第103話
外神の特異性について今更何かを論じる必要はないだろう。彼らの本体はこの宇宙の外、時間という概念を超越した高次元にあり、時間による制限を受けない。
彼らに発生源と発生物、親と子のような関係を見出すのは無意味だ。アザトースが産み落とした「真なる闇」からシュブ=ニグラスが、「無名の霧」からヨグ=ソトースが生まれた。そして真なる闇の発生以前にシュブ=ニグラスは存在しているし、無名の霧もまたヨグ=ソトースなのだ。
人間の言語、文化、認知によって外神を規定することは不可能だといえる。
しかし、例外も存在する。
彼らの本体、本質はともかくとして、彼らは三次元存在の化身を象り、三次元世界に干渉している。三次元世界内部だけの話なら、人間の言語でもある程度は表現可能だ。
たとえば、シュブ=ニグラスは千の仔孕みし森の黒山羊として信仰される、無数の落とし仔を絶え間なく産み落とす化身を持つ。
この化身が産み落とした存在、シュブ=ニグラスの落とし仔は、当然ながら三次元存在だ。時間の軛に縛られ、外神とは比較にならない脆弱な存在である。中でもフィリップの実家近郊に漂着していた個体は、たぶん飛び切りの劣等個体だった。
あいつはシュブ=ニグラスのことを「母」と呼び慕っていたけれど、シュブ=ニグラスの側は全く認知していなかった。もし知覚していたのなら、フィリップに敵対するという暴挙に対して、踏み潰すなどという簡単な処刑では済まなかっただろう。あれは本当に、フィリップに近付くための無造作な一歩で潰れて死んだ、道端の蟻を踏むのと変わりない無頓着さだった。
外神は基本的に、三次元世界の全てを無価値と冷笑している。それは自らの化身も含まれるし、当然ながら自らの落とし仔も含まれる。
シュブ=ニグラスはたとえ一星を統べるような個体の落とし仔でも、同じように無意識に踏み潰すことだろう。そして、存在の格ではシュブ=ニグラスをすら上回る外神の副王にとって、ハスターが如何ほどの存在なのか。
フィリップに智慧を与えたのはシュブ=ニグラスだが、その中に「ハスターはヨグ=ソトースの落とし仔である」という知識はない。その時点で窺い知れるというものだった。
「あー……えっと……」
心の底でハスターを、この世の全てを無価値と冷笑するフィリップですら言い淀む。
それは人間性の残滓が「親は子を愛するもの」だと、この場には不似合いな常識を囁いてくるからであり、フィリップが両親から今も注がれる愛情を思い出してのことだった。
端的に言って、なんだか居た堪れなくなっていた。
「そ、そうだったんですね!」
なんで旧支配者を、人間とは比較にならないほど強大なモノを相手に、気を遣ってオーバーリアクションなんてしているんだろう。
フィリップが自分で抱いた疑問によっていつもの放心と無理解を湛えた無心の笑顔を浮かべていると、ハスターは自嘲も露わに笑った。
「はは。やっぱり知らなかったか。ではナイアーラトテップだね、その呪文を教えたのは」
「……はい。あの、あれって何か不味いんですか?」
おそるおそる訊ねたフィリップに対して、ハスターは勿体ぶることはなく淡々と答えた。
「あれは邪悪言語ではあるけれど、意味や内容が地球圏に寄り過ぎているんだ。君に理解できて、発音できる限界なのかもしれないけれど、「無形なる風の王」なんて呼び掛けがこの私に対して適切だと思うかい?」
確かに、とフィリップは彼が言わんとしていることを察し、思考する。
