第105話

 「分かるよ」と、その一言がフィリップに与えた衝撃は、この空間に入ってから──否、あの地下祭祀場以来で最も大きなものだった。


 フィリップと縁遠い言葉には「正常」とか「狂気」とか色々とあるが、「共感」もその一つだ。

 価値観の壊れ切ったフィリップが誰かに共感することも、誰かに共感されることも、同じくらい有り得ない。人間は外神の視座に合わず、外神は人間性の残滓に合わないのだ。ルキアやステラは辛うじて価値観を同じくする場面もあるが、それでも二人は人間だ。ほぼ人外領域にいる魔術師とはいえ、外神の視座には程遠い。


 ルキアはシュブ=ニグラスに触れ、唯一神の弱さや世界の小ささを知った。だがそれ以上に、シュブ=ニグラスという外神に魅せられている。


 フィリップにとって、それは何も知らない状態より多少マシ、程度のものだ。

 信仰する先が蛆虫と区別が付かないような唯一神か、外神の中でも最強の一角であるシュブ=ニグラスかなど、大した差ではない。彼女は確かに強大で、フィリップにとってはある程度信頼できる保護者かもしれないが、この泡のような世界で、それが一体何の価値を生むと言うのか。


 明日世界が滅ぶとしても、今日が無くなるわけではない。今日世界が滅ぶとしても、積み上げてきた昨日が無くなるわけではない。

 だから、いつか世界が滅ぶとしても、何もかもが無意味だということにはならない。


 ──フィリップの愛読書だった冒険譚はそう語った。


 だが、アザトースの目覚めはそんなものではないのだ。

 明日が消える。今日が消える。昨日が消える。意味が消える。価値が消える。この世の全てが、この宇宙の外側に居る外神たちですら、夢のように──夢として消える。


 いや、そもそも。。世界の全ては、アザトースの見る夢でしかないのだ。

 目に映る全ての物が、全ての人が、その生き様や成し遂げたことの全てが、ただの夢。


 だから、世界は泡のようなものだと、フィリップは思う。人間という劣等種だけでなく、旧支配者、果ては外神にすら価値を感じないのはそれが理由だ。

 そんな価値観を誰かと共有したいとは思わない。思わないが──誰とも価値観を共有できないというのは、人間の脆い精神には強すぎるストレスでもある。フィリップが孤独感を覚えた時には、決まってマザーの抱擁かナイ神父の嘲弄が気を紛らわせてくれていたが。


 さておき、そのフィリップに共感できるということは、この世界の本当の脆さを知っているということか。

 有り得ない。そんな人間が居るはずがないし、そんな人間がまともに口を利けるほど正気を保っていられるはずがない。まともな思考ができる時点で、フィリップのように狂気を剥奪されているとしか考えられない。


 「ナイ神父、もしかして同道者を作ろう計画とかやってます?」

 「この私が──君の特別性と唯一性を損なうと?」

 「うわぁ!?」


 仮面のような笑顔がいきなり星空に変わり、びっくり箱でも開けたように飛び上がるフィリップ。

 怖くはないし発狂もしないが、心臓に悪いのは確かだった。


 「じゃ、じゃあ、殿下に手を加えてはいないんですね?」


 早鐘を打つ心臓を胸の上から撫でて押さえながら、もう一度確認する。

 フィリップが孤独感を覚えていることに気付いて策を弄したとか、それでこの試験にステラを巻き込んだとかなら、ちょっと対応を考える必要があるが──言われてみれば、ナイアーラトテップのアザトースへの忠誠は本物だ。嘲笑も同時に向けているとはいえ。


 フィリップの複製品のようなものを、ナイアーラトテップが自発的に作ろうとするとは考えにくい。


 では何だ。

 考えられるのは──「ゾス星系よりのもの」とフィリップが召喚したハスター、召喚未遂だったクトゥグア辺りが原因で発狂したか。人間では理解できないほど強大なものを羅列され、自らとその世界の矮小さを知ってしまったか。


 フィリップにとっては今更というか、「うん、そうだね」くらいの事柄だが、普通はショックを受けるはずだ。彼女はいま、立っている地面が薄氷だったと知らされ、吸っている空気が近いうち枯渇すると知らされたような不安感と絶望を抱いているのだろう。


