第104話

 フィリップが試験最後の問題に際した今、ステラは自分にできることは何もないと判断した。

 魔術という矛を奪われ、繭の中にいた巨大生物には対魔術防護など意味がないと分かる。フィリップの魔術が爆発なのか、それとも別の何かなのかは不明だが、どちらにせよステラがいては邪魔になるのは間違いないだろう。


 ならば彼女がするべきは、戦場が動いても巻き込まれない程度に距離を取ることだ。


 「痛っ……」


 フィリップに全てを任せ、ステラはただ真っすぐに走ることを選択する。

 運動によって早まった血流が右手の傷から溢れるのを押さえて止めながら、その痛みと、ゆっくりと血が失われていく感覚だけを強く意識して。


 敢えて苦痛に意識を向けなければ。苦痛で意識を埋め尽くしていなければ、今にも、あの悍ましい蛹と声なき「意思」を思い出してしまいそうだった。傷口を押さえる指を食い込ませ、絶叫するほどの痛みを鎮静剤代わりに、ただ走る。


 走って、走って、走って。3キロは走っただろうというところで、ふと強烈な眩暈がする。痛みを酷使しすぎたか、はたまた失血が閾値を超えたか。

 肩で息をして呼吸を整え、手を突いていたスカートの膝が血でべっとりと汚れた頃。視線を上げると、遠くに人影が見えた。


 ──いや。それは、どうして「人影だ」と思ったのか定かでは無いほど、人とはかけ離れた姿をしていた。


 顔と思しき場所には黒く輝く三対の単眼が並び、口があるべき場所には無数の触手が蠢いているだけだ。頭部は異常なほど肥大し、髪のようにも見える太い触手が生えている。蛸のように、あの頭部に内臓全てが入っているのかもしれない。そう思わせるほど、頭部に対して胴体が細い。胴体長だけで十数メートルはありそうだが、横幅は頭部の大きさよりなお細い。


 地面を擦りそうなほどだらりと垂れ下がった腕からは虫の羽のような翅膜が生え、両足は死んだ蛙のように萎びて縮んでいた。尾のような器官が地面と接しているが、引き摺られているだけだ。それは浮かんで移動していた。

 飛行できるほどの強靭さは腕の翅からは見受けられないし、羽ばたいている様子もない。滑空とも違う、気味の悪い動き方だ。


 見るからに異形だが、それ以上に、その存在感が気に障った。

 この世の全てを冒涜するような──嘲笑や冷笑とよく似ていて全く違う雰囲気だ。神威にも似た気配を漂わせているのが、理解不能さを加速させる。どう考えても神とはかけ離れた、むしろ神に敵対するような存在なのに。


 「……っ!?」

 

 その怪物の前を走る人影に気付く。それは今度こそ人間であり──知人のものだった。


 「カーター!? 何故……いや」


 どうしてここにいるのか。

 走る方向を間違えでもしたか。砂漠や森のような景色の変わらない空間では、まっすぐ歩いているつもりでも実は曲がっていて、最終的には円を描いて同じところに戻ってきてしまう、という話は聞いていた。


 そこまで知識を引き出して、思考を強制停止する。いま考えるべきは理由ではなく対策だ。逃げるのはその後でいい。

 顎を突き出してへろへろ走っているフィリップに、あれを殺すための弱点を伝える。そのためには見るしかない。通常より多くの情報を得られる、魔力を視る目で。


 無事でいられるだろうか。

 魔力は相手の情報を詳細に、かつ直接的に伝えてくれる。それはつまり、遠目に見るだけで気が狂いそうになるあれを、拡大鏡とピンセットでつぶさに観察するようなものだ。


 怖いという言葉では全く足りない忌避感はある。だが、それは行動を決定する要因にはならない。


 「それが最適解だ」


 ほんの一言で恐怖を拭い、視界のチャンネルを切り替える。


 その直後だった。

 不自然な角度の図形や奇妙な文字で構成された魔法陣が複数個、フィリップの掲げた右手を中心として展開される。


 魔力へ焦点を合わせた目はステラの意志に関係なく、自動的に視界内の全魔術要素を読み取り──それを知る。


 遥か星の彼方にて燃え盛るもの。恒星の如き熱量を秘め、炎そのものに崇め奉られるもの。その強大さと悍ましさ。この世界の広さと小ささを。




 駄目だ、と思った。

 それを知ったが最後、何もできなくなってしまう。今でさえ人間と社会は脆すぎるのに、その認識でさえ不足していると突き付けられてしまったら。何をやっても無意味だと、無駄だと分かってしまう。


