第119話

 砦の廊下の壁には等間隔で燭台が掛けられ、頼りなくも温かい色の明かりで石造りの床や壁を照らしていた。

 フィリップはそのうちの一本を苦労して拝借し、中庭から医務室までのルートを這うようにして戻っている。苦労して、と言うのは、燭台が少し高い位置にあったからだ。ふらつく足で背伸びするのは大変だった。


 石と木と、あとは接合材に申し訳程度の錬金素材が使われただけの建物は、この時期の夜の冷気をよく伝える。

 床についている手や膝が冷えていき、徐々に感覚が失われていくような錯覚すら覚える。


 「──はぁ」


 吐いた息が白く曇る。

 中庭に出たらもっと寒いのだろう。けれど、懐中時計があるとしたら中庭だ。フィリップがもんどりうって倒れた場所か、その近くか、或いはそこから医務室のある中央塔までの道のりにある。──捜索範囲はかなり広い。


 しばらく塔の廊下を這い回って成果を挙げられなかったフィリップは、中庭に繋がる扉の前で深呼吸をする。

 塔の奥に居た時より、息がもっと白くなっていた。


 思えば、医務室を出る時にジャケットを持ってくるべきだった。

 長袖でそれなりに良質な生地とはいえ、ワイシャツ一枚では堪える気温だ。床につく手と燭台を持つ手を頻繁に替えることで、手の感覚は守ることが出来た。けれどもう膝はキンキンに冷えているし、腋や背中からは変な汗が出てきた。


 鏡を見れば、唇が紫色に変色していることだろう。

 しかしジャケットを取りに戻れば、ほぼ確実にステファンに見つかる。そうなればあの学校医は職務に忠実に、フィリップをベッドの上に引き摺り戻すことだろう。


 抵抗しようと思えば、勿論可能だ。

 しかしそれは陸上で溺死させるか、人相も分からないような炭の塊に変えるかの二択。怪我の処置をしてくれて、フィリップの身を案じてくれる人間にするべき対処ではない。それは少し非人間的すぎる。


 このまま行くしかない。


 扉を開けると、燭台の一つも無い中庭が真っ暗に染まっていた。運の悪いことに、月も星も雲の中に消えている。

 手元の蝋燭が放つ頼りない灯りでは、ほんの数メートル先を照らすのが限界だ。訓練している時にはそこそこ広いとしか思わなかった、四方を城壁に囲まれた中庭が、今は無限に広がっているように思えた。


 ざり、と、両膝と片手を突いて。

 フィリップは気の遠くなるような捜索作業を開始した。


 普段は使われていない砦でも元は軍事施設だからか、地盤がしっかりしている。砂の層は薄く、すぐに硬い岩盤があるから、埋もれて見つからないということは無さそうだ。

 それが唯一の救いになるほど、過酷な作業だった。




 ◇




 男子・貴族用宿舎に割り当てられた塔の、中庭を見下ろす位置の部屋。

 士官用個室の内装は、魔術学院生徒寮のフィリップの部屋と、この砦のフィリップの部屋の中間くらいに綺麗な──つまり、だいたい二等地の寂れた高級宿くらいのものだった。


 そこそこ柔らかなソファに腰掛けたノーマンは、カチャカチャと耳障りな金属音から気を逸らすように、眼下の中庭で揺らぐ小さな光点を眺める。


 彼は徐に懐から懐中時計を取り出すと、じっくりと鑑賞する。磨き上げられた白金製のハンターケースと、そこに刻まれた精緻な模様、12個の緑色の宝石が、暖炉に灯る暖かな色の炎を反射して煌めいていた。満足いくまで堪能してからハンターケースを開き、一言。


