第120話
中庭を彷徨っていた蝋燭の明かりが消えたのを見て、ノーマンはワイングラスを置き、懐中時計のハンターケースを開けた。
現在時刻は21時を少し回ったところ。フィリップが中庭に出てから、およそ三時間が経過していた。
飽きもせず、眼下で動く光点を眺めて悦に入っていたノーマンの興奮が最高潮に達する。
ノーマンに聖人二人の前で恥をかかせたチビの平民が、三時間も寒空の下で這い回っていた。ノーマンの手中にある、今やノーマンの物になった懐中時計を求めて。
そう考えるだけで、最高に気分が良かった。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼するッス。ご馳走様でした」
「あぁ」
アルコールで顔を真っ赤に染めたトニーが、ふらふらとした足取りで出口に向かう。
彼の挨拶におざなりに返したノーマンは、いつまで経っても扉の開閉音がしないことに気付き、フィリップが見えはしないかと中庭に向けていた視線を部屋の中に戻した。
「おい、どうした? 帰らんのか?」
「いや、なんか鍵かかってるんスけど」
「はぁ? 開ければいいだろうが」
士官用個室は兵卒用の相部屋とは違い、ドアに鍵が掛けられる。
鍵と言っても、古い建物だ。ドアと枠を固定する小さな金属の閂が内側にあるだけで、外から施錠できるような仕組みはない。
何を言っているのかと、ノーマンもドアへと向かい、閂を「ここだ」と示す。
しかし、閂は開錠の位置にあった。
「なに……?」
「いや、そうなんスよ」
二人で交互にドアノブを回すが、ドアはぴくりともしない。
築年数があり、ガタつき始めていた木製のドアが、だ。まるで、見えない壁に挟み込まれでもしたように。
誰かしら「うるさいぞ」と注意しに来る程度の強さでどんどんと扉を叩いてみるも、外からの反応はない。扉を破るつもりで蹴りつけてみても、何をしても動かなかった。
「クソ、どうなってる!?」
悪態を吐いたのはノーマンだけだ。トニーはアルコールで回転の鈍った頭で、状況の打開策を懸命に考えていた。
二人が部屋の中へ視線を戻すと、部屋の中央に薄ら笑いを浮かべた神父が立っていた。
王国人ではないことを示す、浅黒い肌に黒い髪、真っ黒な瞳。
黒一色のカソックの胸元で揺れる十字架だけが金色で、ひときわ目立っていた。
先ほどまで居なかった人間が突然現れたことで、声も出ないほど驚愕する二人。
しかし不可解な状況と謎の人物はすぐに結び付き、ノーマンが詰め寄る。
「だ、誰だおま……いや、あなたは!」
神官相手では流石に横柄な態度は取りづらかったのか、ノーマンの勢いが弱い。トニーはそんなノーマンの背中に失望の視線を向けていた。
「初めまして、私はナイ神父です。どうぞお見知り置きください」
ナイ神父が慇懃に一礼する。
その所作は彼が信仰に費やしてきた年月を感じさせる、見事に洗練されたものだった。トニーが思わず見惚れ、ノーマンが使用人として召し抱えたいと思うほどに。
しかし、そんなことを考えている場合ではないと、ノーマンは理解していた。
扉をロックしているのが彼の魔術によるものだとしたら、彼は敵である可能性が高い。少なくとも無条件でノーマンの味方をする相手では無いだろう。
「な、何の用だ! どうやって入った!?」
「後者の質問に答える意味はありませんが……前者は、むしろこちらからお話しようと思っていたところです」
ナイ神父はゆっくりとノーマンに近付くと、その左胸を上から下に撫でた。手指の動きが舌のように艶めかしく、思わず背筋がぞくりと震える。
力なんてほとんど籠っていなかったし、魔術的な何かをされた感覚も無かった。
ナイ神父はただ無造作に歩み寄り、手を伸ばしただけだったのに、振り払うことも、後退りすることも出来なかった。
手が離れてようやく、込み上げていた嘔吐感を唾液と共に飲み下すことが許される。
「あッ……げほっ!? げほっ」
呼吸まで止まっていたのかと、ノーマンは唾液の嚥下に失敗して咳き込みながら思う。