宇宙は広大で、幾千万の星々の中にはこの星のように大気を持ち、「風」という概念を有するものもあるだろう。残念ながらどの星系のどの星がそうなのかという知識は、フィリップ個人の好奇心に反して与えられていない。旧支配者の名前や特性なんぞより、そういうロマンあることの方が知りたかったのだけれど。──さておき、宇宙の何割が星で、何割が空なのか。その星の何割に知的生命体が存在し、何割が「風」という概念を共有しているのか。
ハスターは珍しくも化身を象って三次元世界に干渉したヨグ=ソトースの落とし仔らしい。であるなら、少なくとも「風」なんて限定的な概念の最上位者という称号は、彼を指し示すには余りにも不足していると言える。
その権能の一部に風を司る力があり、彼を信仰するものもまた風の概念を知っていた。だから人類に伝わる時点では「風の王」とされていた……とかだろうか。
なんだかそれっぽい仮説を立てられたぞとにんまりするフィリップに、彼は変わらず淡々と語る。
「確かに、外神にしてみれば「風」という下位次元の概念と劣等存在である私とは、簡単に結びつくものだろうけどね」
ゼロイコール、ゼロだ。と、フィリップにとっては簡単な言葉で説明してくれるハスター。
外神にとって風の概念が持つ価値とハスターの持つ価値が等しくゼロだから、ハスターが風の王と称されることに何の違和感も持たない。いや、そもそも外神は、ハスターほどの──旧支配者の中でもトップクラスの存在であっても、然して気に留めていないのだけれど。
「けれどね、君たちのような下等存在に詳しいモノもいる。戯れにヒトと交わるナイアーラトテップ、全なるものヨグ=ソトース──我が父上。そんな人間向けの呪文を知っているのは、彼らくらいだ」
つまり、何だ。
この呪文は間違っていたということか?
「少なくとも、私には届かなかった。精々が窓の外で手を振っているくらいの呼び掛けだ」
「……ナイアーラトテップが、僕に嘘を教えたと?」
複雑な感情を窺わせる声色の問いに、ハスターはやはり無感情に応じる。
「言っただろう。人体に発声可能で、人間に理解可能な限界がそれだ。ナイアーラトテップではなく君のために教えるのだけど、奴は君に嘘を吐いてはいない。その呪文は事実、私を召喚するに足る魔術だ。──そうなった、と言うべきかな? 奴は呪文や君の身体に手を加えるのではなく、私の認識を変えるという方法でその呪文を“適切”にした」
理解しかねたように首を傾げるフィリップ。理解力の無さに我ながら呆れるところだが、ハスターは嘲りや呆れを感じさせない平坦な声で説明を加える。
「君に課せられた授業は、この試験を以て完成するということだよ。あの小窓じみた召喚陣の外、つまり君の傍にクトゥルフの──我が仇敵の気配を置くことで、私に窓の外へ意識を向けさせる。あとは、窓の外で手を振る君、魔王の寵児に気付いた私が、否応なく召喚に応じるというわけだ」
「……なるほど」
それは──まぁ、確かに、理屈としては間違いないように思える。
フィリップが拘泥する脆弱な身体はそのままに、人体に詠唱可能な呪文を用いるために、ハスターの側が「呼ばれてるのか」と気付くよう仕向ける。そのためにクトゥルフの気配を用いるというのも、二者の関係性を知っていればいい方法だと分かる。
……で。こんな凝ったテストを用意する必要性はどこにある? 無関係な人間を巻き込む必要性は?
