第114話
初日の夜。
入浴を終えたフィリップを出迎えたのは、そわそわとせわしない様子のウォードと、気の滅入るようなみすぼらしい部屋だった。
「……その、カーターくん。さっきの話なんだけど」
「ルキアと殿下の話ですよね? 二人は学院のクラスメイトで、仲良くして貰ってるんです」
恐る恐るといった風情で切り出したウォードに、フィリップは淡々と答える。
仲良くなるに至る経緯を語るにしても、かなりの部分を改変する必要がある。カルトはともかく黒山羊については隠すほかないし、ステラと経験したあれこれについては全く話せない。なんせ開幕からナイアーラトテップによる意識隔離だ。
僕と彼女たちの仲が良いのは普通のことですよ。何も怪しいところの無い、取るに足らないことですよ、と。
そう聞こえるように、なるべく気軽に言ってみたのだけれど──ウォードの反応は芳しくない。
「う、うん。そっか……。それで、僕は君のことをどう呼べばいいのかな。カーターくん、というのは流石に不味いよね?」
不味い。
いや、その呼び名がではなく、この流れが非常に不味い。
このままではウォードもフィリップのことを貴族か枢機卿関係者かと疑い始めるだろう。いや、既に疑っていて、今夜の会話でそれを確定させるつもりだ。
どうするか。
別に、誰にどう思われようが知ったことではないし、ウォードとはこの一週間だけの付き合いだ。彼が隣のベッドで死んでいたとしても、大して気に留めないことだろう。腐敗さえしなければ。
とはいえ、この一週間で基礎的な剣術を身に付けておきたいのは本心だ。
彼の協力は惜しいし、何より同じ衛士団のファンである。
──同じ?
「タベールナっていう宿屋、知ってますか?」
「え? うん。……なんで?」
なんで知っているのか。或いは、なんでそんな質問をするのか。彼の問いに含まれる疑問がどちらなのかは分からない。
フィリップの質問は、半ば確認だった。フィリップが吹き飛ばした区画とタベールナはそう近いわけでもないし、かといって街の正反対というわけでもない。歩いて10分かそこらの距離だ。
二等地に実家があるのなら、宿に泊まる機会はないはずだ。近所の宿について知っている可能性は低い。
しかし、タベールナは衛士団と提携しており、宿泊部屋の何割かが常に衛士によって使われている。他にも幾つか提携宿はあり、衛士団のファンなら本部と詰所の次くらいには行ってみたい場所のはずだ。
それに、タベールナは宿としてより食堂の人気の方が高い。それは副料理長が揮う一等地のレストラン級の腕前と、セルジオの酒に対する目利きによるもの。近隣住民が外食に来ることだってあった。
フィリップが丁稚を始めた時期とウォードが軍学校に入った時期はだいたい同じだから、会ったことは無いけれど、フィリップが来る以前には利用したことがあるはず、という読みだ。
「僕、そこで働いてたんですよ」
「……え? ホントに?」
「はい。今度の休みにでも行って貰えば分かりますけど、僕は本当にただの平民ですよ。女将と母は友人ですし、僕の素性についても保証してくれると思います」
ほんとかなぁ、と言いたげな視線を向けるウォード。
フィリップは軽い嘆息を溢し、自分のベッドに腰掛けた。
まぁ、こんな一要素だけで信じられるとは思っていない。ここは一つ、ルキアに学んだ手法を活かさせて貰おう。
彼女と初めて出会った森で、あの夜にした──寝るまで駄弁るという、最悪のコミュニケーションを実行する。
互いに思考も判断もボロボロになって、しかしテンションだけは高まり、妙に仲良くなれる、あれを。
「僕の実家って──」
詳細は省くが、フィリップはウォードの祖父が牧場を持っているという知識を得た。
◇
翌日の朝食の席で、自身の巧みな弁舌──自称、巧みな弁舌を自慢したフィリップに、ルキアとステラは呆れ笑いを浮かべる。
たかだか一週間そこらの付き合いにしかならない他校の生徒にそれだけの熱意を費やし、三年間共に過ごす自校の生徒に対しては諦めているあたりのズレが、如何にもフィリップらしいと。
「それでですね」
「剣術を教わるという話なら、もう4回は聞いたぞ」
「ウォードがちゃんと剣を教えてくれるんですよ! 楽しみで全然寝られませんでした!」
それも聞いたわ、とルキアが笑う。
フィリップの目元にはうっすらと隈ができており、その言葉が単なる誇張表現でないことを主張していた。
ステラは先ほどから、フィリップがこれを言うたびに怪訝そうに首を傾げる。
たぶん、フィリップが寝られなかった本当の理由──硬いうえに微妙に臭いベッド──を隠しているから、言葉に嘘や誤魔化しの気配を感じ取っているのだろう。自分の感覚や経験から嘘だとは分かっているのに、どこが嘘で、何のための嘘なのか分からない、と言ったところか。
