、しかし、口を始めとしてあらゆる抵抗を封じられているがゆえに、何もせずに連行されていった。


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