あの教会でクトゥグア召喚の練習をしていたときのように防護を万全にした上で、ルルイエなりゾス星なりと接続すれば済んだ話だろう。わざわざこんな七面倒臭いステージ、テストを使う意味はないはずだ。
「君がゴネたんだろう? これはこのままでいい、と」
諭すような言葉だが、彼の口調は全くの無色と言っていい平坦さだった。
「君の認識の甘さ、その魔術がどれだけ無意味か、その辺りのことを教え込むにはいい手だと思うけどね」
「……左様で」
「まぁ、なんでもいいけど。今後は君のその誤謬に塗れた宛先不詳の祈りでも顕現してあげるよ」
えっ、とフィリップは言葉を詰まらせる。
確かに今この場に於いては、ハスターがこうして召喚されてくれて助かった。あの貧弱な「毛先」のままでは、間違いなく「ゾス星系よりのもの」を倒せなかっただろう。
だが利便性を考えるなら、「毛先」の方がどう考えても取り回しが良い。それが使えなくなるというのは困る。
「父上の加護があって、私が必要とは思えないけれどね。……父上が個を明確に認知しているなんて、全く羨ましい限りだよ」
「…………」
ハスターの仮面はその奥を一切悟らせないが、その声には憎悪に近いほど膨大な嫉妬が含まれていた。
堪らず視線を逸らすフィリップだが、彼の感情はすぐに立ち消えた。
「まぁ、君は特別だからね。何せ“魔王の寵児”だ」
「ははは……実感のない話ですけどね……。というか、取り敢えず下ろしてもらっても?」
ここまでずっと触手に縛られて宙ぶらりんだったフィリップは地面に降りると、感覚の無くなりかけていた腕をぷらぷらと振る。もうしばらくすると強烈な痺れに襲われることだろう。
二者間の距離と体格の差から、フィリップの首は遥か上方から見下ろしてくる仮面を、天気を見るときと大差ない角度で仰いでいた。
「……君は、その異常性をどう考える?」
「どう、とは? これが僕にとって幸運だとでも?」
フィリップの浮かべた疑問と怒り以上に、ハスターの落胆と嘲笑は大きかった。
彼は仮面を外し、その下に空いた伽藍洞を向ける。どちらにせよ全く無い表情から感情を窺い知ることは難しいが、フィリップには彼が残念そうにしているように見えた。
「分からないかい? あのアザトース──盲目にして白痴であるはずの最大神格が、君を知覚し、認知し、思考し、指向し命令したんだよ? 眠りこけ、この世界を──君たちの言語体系では「世界」と訳すしかない、あらゆる全てを夢見る魔王が、意志を持って動いたんだよ? これは私たち下位存在だけでなく、父上のような上位存在にとっても青天の霹靂だっただろう。君は──」
ハスターがびくりと震え、言葉が途切れる。
おそるおそるといった体で──その巨躯と暴力的な神威には似つかわしくない怯えを滲ませて、ゆっくりと視線を下げ、自分の身体を見下ろす。
触手で編まれた身体とそれを覆う黄色の外套に、縦に一条、亀裂が走っていた。
「……これ、言っちゃ駄目だった?」
化身が破壊された程度で旧支配者が傷付くことはないはずだが、彼の声には色濃い苦痛が浮かんでいた。
何が起こったのかと困惑するフィリップの耳に、聞き覚えのある、耳触りの良い耳障りな声が届く。
「いえ、そのくらいはフィリップ君もご存知ですから。ただ、これ以上長話──いえ、無駄話をされると、彼が夕食を食べ損ねてしまいますので」
フィリップが思わず耳を塞ぐほど凄絶に嫌な音を立てて、ハスターが亀裂を中心として左右に裂ける。
タールのような血液が吹き上がり、雨のように降り注ぐ。シュブ=ニグラスの粘液とは違って人体を変異させるような有毒性はないと知ってはいるが、粘度の高い刺激臭の液体に塗れるのは不快極まりなかった。
「お疲れさまでした、フィリップ君。試験は無事終了。ハスター召喚にも成功したようで、期待通りの成果ですよ」
真っ二つに裂いたハスターの残骸を、いつもビヤーキーに対してするように跡形も無く消し去って嗤うナイ神父。彼はフィリップが気付かないうちに、すぐ正面に立って拍手をしていた。漆黒のカソックに身を包んだ長身にも、一定のリズムで繰り返される、敬意と嘲弄だけが籠った称賛の含まれない拍手にも、何の感情も湧かなかった。
