第121話

 医務室のベッドの上で目覚めたフィリップは、真っ暗に染まった窓の外を見て、三日目の午後を丸ごと無駄にしたのだと思った。

 身体を起こし──かちゃり、と、耳に覚えのある嫌な音を聞いてしまった。神経を集中してみると、確かに右手首に懐かしい感触がある。


 左手を使ってシーツをめくると、右手には枷が付いていた。反対側はベッドの柵に繋がり、チェーンが伸びている。


 カルト、衛士団、カルト、そして今。

 フィリップ・カーター11歳、人生四度目の、拘束されて迎える目覚めだった。


 「──えっ? ……え?」


 何も考えずに引っ張ってみるも、きん、と鎖が伸び切る音が虚しく響くだけだ。外れる気配は一向に無いし、経験豊富なフィリップはそれを予想していた。


 どういう状況だろうか。

 確か、ウォードと模擬戦をしていて──ガードに失敗したところまでは覚えているのだけれど。


 気絶していたのだという推測は、まず正しいだろう。だが拘束の理由には見当が付かない。……数刻前に一度目覚めた時のことを、懐中時計を探して彷徨い這い回った数時間のことを丸ごと忘却しているフィリップには。


 きょろきょろと医務室を見回してみるも、人の姿は見当たらない。

 いま何時だろうかと、窓際のハンガーラックに懸かったジャケットを手繰り寄せ、内ポケットから懐中時計を取り出す。右手が繋がれていても、左手がギリギリ届く位置で良かった。


 現在時刻は3時。窓の外の暗さから言って、まず間違いなく深夜。


 「──は?」


 頭を打って気絶していた、という訳ではないのか。いや、気絶はしていたのだろうが、そこから普通の睡眠にシフトしているはずだ。12時間も気絶するようなダメージなら、もっと痛みとかがあるはずだし。

 そこまで考えて、それが分かったところで、手枷の理由には繋がらないと気付く。


 今やるべきは考察ではなく、脱出だ。


 いきなり拘束されると逃れたくなるのが本能だが、フィリップは経験も相俟って、その意識がかなり強い。

 まぁ、カルトの仕業なら待ってやってもいいけれど。なるべく大勢集まってから、苦しめて殺したいし。……しかし下手人が分からない以上、ここは逃げておくべきだろう。


 「──っ!」


 思いっきり腕を振り、鎖の破断を試みる。

 ぎん、と、鎖同士が擦れ合う不快な音が、フィリップには確かな手応えに感じられた。


 姿勢を変え、ベッドの柵に両足を掛ける。これで思いっきり背中を反らせば、腕より力の出る背筋と両脚を使って鎖を引っ張れるというわけだ。


 「せー、のッ!?」


 ぎん、と。またそんな金属音が鳴ると予想していたフィリップは、何が起こったのか分からないまま勢いよく後ろに倒れ込んだ。

 そう横幅があるわけではないベッドから転げ落ちる寸前で、右手首から伸びた鎖が張り詰めて止まる。


 いや、それはもはや鎖では無くなっていた。


 ──手だ。

 黒い服の袖から覗く浅黒い肌と艶めかしく細い指の特徴的な、ナイ神父の手だった。


 腕を辿っていくと、嘲笑を浮かべたナイ神父の顔があった。


 「おはようございます。フィリップくん」

 「……いま深夜の三時ですけどね」


 ナイ神父はひっくり返りそうになっているフィリップをワルツのように優雅な所作でベッドの上に引き戻し、フィリップの右手を離す。ナイ神父の指先が、フィリップの指先との別れを惜しむように舐めていった。


 「ご自分の右手を折りたかったのですか? お手伝いしましょうか」

 「そんなワケないでしょう。いきなり拘束されたので、逃げようとしてたんですよ」


 ナイ神父は、いきなり、という言葉一つでフィリップの状態を理解した。彼はフィリップの瞳を覗き込み、嘲笑の度合いを深める。


 「おや、覚えていませんか。君がどれだけ無様な姿を晒していたのか」

 「はぁ? …………え?」


 なんだろう、本当に分からないぞ、と。フィリップは取り敢えずズボンを確認した。

 大丈夫だった。おねしょ卒業から5年強、卒業取り消しは免れた。


 では何なのかとナイ神父の真っ黒な目を見返すと、彼はにっこりと笑う。


 「教えません。それより、まだ深夜ですからね。もう少しお休みになられては如何でしょう?」


 いかがでしょう、と提案しながら、ナイ神父はフィリップの両肩を支え、ベッドに押し倒す。完全に強制だった。

 12時間も寝たにも関わらず──と、本人は思い込んでいるが、気絶していた分を抜いた純粋な睡眠状態は、だいたい4時間くらい──まだ眠かったフィリップは、されるがままにベッドへ横たわった。