 「あのチビ、漸く気付いたらしいな」


 嘲笑が多分に含まれた言葉に反応して、断続的に鳴っていたカチャカチャという金属音が止まる。


 「なんか、申し訳ない気分ッスね」


 ぽつりと呟いたのは、部屋の中央に据えられたダイニングテーブルにずらりと並んだ料理を絶え間なく口に運んでいた、ぼさぼさ頭の少年だった。

 彼の名前はトニー・エドワード。エドワード孤児院というところで育った平民であり、以前に窃盗事件を起こして退学リーチ中の問題児だ。


 「時計を盗んだ張本人が、今更何を」

 「それもそうッスね。おかげで俺は美味い飯が食えてるワケだし」


 悪びれることなく笑い、またカチャカチャと食器を鳴らして食べ始めたトニー。

 一応は貴族として育ってきたノーマンにとって、そのマナーのかけらもない五月蠅い食べ方は苦痛ですらあった。


 「内ポケットに入っているものを、どうやって盗んだんだ?」


 特に興味も無いことを、食事を遮る目的で問いかける。

 しかしトニーはもはや食事を中断せず、口に物が入った状態で受け答え始めた。


 「なんかあいつ、頭を打ったとかで医務室送りになったんスよね。あとは医者がトイレ行った隙にパパっと。チョロい仕事ッスよ、あんなの」


 自分でも出来たんじゃないスか? と、口から物を溢しながら言い放ったトニーを見て、ノーマンは何も話しかけないことに決めた。


 懐中時計を鑑賞して、眼下の中庭で動く光点を眺めて悦に入る。

 たまに経過時間を確認して「何分も探してるぞ」「無駄なことを」と嘲笑っているだけで、時間はあっという間に過ぎていく。


 カチャカチャと食器の立てる不快な音も収まり、ワインを傾けたトニーが満足そうにゲップを溢し始めたころ。


 「……あのチビ、もう一時間以上も探してるぞ」


 嘲笑を堪えきれず、ノーマンが失笑する。

 アルコールでハイになっているのか、トニーもそれに同調して笑った。


 懐中時計はここにあるというのに、寒空の下を一時間も彷徨っているその無意味さは、実に平民に似合いの姿だと。

 価値の無い存在が、無意味な行為をしている。それを暖かな部屋から見下ろす快感は得も言われぬものだ。


 「そういや、お仲間に自慢したりしないんスか? ソレ」

 「いま自慢したら、決闘で手に入れたものではないとバレるかもしれんだろうが。万が一貴様のようなクズの手を借りたなどと知られては、ワトソン男爵家の名折れだ」

 「いやー……ま、そうッスかね。バレなきゃ何やってもいいってトコには同意ッス」


 何か言いたげだったトニーは自分の中で折り合いを付けたのか、言いかけた否定を肯定に変えた。

 

 その同調に気を良くしたノーマンは、自分もワイングラスを手に取る。

 眼下、未だに無意味で無価値な行為を続ける馬鹿を肴に、一杯やることにした。




 ◇




 ふと、クトゥグアを呼ぼうと思った。

 恒星級の熱量であれば、夜の寒さも手足の震えもこの変な汗も、全部丸ごと解決できるじゃないか、と。


 いやしかし、そんなことをすれば懐中時計まで蒸発しかねない。何ならルキアも蒸発する可能性だってある。

 ここは大人しく、医務室にジャケットを取りに戻るべきか。


 折角中庭にいるのだから、ちょっと走ってみよう! というアイデアが出なかったのは、手元の明かりが移動した時の風で消えそうなほど頼りない蝋燭一本だったからだ。暗闇の中を走る訓練など受けていないフィリップでは、何も無いところで転ぶ可能性だってある。最悪、壁に激突して医務室へ逆戻りだ。


 「はぁ……」


 心なしか、吐息の白さが薄れてきたように思う。

 これから深夜に向けて気温は下がっていくはずだから、体温が低下して外気温との差が少なくなったのだろうか。それとも、単に夜の澄んだ空気のせいか。


 指先の感覚が無い。

 ズボンの膝がほつれ始めている。


 地面に触れているところから、どんどん体温が奪われていくようだ。


 「はぁ……」


 蝋燭の残りが心許なくなってきた。

 まだ『魔法の火種』こと『ファイアー・ボール』という光源はあるけれど、この頭痛と寒気の中でまともに発動させられる気はしなかった。それに、魔力欠乏は体温低下を加速させる。あまり魔術に頼りたくはない。


 いまどのくらい進んだだろう。

 中央塔から中庭の中心に向かって、蛇行しながら進んできたけれど──半分は過ぎただろうか。


 左手をついた場所に尖った石があって、小さな刺し傷ができた。

 土の傷と錆の傷は良く洗えという教えに従って、なけなしの魔力で『魔法の水差し』こと『ウォーター・ランス』を使う。体育の授業でよく転ぶフィリップに、ステファンがくれた教えだ。


 左手が燭台専用になると、右手がどんどん冷えていく。

 蝋燭の熱で温まった左手で握ったり、擦ったりしていると、血が付いて赤茶色に汚れた。パリパリに乾いて動かしづらくなるかとも思ったけれど、元々かじかんでいたから大した障害ではなかった。


 それから──それから、どのくらい経っただろう。体感的には普段の授業時間を全部合わせた、5時間くらいはあった。

 勿論そんな筈はないので、寒さがそう感じさせただけだろう。

 