そして、寝不足のフィリップはそんな彼女の反応に気付いていない。
どう考えてもフィリップの部屋の惨状を知らせてはいけないルキアはともかく、ステラがどういう反応をするのか。幸いにして、フィリップがそれを知ることは無かった。
「カーター、そんな状態で剣なんて振れるのか? 怪我するぞ?」
「あー……確かに……」
フィリップはその懸念に素直に頷いた。
目の渇きや筋力の低下といった寝不足特有の症状は自覚している。思考の回転も遅いし、何より同じ台詞を何度も繰り返すということは、記憶能力に問題があるということだ。何かを教わるコンディションではない。
「あの……ここって昼寝とかできますか?」
「あぁ。……いや、待て。午前中はそのままか? 食べ終えたら、一時間くらい仮眠してから行くといい」
公務の中で似たような経験でもあるのか、ステラの言葉は単なる心配ではなく解決策の提示だった。彼女らしい台詞と指し示された柔らかそうなソファに、フィリップは何も考えずに「そうします」と頷く。
「カップ一杯の紅茶を飲んでからの仮眠はいいぞ? 一時間ほどですっきり起きられるし、思考も冴える」
「へぇ……じゃあ、毎晩八杯飲んで寝たら最適ってことですか」
カップを傾けていたステラが失笑し、盛大に噎せる。
咳き込む声に反応して、ソフィーともう一人の門番役の生徒が扉を開け放った。二人は腰に佩いた剣の柄に手を掛けている。
「大丈夫ですか、王女殿下!?」
「──大丈夫よ、下がりなさい」
八割方寝ているのかと言いたくなる思考の帰結を見せたフィリップがツボだったのか、片手で顔を覆って震えているステラに代わり、ルキアが応じる。
どうでもいい相手に対するときの冷たい口調に、二人がひゅっと息を呑む。
二人が失礼いたしましたと頭を下げて退室するまで笑い続けていたステラは、発作が収まると、ぴっとソファの一つを指した。
「寝ろ」
部屋のベッドより談話室のソファの方が柔らかいという悲しい知識を得たフィリップは、朝食前より良いコンディションで中庭に立っていた。
同じ境遇のはずのウォードが仮眠無しでも問題無さそうなのは、軍学校の過酷な環境に対応させる訓練が効果を発揮しているということか。事実、平民用宿舎に泊まっていてぐったりしているのは、睡眠に力を入れた寮に慣れた魔術学院生だけのようだ。
「フィリップくん、準備はいい?」
「あ、すみません、ウォード。大丈夫です」
周囲を観察する余裕が出てきたフィリップの意識を、ウォードが声をかけて引き戻す。
今日からは、飽きさせるための素振りなどとは違う本気の教導が始まるのだから。
フィリップが手にした獲物は、刃渡り60センチほどの両刃の直剣。一般的にはショートソードと呼ばれる、柄の短い片手持ち専用の剣──その刃を潰した模擬剣だ。
ウォードが手にした獲物は、刃渡り1メートルほどの両刃の直剣。こちらはロングソードと呼ばれる、柄が長く両手持ちにも対応した汎用性の高い剣だ。こちらも刃は潰されているが、どちらも当たれば重度の打撲から骨折に至る、鉄の塊である。
二人は中庭の真ん中あたり──中庭は中心付近が模擬戦用、外周部が素振りなどの基礎訓練用になっている。周囲に危険が及ぶ弓や魔術は、砦の外に訓練スペースがある──で向かい合い、己の武器を構える。
「僕を斬り殺すつもりで、本気で向かってきてね。僕は、そうだな……片手だけ、後退無しで捌くよ。一度戦えば、君に合った戦い方とか、やるべき練習を教えてあげられると思う」
「よろしくお願いします!」
フィリップに本で得た知識以外の武術の心得があれば、ウォードの言葉の異常性には一瞬で気付けただろう。
しかしフィリップは「それっぽい」言葉に興奮し、威勢の良い返事をする。もしもウォードが詐欺師だったら、カモ獲得だとほくそ笑んでいたかもしれない。周囲の生徒はウォードの言葉を大言壮語として嘲笑っていたし、それに素直に返答したフィリップにも同質の視線を向けている。
「うん、じゃあ、始めようか。かかっておいで」
「はい!」
返事をして、フィリップは身を屈める。深く、地を這う蛇のように。それは以前にリチャードが見せた、フィリップが明確に覚えている動きだ。
「っ!」
予備動作を見た瞬間に、ウォードの目が見開かれる。
咄嗟にロングソードを両手で持つ防御の構えを取ろうとして、自分で言ったルールを思い出す。片手で、後退無し。それは剣を振ったことのない、体格でも劣る子供相手ではハンデにもならないような条件だけれど──あれの前では、自殺行為以上の効果はない。
相手の相対距離・相対位置認識を狂わせる攪乱の歩法、『拍奪』。
魔術剣士として名高いリチャード・フォン・ルメールや、軍学校内模擬戦大会にて三年間連続二位を取り続けているソフィー・フォン・エーギルの使う、速度重視の流派の技だ。
どうしてそれを、11歳の子供が使うのか。