それは余りにも唐突だったというのもあるし、ナイアーラトテップの口から「期待」などという面白おかしい言葉が飛び出したからでもある。
「期待? 人間に何の価値も見出していない貴方の口から出るには、些か不似合いな言葉ですね」
「では「想定通り」と言い直しましょうか。君のお気に召す方をお選びください」
純然たる嘲笑を向けられ、フィリップのこめかみに青筋が浮かぶ。この手の煽りを気にしてはいけないと分かってはいても、腹が立つのは止められない。
だが、今なら。
学院の中とも教会とも違い、確実に周囲に被害を及ぼさないこの空間の中でなら、フィリップは彼をぶっ飛ばす──もとい、焼却することができる。
「ふんぐるい むぐる──っ」
「おっと」
クトゥグアを召喚しようとしたフィリップだったが、唇に人差し指を優しく押し当てられ、息が詰まる。
無数の化身のうちの一つが焼き払われることに何の痛痒も感じないナイアーラトテップだ。普段ならそのストレス解消程度の意味しかない攻撃は甘んじて受け、直後に別な化身が煽りながら登場するところだが──彼にしては珍しく、事前に止めた。
身長差からナイ神父が腰を折っているのが妙に腹立たしいが、それ以上に理由が気になる。
「フィリップくん。君はまだ視野が狭いのですね。そろそろ視座に見合った視野を持たれては如何です?」
「は? ……?」
きょろきょろと周囲を見回すフィリップに嘲笑を向け、ナイ神父は軽やかに一歩、横に退く。
彼の身体が隠していた位置に、呆然と立ち竦むステラの姿があった。
「あぁ……」
その姿を見るまで忘れていたが、まだ死んではいなかったのか。とはいえ心身の「心」が死んでいる。50パーセント死んでいるのなら、四捨五入すれば死人だろう。閾値が何割なのかは知らないが──
「そういえば、試験は何点ぐらいだったんですか?」
「勿論、100点満点ですよ。おめでとうございます」
にっこりと、相手の性別に関わらず惚れさせてしまいそうな笑顔を浮かべるナイ神父。怪訝過ぎて笑えてくるほど胡散臭かった。
試験が100点というか、満点であるはずがないのはフィリップ自身もよく分かっている。
ステラに助けられた──彼女がいなければ失格になっていた場面はいくつかあったし、その彼女は半分死んだような状態で棒立ちだ。浴場に置いてあった書籍は殆ど吹き飛ばして使い物にならなくなったし、そのせいで「ゾス星系よりのもの」とは正面衝突を余儀なくされた。もしかしたら、あの本の中に対処法が記されたものがあったかもしれないのに。
「どういう採点です? 同行者が発狂、ギミックは未解明、最終的には力押しでの解決。試験の本旨とは──あぁ」
少し考えて正解に辿り着き、フィリップはうんざりしたように表情を歪めた。
ナイ神父は口角を吊り上げ、「ご賢察ですね」と煽る。
試験の主目的はフィリップが「ハスターの招来」を身に付けることだ。より正確には、フィリップが使う人間に詠唱可能な程度の──適当とは言い難い呪文を、度重なる試行とクトゥルフの気配によって、ハスターの側に認識させること。
つまり、フィリップがハスターを召喚したその時点で、どれほど無様な道中でも、どれほど無益な結果でも、試験は100点なのだ。部分点の無い証明問題どころか、証明事項さえ書かれていれば満点が貰える証明問題みたいなもの。酷い問題だった。
「──少なくとも貴様は、教師には向いていないな」
「はは、確かに。……あれ? 殿下、正気に戻ったんですか?」
驚きもせず、喜びもせず、ただ意外そうに声の主──ステラに問いかける。
その態度は明確に、彼女が発狂していようと正気であろうと──たとえ死んでいようと構わない、どうでもいいと示していた。ただそんなこともあるのかと観察するような、一片の興味だけが向けられていた。
演技力の無さ以上に、演技すべきであるという意識が欠けている。一国の王女の顰蹙を買うことも、誰かが発狂したり死んだりすることに対しても、何ら恐怖や忌避感を抱いていない。
まるで、人命にさえ価値を感じていないかのように。
その異常性を看破して、ステラは。
「あぁ──分かるよ」
と、力なく、しかし共感するように笑った。
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