 蝋燭が尽き、ふっと光源が消える。


 現在位置は確実に、中庭の真ん中を超えている。

 これ以上正門側に懐中時計があるとしたら、それはもう内ポケットから転げ落ちたというだけではない。誰かが思いっきり投擲したとか、そんな次元だ。


 捜索を続けるなら、塔に戻って蝋燭を取ってくる必要がある。

 しかし、未だにステファンに見つかっていないのが奇跡のような状態なのだ。脳震盪でぶっ倒れていた子供が、まさか真っ暗な中庭にいるとは思っていないから、塔の中を重点的に探しているとか、そんな理由だろう。


 ついでにジャケットも取りに戻りたいし、何なら置きっぱなしになっているであろうシチューも食べたい。

 手も足も冷え切っているのに、身体の震えが止まり始めた。まだ寒いとは感じているけれど、少しマシになったような感覚がある。11年という短い人生経験に於いて、こんなのは初めての体験だった。


 夜が深まるにつれて気温は下がっているのに。蝋燭も消えて、熱源は無くなったのに。

 なんで、ちょっと寒さが和らいでいるのか。


 決まっている。神経に異常をきたし始めたからだ。


 ──限界だ。


 「……ナイアーラトテップ」


 自力での捜索をすっぱりと諦めたフィリップは、ぼそり、呟くように呼び掛ける。

 何の音も前触れもなく、中庭に広がる闇から染み出すように、夜闇より黒いカソックに身を包んだナイ神父が姿を見せた。暗闇の中で、彼の捧げ持った燭台と、極彩色の双眸だけが輝いていた。


 「──如何されましたか、フィリップくん」

 

 ナイ神父が慇懃に一礼する。

 男女問わず魅了する甘いマスクには、確かな敬意の混じる嘲笑が浮かんでいた。


 「僕の時計を」


 止まらない頭痛は低体温で酷くなり、頭を内側から突き破りそうなほどだ。

 朦朧とする意識と頭痛、手や膝の痛み、そして脳震盪による感情の発露が、ナイアーラトテップに対するぞんざいな命令の原因だった。


 ナイ神父が口角を吊り上げる。

 それは彼我の存在の格差を弁えない劣等種に対する、明確な嘲弄だった。


 「この私に命じますか。この私が、従うとお思いですか? フィリップくん、それは傲慢と──」

 「


 フィリップはもう一度、ナイアーラトテップの名を呼んだ。ナイ神父ではなく、ナイ教授でもなく、ナイアーラトテップ、と。

 

 ふ、と、ナイ神父の持っていた燭台の炎が消える。

 夜闇の中に極彩色の双眸だけが浮かび上がり、フィリップを睥睨する。吐き気を催す色の瞳に見つめられ、しかし、フィリップは無感動にそれを見つめ返す。こんな体験をするくらいなら、寒さと暗闇の中で這い回っていた先程の方がずっとマシだ──と、常人であれば、そう思うのだろう。


 残念ながら、フィリップにそんな正常性は残っていない。


 「魔王の寵児として、私に命じると?」


 ナイ神父の声の質が変わらない。いつもと変わらず、嘲弄に満ちた、耳触りの良い耳障りな声だ。

 フィリップは刻々と酷さを増す頭痛に眉根を寄せ、端的に答えた。


 「──


 それはフィリップの人格から、人間性を極限まで削ぎ落した態度だった。

 この世の全てに価値を感じていない、この世の姿を知っている者の態度だ。フィリップ自身の身命も、必死に探した懐中時計も何もかもが些事。眼前の強大無比なる邪神、無貌の君、ナイアーラトテップでさえ泡沫に同じ。


 あらゆる全てがどうでもよく──故に、自らの感情があらゆる指針となる。

 理性ある人間の姿ではない。それは外神の在り方──特に、シュブ=ニグラスやナイアーラトテップといった、外神の中でもトップクラスの存在の在り方そのものだった。


 フィリップは自身が最も忌み嫌う、非人間的な思考と態度でいることに気付いていない。いや、もはや自分が何を考えているのかも判然としていなかった。


 そんなフィリップの姿に、ナイ神父は身体を震わせて笑う。

 それはいつも通りの敬意混じりの嘲笑でありながら、どこか歓喜をも孕んでいるように見えた。


 「──御意に」


 深々と、化身の構造が許す限り丁寧に腰を折り、跪くナイ神父。返答する声には妖しい艶があった。

 胸に手を当て、地に頭を付けたその姿を最後に見て、フィリップの意識は暗転した。



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