 ナイ神父は素直に従ったフィリップに口角を上げ、シーツをかける。

 そして自分の人差し指にキスをすると、その手をフィリップの額に当てた。


 「おやすみなさい、フィリップくん」


 耳元に顔を寄せ、艶やかな吐息混じりに囁かれる。

 耳障りな声は耳触りがいいけれど、それでもナイ神父は寝る前に囁かれたい人物では無かった。


 「そういうのは……マザーに……やらせ──」

 

 ただの演出じゃなくて魔術だ、と。フィリップはそう気付くと同時に眠りに落ちた。





 ◇





 それから数刻。

 窓から差し込む朝日を受けて、今度こそ漸く気持ちのいい目覚めを迎えたフィリップは、大きく伸びをしようとして──右手に装着された手枷に気が付いた。


 「おはよう、カーター君」


 フィリップが再度の脱出を試みる前に、そう声がかかる。

 それは馴染みのある学校医、ステファンのものであり──どういうわけか、或いは当然ながら、明確な怒りを湛えていた。


 「おはようございます、ステファン先生。……あの、なんか怒ってます?」

 「んー?」


 彼女はにっこりと笑い、こつこつと靴音も高らかにフィリップのベッドへ歩み寄る。

 そして、一言。


 「勿論、めちゃくちゃ怒ってるわよ?」

 「な、なんでですか……?」


 今起きたばかりなのに理不尽ではないだろうか、と考えるフィリップ。もしかして寝坊とかだろうか。

 そもそもこの手枷はなんなのか。お世話になっている先生ではあるけれど、危害を加えてくるのならそれなりの対処はさせてもらう。具体的には殺す……というか、殺す以外の抵抗ができない。


 「覚えてないの? 昨晩やったこと」

 「──!」


 ナイ神父との会話を見られていたのかと、フィリップは内心の焦りをそのまま表情に出す。

 しかし、ステファンの追及は全く別のところに飛んできた。


 「脳震盪の失神から覚めたと思ったらベッドを飛び出して、シャツ一枚で寒空の下を徘徊。挙句、脳震盪の余韻と低体温症と極度の疲労でまた失神。……何を考えてるの?」

 「身に覚えが無さ過ぎるんですけど……」


 フィリップは自分が痛いことや苦しいことが嫌いだと知っている。その自分がそんな馬鹿なことをするとは思えなかった。

 ステファンが嘘を吐く理由も無いとは思うけれど──率直に言って、信憑性は五分といったところだ。


 「本当に? うーん、記憶障害かしら……」


 不安になるようなことをぽつりと呟いたステファンは、フィリップの額に手を当てる。次にフィリップの頭を挟むように両手を添え、最後に頭頂部に片手を置いた。


 何かの検査か治療だろうと推測できる一連の動作を、フィリップは抵抗せず受け入れる。

 しばらく考え込む様子を見せて、ステファンは最終的に親指を立てた。サムズアップだ。


 「健常です! あれだね、夜中に見た夢を朝になったら思い出せないのと同じ感じ」

 「えぇ……」


 ほんとかなぁ、と怪訝そうな目をするフィリップを、ステファンは不満そうに見返す。


 「なに? 私、これでも医術と治療魔術で王様から二つ名貰ってるんですけど」

 「いや、先生の実力じゃなくて……僕が徘徊してたって部分なんですけど」


 夜中に見た夢を思い出せないことは、確かにある。しかし夜中に起きてトイレに行ったのを忘れたことはない……はずだ。たぶん。忘れたことを覚えている、なんて矛盾したことは不可能なので、あまり声高には主張できないけれど。


 「あ、そこ? そこは客観的に証明できるよ。君を見つけたのはサークリス様だし、ここまで運んでくれたのはペアのウィレット君。低体温症の治療には第一王女殿下にも手伝って頂いたから、君を説得するには十分じゃないかな」


 それが本当なら、確かにフィリップは信用するしかない面子だった。

 しかし、ウォードはともかく、ルキアやステラを巻き込むだろうかという疑問はある。ステファンが貴族だという話は前に聞いたけれど、確か侯爵家の長女だったはず。家督を相続した侯爵本人だったとしても、ルキアやステラにあれこれ言えるのだろうか。


 「……じゃあ、後でお礼を言っておきますね」

 「うん、それがいいわ」

 

 ステファンはフィリップの疑心に気付かなかったのか、或いは本人から聞けばいいと思ったのか、首肯して笑う。

 そしてようやく、徘徊防止用だという手枷を外してくれた。


 「ありがとうございました」

 「はい。お大事に」


 ぺこりと頭を下げ、医務室を後にする。ステファンが手を振って見送ってくれた。


 さて──朝食まで一時間ある。

 まさか、まだみんな寝ている女子・貴族用の宿舎に突撃するわけにもいかないし。取り敢えず部屋に戻って、ウォードに話を聞こう。


 さっきはよくもぶん殴ってくれたじゃないか、ちょっと話しようや──という意味ではない。

 フィリップは安全でふんわりした剣士ごっこがしたいわけではなく、領域外魔術を使わず相手を制圧できる実戦剣術を身に付けたいのだ。傷を負うことくらい承知の上だし、ウォードを責めるつもりもない。責めるとしたら、むしろ「もっと本気でやってくれ」と詰る。