 「……ん?」


 いや、待て。

 確かステラは先ほど、「ゾス星系よりのもの」を目にした時点で一度狂っている。それがこうも早く復活するものだろうか。


 破損した精神が自然治癒することは珍しいが、有り得なくはない。しかしそれには長い時間と休養が必要なはずだ。こんな空間でこんな短時間でどうにかなるほど、狂気は甘いものではない。

 それに、彼女は「ゾス星系よりのもの」だけでなく、クトゥグア召喚の魔術やハスターの化身を目にしている。そのダメージは彼女の精神を2,3回殺して余りあるはずだ。


 彼女が示した共感も、狂気ゆえと考えれば辻褄が合う。自分で言っていて悲しくなることだが。


 「……ナイ神父、精神治療とかできますか?」


 何の期待もせずに訊いたフィリップに、ナイ神父は顔に浮かべた星空を引っ込め、代わりに甘いマスクで嘲笑を向けた。

 しかし彼が答える前に、ステラ本人が「いや」と遮る。


 「いや、不要だよ。記憶でも消せば元通りになるだろうが、私はそれを望まない。……望むべきではない」


 穏やかに返されたその答えに、フィリップは値踏みするような目を向けた。


 「何故です? その知識は異常な──知らない方がいいものですよ」

 「だろうな。それで? 私がそれを知らなければ、その事実が無くなるのか? 私たちの世界は、正常なものになるのか?」

 

 どこか諭すような言葉に、フィリップは思わず目を瞠る。

 それはフィリップが今の今まで、一度も外神たちに「僕の記憶を奪ってくれ」「元の状態へ戻してくれ」と願わなかった理由の一つだった。


 尤も、世界はその姿こそが正常であり、健常な人間はそれを知らないだけなのだけれど──今は、それは問題ではない。


 「……は」


 全くとんだ思い違いだったと、フィリップが失笑する。

 

 「はははは……」


 顔を押さえ身体を揺らして笑うフィリップに、ステラが困惑を、ナイ神父が変わらず嘲笑を向けるが、フィリップは構わず発作が収まるまで笑い続けた。


 そして、漸く笑い終えて息を整えた後。


 「なるほど」


 と、たった一言だけ答えた。

 ナイ神父とステラには、それだけで十分だった。




 ◇




  夢を見ていた。

 

 眼前には無数の触手を持つ何か──ナイアーラトテップ、シュブ=ニグラス、あるいはハスター。フィリップの知る触手の集合体の化身を象る邪神たちに似ていて、そのどれとも決定的に違うものがいる。

 それは言うなれば、触手のカリカチュアだった。


 神経を過敏にし精神を昂らせる麻薬の粘液を滴らせる触手が伸び、肌に触れる。

 それらは薬剤を塗りたくりながら、胸を撫で、背中を這い、腕に絡み、指の一本一本を舐める。股間から足の指先まで、首筋から頭頂部までを丹念に薬剤に浸した後、一連の責めはあくまで薬剤塗布作業でしかなかったと示すように、本気の凌辱を開始した。


 時には撫で、時には締め付け、時には引っ掻き、時には刺し貫きすらする。

 眼窩から後頭部へ、脇腹から肩へ、胸から背中へ触手が貫通して蠢いているのに、口から漏れるのは苦痛ではなく快楽の喘ぎだ。


 触手が動くと、身体も動く。

 触手が動くと、快楽の喘ぎが漏れる。


 無数の触手に責め苛まれ、快楽に喘ぎ悶えるクトゥルフの巨体を、夢の中のフィリップは何もするでもなく眺めていた。




 「──ッ!?」


 フィリップが飛び起きると、そこは整然と片づけられたナイ教授の研究室だった。

 身体が沈み込むような柔らかなソファに寝かされており、胸元までブランケットが掛けられている。ソファの足側にはナイ神父が立っており、フィリップに嘲りの籠った視線を向けていた。