 ぶつん、と。何かが途切れる音を聞く。処理容量をオーバーした情報の流入に耐え切れなくなった脳神経が千切れでもしたか。まさかこの失血状態で血管が切れはしないだろう。

 そんな現実逃避じみた思考と、瞬きの後。


 眼前にはフィリップの姿だけがあった。何かを掲げるようなポーズ、何かを睨み付けるような表情なのは不思議だったが、無事でよかった。この見通しだけはいい空間で迷子になるとは思わなかったが、ルキアがよく手を繋いで歩いているのはそういう理由か。


 呼びかけながら駆け寄ると、フィリップは何故か血相を変えて離れろと叫ぶ。

 いつもならその理由を考え、その正当性と合理性を元に判断するところだが、今はそうしてはいけない気がした。


 フィリップが慌てふためきながら「逃げろ」と提言する。

 どうしてだろうか。逃げなくてはいけない理由は見当たらない。見当たってはいけない。


 最悪だと言いたげな顔で思考するフィリップに申し訳なく思いながら──何故? どうして申し訳なく思う必要がある? そこに何も無いのだから、おかしいのはあいつの方だ。


 思考が揺れる。

 数秒前の思考と現在の思考が噛み合わない。何が正しくて何が間違っているのか、何が合理的で何が不合理なのか判別できない。


 視界が揺らぐ。

 頭上から大質量が降ってくる──有り得ない。この場にはフィリップと自分の二人だけ、魔術の気配もない。居もしない何かが攻撃してくることなど、有り得ない。


 避けなくては。あんな気色の悪いものに潰されて死ぬなど、夢の世界でもお断りだ。何より、そんな死に様を体験して精神が無事なはずが──何を避ける? そこには、何も。


 「──っ」


 胸を強く押され、逃げたがっていた身体に弾みがつく。

 勢いのままにその場を飛び退いた直後、礫のような水飛沫が全身を打つ。水飛沫を感じる──避けている、生きている。生かされた。


 「……」


 ありがとう、助かった。胸の奥から沸き上がった謝意を声に出そうとして、一連の思考に疑問を覚える。

 何から押しのけてくれて、何を避けて、何に対する礼を言うのか。そこには何もいないというのに。


 「痛いじゃないか、カーター」


 普段なら理由を問い質すはずなのに、どうしてか、そうするのが憚られた。


 へらへらと笑って自分を誤魔化すと、フィリップがどこか諦めたような苦い笑いを浮かべた。普段の彼が見せる深い諦めではなく、グラスから零れた水や振り終えたサイコロを見るような、もっと自然なものだ。

 その反応を不思議に思った時には、彼は何かと相対するようにステラに背を向けて構えていた。


 「殿下、対爆防御を」


 フィリップが攻撃魔術を使うという警告を発する。チャンネルを魔力に合わせっぱなしだった視界から、フィリップの魔力情報がとめどなく流れ込んでくるが──どう考えても、爆発のような規模の大きい魔術を使う魔力消費ではない。

 何もいない場所へ攻撃魔術を撃つ不自然さ、不合理さから目を逸らし、普段なら目もくれないような僅かな好奇心で視線を固定する。


 「いあ いあ はすたあ はすたあ──」


 しかし、そんな好奇心も、詠唱のわずか数節を耳にしただけで吹き飛んだ。

 大陸共通語の発音ではないどころか、およそ人語とは思えない発音を喉から絞り出して唱えられる言葉は、いつも聞いているフィリップの声とは思えないほど不愉快だった。


 「……やめてくれ、カーター」


 その言葉がきちんと声に出ていたのか、自分でも判断が付かなかった。

 視界が霞み、耳が遠くなるような感覚がある。五感の全てが麻痺していくように思えるのに──どうして、その気色の悪い呪文だけが耳に障るのか。


 言葉が理解できない。全く、これっぽちも意味が分からないのに──それを理解してはいけないと分かる。


 「くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」


 あぁ、きっと、さっきの言葉は声になっていなかったのだろう。或いは、フィリップに聞き入れるつもりが無いだけなのかもしれない。

 彼の詠唱に淀みはなく、淡々と、意味不明ながら耳障りな言葉が並べられて。そして──


 「あい あい はすたあ」


 詠唱が終わり、見たことも無いような文字と記号で構成された魔法陣が投影される。

 半自動的にその魔術的情報を読み取ったステラは、その非凡なる才能で以て理解する。どの記号が魔術のどの要素を示し、文字がどのような意味を持つのかを。そして高い記憶力を活用し、浴場の壁にびっしりと描かれていた文字や記号と照応する。