なんだ。
なんなのだ、こいつは。
ノーマンが今までに出会った、同じ人間とは思えない存在感を放つ人物は4人。
第一王女ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア。聖痕者ルキア・フォン・サークリス。軍学校首席アルバート・フォン・マクスウェル。軍学校次席ソフィー・フォン・エーギル。
彼ら彼女らに匹敵するどころか、彼らを超える存在の「圧」があった。戦闘態勢どころか帯剣もせずに、聖痕者を超える? 有り得ない。
どさり、背後で頽れる音を聞く。
振り返るまでもなく、トニーが腰を抜かしたのだと分かった。
「あ、あなたは……?」
名前は聞いた。しかし、それは彼の素性を明かす手掛かりにはならない。
一体何が、これほど暴力的な存在感を纏うことができるのか。もはや比喩ではなく、彼が自分と同じ人間だとは思わなかった。
「あ、悪魔、なのか?」
震え声の問いに、ナイ神父は口角を吊り上げた。
「負債を取り立てに来た、という意味では、悪魔に近しいかもしれませんね」
ナイ神父が手を開くと、そこには見覚えのある懐中時計が乗っていた。
「あぁ……指紋で汚れていますね。皮脂もこんなに。汚らしい」
ナイ神父はハンカチを取り出し、懐中時計の価値に見合った丁寧な所作で表面を拭う。ハンターケースを開き、その裏側や文字盤の隅々まで磨き上げたあと、暖炉の光に翳して汚れを確認する。
自分の作業に満足したのか、彼はそれをカソックの懐に仕舞った。
「そ、それは俺の──」
「俺の?」
ナイ神父がノーマンの言葉を遮り、哄笑する。
言葉を遮られたノーマンが抱いたのは、怒りや嫌悪感ではなく恐怖だった。それは盗みがバレたのだと悟ったことによる、弾劾や懲罰への恐怖と、自分でも理解していない本能的な恐怖の二種類が混在したものだ。
「君のものではありませんよ。フィリップくんのものは、彼が自分の意思で手放すまで、何があろうと彼のものです。それがたとえ、犬の糞のような代物であっても、ね」
ナイ神父の双眸は夜闇より暗い黒だったはずなのに、今や吐き気を催す極彩色に輝いていた。
ノーマンは心の底から逃げ出したいと思ったし、トニーは腰を抜かした姿勢のまま悲鳴を上げそうになる喉を懸命に押さえていた。
あと一歩で断崖だと思った。何かひとつでも彼の機嫌を損ねることをしたら、惨たらしい死を迎えるという直感を、二人は言葉も無く共有していた。
息が詰まる、どころか、心臓すら止まっているような錯覚があった。
手足の震えが止まらない。瞬きの回数が増え、鼻孔が膨らみ、発汗する。恐怖を反映するあらゆる器官が悲鳴を上げ、眼前の存在を畏れていた。
「お、俺たちをこっ、殺すのか!?」
そう叫んだのは、ノーマンの後ろで頽れていたトニーだ。
ナイ神父はその問いに、少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「実は、フィリップくんには殺せとも、殺すなとも言われていないのです。より正確には、彼は君たちに対して一定以上の感情を持っていない。私のような従僕には、好きにしろというオーダーが最も負担になると、分かった上でのことでしょうけれどね。きっと」
その嗜虐心すら心地よいと言いたげに、ナイ神父は恍惚とした笑みを浮かべる。
言葉の意味を測りかねた二人は何も言わず、しかし恐怖の中に期待が生まれる。もしかしたら、まだ許されるのではないだろうか、と。
「ゆ、許してくれ! 時計は返しただろう!?」
「許すも何も、私は特に怒っていませんよ? フィリップくんの命に従い、時計を回収しに来ただけですので」
穏やかな口調の言葉に、二人は安堵の息を漏らす。
そして今後一切、フィリップに関わらないようにしようと心に決めた。どうしてこんなものを従えているのか、そもそもこれは何者で、フィリップ自体も何なのか。そういった細かい疑問も、全て飲み下すことにする。
これで話は終わりだと思った二人の予想に反して、ナイ神父は言葉を続ける。