あれはウォードどころか、軍学校首席アルバート・フォン・マクスウェルでさえ修得できなかった特殊に過ぎる技術だというのに。
侮ったか。
ウォードが片手でできる最大限隙の無い構えを取ると同時に、フィリップの足に籠った力が解放される。
そして。
「──うゎ」
どしゃっ、と。盛大に砂埃を巻き上げて、フィリップが前のめりに転倒した。
「……え?」
「痛っ……めちゃくちゃ難しいなあ……なんでバランス取れるんだ、というか、こんな姿勢で走れるわけないだろ……」
擦りむいた膝の傷をふーふーと吹いて砂を飛ばしながら、ぶつぶつと呟くフィリップ。
そんな様子を見ていれば、彼が使い手でないことはすぐに分かった。ウォードは自分の勘違いと過剰反応に苦笑し、水筒を差し出す。
「今の、『拍奪』……の真似だよね。どこで見たの?」
「クラスメイトがこんな感じで走ってたので、真似してみたんですけど……想像より難しいですね」
傷口を洗いながら、フィリップは照れ混じりの苦笑を浮かべる。
失敗して当然というか、十中八九失敗するとは思っていた。だから苦笑の宛先は失敗そのものではなく、おまけで付いてきた膝の傷だ。
「それに関しては、僕も教えられないな……。三年生に一人だけ、その流派を修めてる先輩がいるんだけど」
「あ、いえ、やってみただけなので。基本的なことだけ教えてくれれば大丈夫です」
「そう? じゃあ、もう一回。今度は普通にね」
二人はもう一度、15メートルほど離れて向かい合う。
フィリップはもう見様見真似の型は使わず、素直に剣を持って駆け出した。
「ッ!」
初撃──フィリップが生涯で初めて人を狙って剣を振った、正真正銘の初撃は、ウォードの左肩を狙う上段からの振り下ろしだった。
昨日やった、ウォードが飽きるまでやらせようと思っていた、素振りに最も近い動き。フィリップが一番慣れていて、ウォードも一番慣れている動きだ。
「いいよ、そんな感じ」
剣同士がぶつかり合ったとは思えない軽い音、斬りかかられているとは思えない軽い言葉と共に、フィリップの剣が弾かれる。
かなり加減してくれていることが分かる、反動をほとんど感じない防御だった。
弾かれた剣に力を籠め、首元を狙って振り直す。
しかし助走をつけての一撃を容易く弾いたウォードに、崩れた姿勢からの攻撃が通るはずもない。
「いいよ、もっと打ってきて」
半円を描くような受け流しは、フィリップが過剰なほどに込めた力を使い、剣を足元へ誘導する。
そのまま峰を踏みつければ剣を奪えるし、剣に引っ張られて身体の流れたフィリップの姿勢では、脇腹や首ががら空きだ。そこを突くことも出来る。
ウォードはどちらもせず、一歩だけ前に出た。
その一歩分だけ、フィリップは剣を振り上げるための空間を削られた。
剣は振り上げるより、重量を利用して振り下ろした方が威力が出る。それを分かっているフィリップは一歩下がりたいところだが、崩れた姿勢では移動にすら支障が出る。
「お、いい手だけど……軽すぎるね」
苦し紛れの体当たりは、ウォードに一歩分の後退すらさせられなかった。
ぺちりと足首にウォードの模擬剣が当たる。
痛み未満の感触になるよう手加減されていたが、これが実戦なら足首の腱が切断されていたことだろう。
ぐいと襟首を引かれ、体術の技か何かで地面に投げられる。寝かされる、と言った方が正確なほどの柔らかさで。
「……おぉ」
武術の心得が無いフィリップですら一瞬で分かるほどふわふわに手加減されて、その上でボコボコに──完膚なきまでに負かされたフィリップがようやく絞り出したのは、そんな感嘆符だった。
「いいね。流石に実戦経験者は違う。攻撃に躊躇いが無いし、僕の動きに一々怯えない。……ちょっと警戒心が薄すぎるけど」
初心者がやりがちな、相手の剣を狙っての攻撃──相手を傷付けることを無意識に避けたり、相手の攻撃に怯えて動きが硬くなるようなことがない。
相手を殺せるという大前提をクリアしていて、そのうえ自分が傷付くことを恐れない才能もある。恐怖の克服は戦士として大成する第一歩だが、既にそれを為している。
これが実戦経験者かと一人で納得するウォードだが、不正解だ。
フィリップは他人の命にも、それを傷付けたり奪ったりすることにも価値を見出していないだけだし、致死性の攻撃はヨグ=ソトースが防いでくれるという信頼があるから無防備なだけだ。
戦闘に向いているというより、良識ある人間であることに向いていない。根本的に破綻者なのだ。
「うん。これなら、戦闘訓練を繰り返すのが一番かな。もう一回やろうか」
ウォードが構え、フィリップも立ち上がる。
二人の打ち合い──というより、フィリップを地面に転がし続ける作業は、夕食時まで続いた。
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