 死せるクトゥルー。眠るルルイエ。黒きハリ湖。アルデバラン。黄衣の王ハスター。

 旧支配者。旧神。戦争。封印。邪神。兵士。


 視界と記憶から膨大な量の情報が流れ込み、軽い頭痛すら覚える。


 そして、その魔法陣から黒い触手が飛び出して──



 なるほど、と。軽く納得したことだけを覚えている。



 



 ──────



 知りたくなかった──


 

 ──────


 



 気が付くと、目に映る何もかもが違っていた。

 

 足元を浸すどす黒く濁った海水は、数分前まで見ていた非現実的な光景が夢などではないという証明だ。フィリップの召喚したモノが果実でも絞るように握り潰して殺した残骸。

 内臓混じりの汚れた水も、右手から滴る血液も、この真っ白な空間も、全てが色褪せて見えた。


 自分の傷、自分の血。異常な空間、異常な存在。フィリップ、ステラ自身。この場に存在するあらゆる全てが、どうでもよく感じた。


 だって、そうだろう。

 クトゥルフ、クトゥグア、ハスター。この世にはあれほど強大なものが、一挙動で人間を──人類が築き上げてきた文明や社会を、そこに住む人間諸共に滅ぼしてしまえる存在が犇めいている。ステラやルキアもそれは同じだけれど、両者の間には圧倒的な格差があった。ステラもルキアも、あれらの前では塵芥に過ぎない。


 何をやっても意味がない。何をやっても、あれらの気まぐれで全てが終わる。人間の営み、人が出来るあらゆることは、彼らにとっては何の意味も無いことなのだと知ってしまった。


 胸に穴が開いたどころか、内臓が全部無くなったのではないかと思わせる喪失感がある。

 王国、王位、合理性、魔術。今まで大切にしてきたものに対する価値感覚が、例外なく全てゼロになっていた。


 人間に実行可能な魔術では──いや、きっと天使や唯一神でさえ、あれらには敵わない。


 あれらに対する最も合理的な戦略は、全てを諦めることだ。いや、そもそも人間はあれらと対等なプレイヤーではなく、戦略の盤上に乗ることもない無価値なものだ。


 あれほど強大なものの前では、人間社会における地位など何の意味も無い。


 人の国、国家、民族、文化。あらゆる全てが、彼らの機嫌次第で滅亡する。人間という劣等存在にできるのは、その様を狂いながら見つめることだけだ。

 

 だが──それでも、ルキアは特別だった。

 あんな悍ましいものがいて、穏やかな死は救済だとすら思えるような世界だと知らされても、彼女のことだけは無価値だと思えなかった。10年以上も共に育ってきた好敵手、唯一にして最愛の友人のことだけは、死んでも無価値だなんて思いたくなかった。


 そして、ステラは疑問に対する答えを得ていた。

 この空間に来る前に抱いていた、フィリップが見せる諦めや冷笑の理由についての疑問だ。


 これほどの存在を知っていれば、天地万物が矮小な取るに足らないものに思えてしまうだろう。それを召喚し使役できるとなれば、ルキアやステラ以上に価値観が破綻するのも当然だ。ルキアやステラに限らず、人間の地位や命になんて、毛ほどの価値も感じていないだろう。フィリップの人間性は完全に死んでいる。

 そこまで考えて、右手の痛みを思い出す。

 

 人間性が死んでいる、は言い過ぎだった。

 痛みへの忌避と恐怖を見ていた。それを乗り越えて他人の為に苦痛を背負える輝かしい人間性を、ステラは確かに知っていた。


 命の価値を正確に知っていて──誰の命であれ全くの無価値だと知っていてなお、あれだけの献身が出来るなんて。


 ──なんて、羨ましい。



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