第118話
ステラとルキアから逃げるように砦へと戻ったノーマンは、苛立ちを紛らわせるように爪を噛みながら歩いていた。その無様な姿にひそひそと言葉を交わす周囲の雑音が苛立ちを加速させる。
「申請、申請だと!? 平民を教育するのに一々申請が必要など、この国はどうなってるんだ!」
ステラが聞いていれば無礼討ちに焼却されそうな愚痴を声高に叫ぶ。
こいつ正気か、という視線が何人かの生徒から向けられていることに、彼は気付いていない。
「いや、待て、落ち着け。俺がやるべきことは、まず……」
ぶつぶつと呟きながら男子・貴族用宿舎へ向かうノーマン。その気味の悪い様相に、近付いてどうしたのかと声をかける者はいなかった。知り合いだったとしても他人のふりをしたくなるほどだ、赤の他人は積極的に避けようとするだろう。
「元はと言えば、あのチビが身の程も弁えず王女殿下に馴れ馴れしく……いや、だが殿下の行いに口を出すわけには……」
ぎちり、爪を噛みながら思考する。
大見得を切って出てきた手前、マルクとアンドレの所には戻りづらい。せめて何か、誇れる戦果でもあればいいのだが。
たとえば──そう、あの平民の手には余る、見事な装飾の施された懐中時計とか。
「そうだ。せめてそのくらいの罰は受けるべきだ……」
懐中時計は市場が存在しないほどの貴重品だ。奪ったところで金に換えることはできない。
しかし、欠点はそれしかないのだ。いつどこにいても現在時刻を把握できる道具は非常に魅力的だし、たとえ壊れてしまってもあの外観だ。美術品として手元に置いておく価値は十分にある。最悪、宝石だけ外して売ればいい。
確か、以前に窃盗騒ぎを起こして訓戒処分──退学一歩手前の重罰を受けた生徒がいたはずだ。そいつにやらせよう。奴も平民だったはずだし、金貨何枚かを握らせれば思い通りに行くだろう。
ノーマンは立ち止まり、中庭を見遣る。
少し見回して目当ての人物を見つけ、口角を歪めた。
「おい、貴様。ちょっとこっちへ来い!」
◇
部屋に戻って落胆し、悪足掻きに中庭を一周し、正門でウォードを見つけた時のフィリップの喜びようは、ペアがふらりと居なくなったウォードの怒りを鎮めるには十分なものだった。
フィリップが真剣にウォードを探していたということが伝わったからだろう。事実、フィリップは本当に外周二キロを探し回るつもりでいた。
「マクスウェル様に声を掛けられたときは、絶対に怒られると思ったんだけど……二人ともがお互いを探して、入れ違いになってたのかな」
「そうみたいですね。合流できてよかったです」
いやーよかったよかったと笑い合って。
「で、何してたの?」
「うっ……」
まさか友達と遊んでいました──正確には魔術を見せて貰っていたのだが──とは言えず、しかし嘘も吐けずに言葉を詰まらせる。
特に責めるつもりがあったわけではなく、単なる興味本位だったウォードは、視線を泳がせるフィリップの反応に首を傾げた。
さっと思索して、ウォードの脳裏にフィリップの「友人」二人の姿が閃く。
「あ、待って。今の無し」
フィリップが「二人に誘われちゃって」とか答えた場合、ウォードの言葉を批判と捉えられると不味いことになる。フィリップは言葉尻を取って訴えるようなことはしないと信じられるが、他の貴族はそうではない。
下手に掘り下げて王族・貴族批判になっても困る、とウォードは好奇心を飲み下した。
「ちょっと身体を温めて、また模擬戦ね」
少し移動してからショートソードの模擬剣を渡し、ウォードもロングソードの模擬剣を構える。
肩慣らしに素振りを始めたウォードに倣ってフィリップも剣を構え、ウォーミングアップをこなす。
午前に多少動いたからといって昼食後にいきなり模擬戦をすると、固まった関節が悲鳴を上げ、最悪外れることになる。脱臼はめちゃくちゃ痛いのだと、フィリップは身を以て学んだ。
ウォードにやられた訳ではない。思いっきり振った剣の重みと慣性が、未発達な上に鍛えられていないフィリップの身体に襲い掛かったのだ。