 男子・平民用宿舎になっている塔に続く回廊を抜け、自室へと入る。


 運が良ければウォードが起きているかと思ったけれど、今日の彼は遅起きだった。昨日はこのくらいに起きていたのに。


 フィリップが徘徊していたのが何時ごろなのか不明だから、ちょっと起こしづらい。

 もし1時とか2時とか、ナイ神父と話す直前くらいだったとしたら申し訳ないし。


 客観的にも主観的にもしっかり寝て、何ならこの部屋の硬いものより良質な医務室のベッドで寝て、すっかり元気になったフィリップだ。

 自分を医務室送りにした友人の睡眠時間を気に掛けるくらいの余裕はあった。


 ウォードが自発的に起きるまではそっとしておくとして、どう時間を潰そうか。模擬剣置き場は朝食後に鍵が開くから、素振りをするのは無理だ。中庭を走り込むというのも一案だけれど……そういえば、昨日は風呂に入っていないし、シャツも洗濯に出していない。先に済ませておこう。


 フィリップが大浴場を朝から独占するというプチ贅沢を堪能し、始める直前だった洗濯係の生徒に頭を下げて汚れ物を渡して帰ってくると、ウォードが目を覚まして支度をしていた。


 着替えの途中だったウォードは上裸で、良く鍛えられて引き締まった筋肉と、幾条かの剣で切られた傷痕が露出していた。既に完治しているそれは、師匠との稽古で負わされたものらしい。二日目の風呂で聞いた話だ。


 「おはようございます、ウォード」

 「っ!? びっくりした……フィリップくんか。おはよう」


 ウォードはシャツを着ると、フィリップに向き直った。そして深々と頭を下げる。きちんとした作法に照らせば見苦しい形だったけれど、ウォードの誠意がしっかりと籠った礼だ。


 「昨日はごめん。怪我をさせるつもりはなかったんだけど、力加減を間違えてしまった」 

 「いえ、気にしてません。というか、あれぐらいは覚悟の上ですから」


 サムズアップして答えたフィリップに、ウォードは安堵の息を吐く。

 その目元が軽く腫れていることに目敏く気付いたフィリップは、興味と揶揄と、少し重くなった空気を晴らそうと、それを指摘した。


 「あれ? もしかしてウォード、泣きました?」


 言葉に含まれる揶揄には気付いていたウォードだが、冗談で返すどころではなかった。


 「泣いたよ……大号泣したよ……」


 震え声の返答に、フィリップは思わず言葉に詰まる。

 この年の男子、しかも軍学校で訓練を積んでいる者をここまで怯えさせ、大号泣したとまで言わしめるモノはなんなのか。


 まさかとは思うが。


 「あ、あの、ナイ教授に何かされたんですか……?」


 フィリップの懸念を、ウォードは首を傾げることで払拭する。


 「ナイ教授? いや……君が倒れたあと、サークリス様にめちゃくちゃ怒られてね……第一王女殿下が止めて下さったんだけど、正直、死を覚悟したよ」


 ルキアに何をされたのか、その瞬間を思い出しただけで身震いするウォード。

 塩の柱に変えられそうになったとか、跡形もなく消し飛ばされそうになったとか、そんなところだろうか。


 「いや……あれは君に怪我をさせたことについて怒ってるというより、もっと……いや、なんでもない。とにかく、しこたま怒られたんだ。触れないでくれ」

 「あ、はい……」


 何を言いかけたのか非常に気になるところで言葉を切ったウォードは、それ以上何も聞いてくれるなと両手を挙げた。


 「そういえば、昨日の夜、僕が徘徊してたってホントですか?」

 「徘徊……ステファン先生は“脱走”って言ってたけどね。部屋に戻ってないかって、ここにも探しに来られたよ」


 彼女の話は本当だったのか、と、フィリップは我が事ながら頭を抱えた。

 全く覚えていないけれど、大変なご迷惑をおかけしたようで申し訳ない。フィリップはばつが悪そうに頭を下げた。


 「僕を運んでくれたって聞きました。ありがとうございます」

 「いや、脳震盪が奇行を誘発するのはたまにあることだし、それなら僕のせいだからね。当然のことだよ」


 徘徊だの脱走だの奇行だのと好き勝手に言われてはいるが、フィリップには本当に覚えが無い。客観的事実としては「ある」のかもしれないけれど、フィリップの主観では「ない」ことで責められるのは妙な気分だった。


 「……よし、この話は終わりにしましょう」

 「え、あ、うん……」


 「何をしてたの?」と訊こうとしていたウォードは機先を制され、歯切れ悪く頷いた。





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