「魔王の寵児に対する数々の無礼、狼藉は目に余りましたが……そのおかげで、あのフィリップくんを見ることが出来たと考えれば、功罪は相剋よりやや功が勝るほどでしょう」
二人は、ありがとうございます、と一礼するナイ神父に瞠目する。
良くて叱責、最悪は死すら覚悟していた二人には、その感謝は青天の霹靂だった。
「では、お元気で」
ナイ神父がにっこりと笑う。
その直後、二人は扉が開いたことを直感した。何の魔術的感覚も持ち合わせない非魔術師である二人が、自分でもよく分からない何かの感覚で、「今なら扉が開く」という確信を持った。
「ッ!」
トニーが我先に扉へ突撃するのを、ノーマンは背中で感じていた。
どういうわけか、ノーマンの直感は「絶対に振り向くな」と声高に主張していた。
眼前の、神父の姿をした異常な何かから逃げ出したいのに。これから逃げ出せるのならなんだってするのに──いま振り向くことだけはしてはならないと、そう思った。
ナイ神父は男女問わず魅了する甘いマスクに微笑を貼り付けたまま、硬直して動かないノーマンに首を傾げる。
直後、トニーが扉を開き──
「ひ、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!? ああぁぁぁぁぁ!!」
言葉にもなっていない、悲鳴が聞こえ始めた。
聞こえた、ではなく。聞こえ始めた、だ。悲鳴は一瞬ではなく、人間の肺活量を遥かに超えた長さで続く。ずっと、ずっと、ずっと──。裏返り、喉から絞り出すような声には、恐怖と嫌悪と悲哀と苦痛が混在していた。
「あ、な、なんで、なんで!?」
ノーマンは背後で何が起こっているのか確かめたいという、未知ゆえの恐怖に対する本能を懸命に押さえこんで問いかけた。宛先は不思議そうにノーマンを観察しているナイ神父だ。
「こ、殺さないって言ったじゃないか!」
背後で上がり続ける悲鳴に負けないよう、精一杯声を上げる。
扉を開けた状態でこれだけの悲鳴が上がっているのに、誰も様子を見に来ないことが不自然だとは、何故か思わなかった。むしろ、それが当然だとすら思える。
そのことに、今更ながら疑問を感じた。──振り向きたい。振り向いて、この疑問を晴らしたい。
「怒ってはいない、と言っただけですよ。それより、君は意外と勘が良いですね」
絶対に振り向いてはいけない。何故かは分からないけれど、振り向いたら終わりだ。それだけは確実に分かる。
手足の震えが止まらない。振り向いて、今なおトニーが悲鳴を上げ続けている理由を、彼の身に何があったのかを知りたい。
何が起こっているのか全く分からないことへの恐怖を、振り向くという簡単な動作一つで晴らしてしまいたい。
振り向いてはいけない。振り向きたい。振り向いてはいけない。振り向きたい。
首が自分の意思に反して、或いは自分の意思に従って、ゆっくりと回り始める。可動範囲が限界に達すると、肩が、腰が、足が動き始める。本能的に、両目を固く閉じていた。
真後ろに向き直ると、トニーの悲鳴がより鮮明に聞こえた。
耳を劈く声量を絶え間なく出し続けることなんて、人体の構造上不可能なはずなのに、悲鳴は一度も途切れていなかった。
何が起こっているのか知りたい。
目を開けたら終わる。
目を開けてはいけない。
落ち着いて姿勢を戻し、もう一度扉に背を向けて、ナイ神父が飽きるまでずっと耐え忍ぶ方がいい。よしんばナイ神父に殺されるとしても、いま目を開けるよりは絶対にマシだと確信できた。
そう、分かっていたのに──ノーマンは恐怖に耐えかねて目を開けてしまった。
「ひ──」
自分の判断を心の底から後悔して、自分の本能を心の底から憎悪して、悲鳴を上げた。上げ始めた。
ふ、と、暖炉の炎を含むあらゆる光源が一斉に消失する。
暗闇に包まれた部屋の中に、吐き気を催す極彩色の双眸だけが浮かんでいた。
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