フィリップはちょっと泣いた。
「……よし、じゃあ、始めようか」
ウォードの言葉を合図に、基礎練習用のエリアに割り振られた中庭の隅から、模擬戦用に割り振られた真ん中の方へ移動する。
「今回は僕が攻めるから、フィリップくんは守る練習をしてみよう。剣で防いでもいいし、距離を取って魔術を照準してもいいよ。……絶対撃たないでね?」
「撃ちませんよ!」
ウォードが構え、フィリップも応じるように構える。
相手の一挙手一投足を見逃さないよう、じっと集中して──気付いた時には、ウォードはフィリップの真横にいて、ロングソードを振り上げていた。
「ッ!?」
漏れそうになる驚愕の声を押さえ込み、咄嗟にショートソードを掲げて盾にする。
我ながら称賛したくなる速度の反応をしかし、ウォードは苦笑と共に切り捨てた。
「それは駄目だね」
ショートソードは本来、盾と併用する武器だ。むしろ、そのためにロングソードを小ぶりに改良したものこそがショートソードである。
つまりショートソードは攻撃専用で、防御に使うことを想定されていない。特に、片手で柄を、もう片方の手で刃部を握って両手で相手の攻撃を受け止める、ロングソードのオーソドックスな防御の構えを使えないのが痛い。ショートソードでは短すぎて、力が込めにくいのだ。
だから普通は、相手の攻撃を横から殴りつけるようにして逸らす。
いまフィリップがやっているように、そしてウォードがダメ出しをしたように、相手の攻撃線上を遮るだけなど論外だ。勢いと重さと力でねじ伏せられる。
ウォードは剣を振り切らず、フィリップの剣に当たった瞬間に止めた。
剣の勢いと、それでは防げないということを体感して欲しかったからだ。
フィリップの筋力はだいたい把握しているから、想定外にガードが弱くて顔を思いっきり殴りつけてしまった、なんてことにはならない──はずだった。
結果から言って、フィリップが握ったショートソードは、柄を基点としたバネのように顔面へと襲い掛かった。
ぱん、とか、こん、とか。そんな甘っちょろい音ではなく、ごすん、と重い音が脳天に響く。
原因はフィリップの握り方と、手首の固定が甘かったことにある。
ウォードのデモンストレーション程度の攻撃を受け止めきれず、勢いがそのまま流れてしまったのだ。
「痛ったぁ!?」
反射的にそう言ったはずだ。たぶん。
実際に口から漏れて、ウォードが耳にしたのは声未満の音のような断末魔だったとしても。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
模擬剣は手からすっぽ抜け、両手で顔を押さえて蹲るフィリップ。
「フィリップくん! フィリップく……気絶してる!?」
想定以上のダメージを与えてしまったことに動揺するウォード。しかし彼は日頃から模擬剣で打ち合っている軍学校生だ。気絶したことも、させたこともある。
慌てつつも的確に救護処置を施しつつ、近場に居た生徒を医務室へ走らせた。
そんなこともあり、フィリップは医務室のベッドの上から真っ暗な窓の外を見て、三日目の午後を丸ごと無駄にしたことを知った。
「おっ、おはよう。いや、こんばんは? 君にしては重傷だったね」
「あ、ステファン先生。こんばんは」
医務室の扉を開けて入ってきたのは、魔術学院学校医であるステファン・フォン・ボードだった。
体育の授業三回につき一回は転ぶフィリップが、おそらく学院いち仲のいい教員である。そして、それはステファンにとってもそうだった。
名前の通り貴族である彼女は、二つ名持ちの治療術師でもある。
当然ながらそんな威圧感ある要素を併せ持つ相手がいては、医務室を利用し辛いというものだ。一年を通して、本当に緊急の場合以外は誰も来ない──いや、医務室なんぞには誰も来ない方が平和なのだけれど──寂しさを何年か味わっていたステファンだ。
彼女は端的に言って、人との繋がりに飢えていた。
紙で指を切ったとか、転んで膝を擦りむいたとか、なんか分からんけどお腹が痛いとか。そんな軽い症状で頻繁に医務室に来る、唯一の生徒と仲良くなるのは必然だった。