 「おはようございます、フィリップくん。ご気分はいかがですか?」

 「……おはようございます。なんか、物凄く変な夢を見た気がするんですが」


 説明しようとすると思い出せない辺り、まぁ何となく嫌な夢、くらいの夢だったのだろうと一人で納得する。


 身体を90度回転させて立ち上がろうとすると、ローテーブルを挟んで反対側のソファでステラが身体を起こすところだった。


 「……殿下?」


 あの空間から出るときは入るときと同様、眩しい光と共に意識を奪われるくらいのイベントしかなかった。

 だがそれ以前の時点で、彼女の精神は甚大なダメージを負っている。ほんの少しの刺激で発狂する可能性もゼロではない。


 おそるおそる、安否を確認するように呼び掛けると、彼女は杞憂だと言わんばかりに苦笑した。


 「大丈夫だよ、カーター。右手が少し痛むがさっきほどじゃないし、気分も落ち着いている」

 「右手が? 後遺症とかですかね?」


 あちらで死ねば、そのイメージが現実の肉体をも殺す、という話だったはずだ。あちらの傷がこちらの肉体に影響を与える可能性はゼロではない。

 ナイ神父に目を遣ると、彼は「そうでしょうね」と笑って頷いた。「治してあげて?」という意図は伝わったはずだが、完全に無視されている。


 「……そいつを信頼しているのだな、お前は」

 「は?」


 可笑しそうに言ったステラに、フィリップは自分でも驚くほど冷たい声で返す。

 

 信頼? 誰が? 誰を?

 ナイアーラトテップ、千の貌を持つ邪神を信頼するなど愚の骨頂。その素性を知っていてなお近付くだけで愚者の烙印を押されるような相手だ。


 「……一応言っておきますけど、コレはさっきの奴らの何百倍もヤバい存在ですからね。無闇に近付かないように」

 「喩えが下手ですね、君は。ゼロは何億倍してもゼロでしょうに」

 

 嘲弄と揶揄の中間くらいの言葉を投げてくるナイ神父に「うるさいな」という目を向けると、ステラは「そういうところだよ」と笑った。


 「お前はルキアの前でも見せない素を、そいつの前では見せているだろう? さっきのテストでも、そいつの能力や思想を理解している風だった」

 「それは──」


 「


 言い募ろうとしたフィリップも、揶揄うような笑顔を浮かべたステラも、ナイ神父のその一言で凍り付いた。ただの感嘆符、内容の無いただの一言が、二人の思考を完全に停止させる「圧」を持っていた。

 数秒の硬直から復帰した後、ステラは驚愕に目を瞠り、フィリップは訝しむような視線を向ける。


 「……なんですか?」


 フィリップの問いに、ナイ神父はにっこりと笑って自分の左胸の辺りをちょんちょんと示す。

 ポケットを確認しろ、というジェスチャーに見えた。


 「普通に言えばいいのに……」


 ぼやきながらジャケットの胸ポケットを確認するが、何も入っていない。何も入れた覚えがないので当然だが。


 「あっ!?」


 そういえば、内ポケットには懐中時計が入っている。

 試験空間に意識が隔離される直前、フィリップは椅子に倒れ込んだはずだが、起きた時にはソファに寝かされていた。


 倒れた拍子、或いは移動の過程で壊れました。なんて報告だったら、この場で焼き殺してやるところだったが──幸い、懐中時計は無事だった。じゃあさっきの「おっと」は何だったのだろうか。


 「……ん?」


 特に何も考えずにハンターケースを開けると、時計はもう間もなく7時を指すあたり──食堂のラストオーダー直前を示していた。


 「ま、不味い!? 殿下、ご飯食べに行きましょう!」

 「ははは……そうだな、急ごうか」


 ナイアーラトテップの試験は合格だったが、後学期はまだ中盤を少し過ぎたところ。明日も実技の授業はあるし、食事や睡眠を欠くことはできない。


 慌てふためきながら部屋を飛び出したフィリップの後を、ステラがゆっくりと追いかける。

 ステラが振り返るとナイ神父はおらず、幼気な笑顔のナイ教授が楽しげに手を振っていた。正面に向き直ると、廊下を爆走しようとしていたフィリップが、部屋の前で待っていたらしいルキアに確保されていた。


 「はははは……」


 驚きと心配と焦りを浮かべるフィリップ。慈愛と心配を二人ともに向けるルキア。絶望を共有し理解し合える相手と、この悍ましい世界でなお美しい好敵手。

 その二人だけが、ステラがこの悍ましい世界で生きていられる理由だった。


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 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』

 シナリオ5 『一年後学期(仮題)』 トゥルーエンド


 技能成長:なし 


 特記事項:同行者『ステラ』が30のクトゥルフ神話技能、及び特性『フィリップ・カーターに対する共感』を取得。


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