「僕の顔、ちゃんと左右対称ですか?」
「人間の顔はもともと左右対称じゃないよ……。顔の傷は軽い打撲だね。脳震盪の方はけっこうキツかったけど、そこは私の腕ってヤツ? 明日には完全に治ってるわ」
フィリップの言葉に笑いつつ、ステファンは怪我の内容と度合いを語る。
立て板に水に施した治療についての説明を終えると、彼女は「晩御飯、貰ってくるわね」と言って出て行った。
ステファンが居なくなると、医務室は窓際の一番いいベッドを占領しているフィリップと、あとは空のベッドが三つだけの空虚な空間になる。
窓から差し込む月光が白いシーツを照らし、夜と消毒液の匂いが漂う、得も言われぬ風情があった。
「──はぁ」
昼食からあまり運動せず、寝て過ごしたからだろうか。あまりお腹が減っていなかった。
いま何時くらいなのだろうと、ベッド脇のラックに吊られたジャケットに手を伸ばす。しかし、その内ポケットには、確かにそこにあるはずの懐中時計が収まっていなかった。
どこかに私物が分けて置かれているのかとベッドの脇を見てみるも、サイドテーブルには水差ししか乗っていない。引き出しは空だった。
「……え?」
ぽつりと漏れた不安の声は、完全に無意識のものだ。
フィリップをここに寝かせるときに脱がせて、そのときに落としたのだろうか。落としそうになった王様がぶん殴られるレベルの代物らしいけれど、この場合、殴られるのはフィリップなのだろうか。それともステファンか、フィリップを運んでくれたであろうウォードなのか?
「そんなことを考えてる場合じゃないぞ、っと」
まだ少しふらつく足で立ち上がり、シーツを退けてみたり、ベッドの下を覗き込んでみたりするも虚しい。
「ただいまー、って、まだ立っちゃ駄目よ!」
夕食のトレーを持ったステファンが足で扉を開け、ベッドの下を覗き込んでいたフィリップに目を瞠る。
今日の夕食はクリームシチューとパンらしい。あのパンは硬くて食べにくいけれど、ほかほかのシチューでふやかすのなら最高の組み合わせだ。──そんなことはどうでもよくて。
「先生、僕の私物って持ってますか?」
「ん? ジャケットならそこのラックよ」
「……そう、ですか」
頭が痛いせいか、いつもより思考の回転が遅い気がする。
この頭痛は──ずっと気絶していたからか? それともまだ脳震盪の影響が残っているのか?
まぁ、どちらでもいいか。
「……何処に行くの? 今日は一応様子見ってことで、ここで寝てもらうわよ?」
「……トイレです」
ふらつく足で部屋を出ようとしたフィリップに、ステファンは怪訝そうな目を向ける。
「待って。転ばないように、一緒に行くから──」
フィリップの言葉を信用したのか、彼女はそう言って部屋の奥へ視線を向けた。ベッド脇のサイドテーブルに、両手を塞ぐ夕食のトレーを置くつもりだろう。
──彼女がトレーを置いて、フィリップの手を取る前に、ここを出なくては。
時計を失くしたんですけど、探すのを手伝ってくれませんか? なんて、言えるはずもない。
もしもそれがルキアの耳に入れば、きっと悲しむし、怒るだろう。それは嫌だった。
「ッ!」
「待ちなさい、カーター君!」
フィリップはステファンの制止を無視して、医務室を勢いよく飛び出す。
何かに突き動かされるように、普段の数倍は感情的に動くその様子は、脳震盪の症状そのものだ。
治療魔術で神経や血管は正常に戻せても、一度分泌された神経伝達物質の分解にはそれなりに時間がかかる。だから一晩は安静にさせておきたかったのに──もしいま転倒や衝突で再び脳震盪を起こせば、重篤な後遺症を齎すセカンドインパクト症候群になる可能性もある。
そうなると、流石のステファンも治療できるかは時間との勝負だ。
「カーター君! 待って!」
ステファンはトレーを置き、慌ててフィリップの後を追った。
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